馬謖を斬る
一
長安に還ると、司馬懿は、帝曹叡にまみえて、直ちに奏した。
「隴西諸郡の敵はことごとく掃討しましたが、蜀の兵馬はなお漢中に留っています。必ずしもこれで魏の安泰が確保されたものとはいえません。故にもし臣をして、さらにそれを期せよと勅し給わるならば、不肖、天下の兵馬をひきい、進んで蜀に入って、寇の根を絶ちましょう」
帝は、然るべしと、彼の献言を嘉納されんとしたが、尚書の孫資が大いに諫めた。
「むかし太祖武祖(曹操のこと)が張魯を平げたもう折、群臣を戒められて、――南鄭の地は天獄たり、斜谷は五百里の石穴、武を用うる地にあらず――と仰せられたお言葉があります。いまその難を踏み、蜀に入らんか、内政の困難をうかがって、呉がわが国の虚を衝いてくることは必然だといえましょう。如かず、なお諸境を堅守して、ひたすら国力を充実し、蜀呉の破綻を待つべきではありますまいか」
帝は、両説に迷って、
「司馬懿。如何に」
と、たずねた。仲達は、
「それもまた公論、易安の一理です」
と、あえて逆らわなかった。
そこで孫資の方針が採りあげられ、長安の守備には郭淮、張郃をとどめ、そのほか要路の固めも万全を尽して、帝は洛陽へ還幸した。
ときに孔明は漢中にあり、彼としてはかつて覚えなき敗軍の苦杯をなめ、総崩れの後始末をととのえていた。
すでに、各部隊のあらかたは、続々、漢中へ引揚げていたが、まだ趙雲と鄧芝の二部隊がかえって来ない。
その無事を見るまでは、彼はなお一身の労れをいたわるべきでないと、日々、
「まだか……」と、待ち案じていた。
趙、鄧の二部隊は、やがて全軍すべてが漢中に集まった最後になって、ようやく嶮路をこえてこれへ着いた。その困難と苦戦を極めた様子は、部隊そのものの惨たるすがたにも見てとれた。
孔明はみずから出迎えて、
「聞けば将軍は鄧芝の隊を先へ歩ませ、自軍は後にし、さらに自身はつねに敵と接し、以てよく最後の殿を果されて来たそうな。老いていよいよ薫しき武門の華、あなた如き人こそ真の大将軍というものであろう」
と、斜めならず、その労をねぎらい、なお庫内の黄金五十斤と絹一万疋を賞として贈った。
けれど趙雲は固く辞してそれを受けない。そしていうには、
「三軍いま尺寸の功もなく、帰するところそれがしらの罪も軽くありません。さるをかえって恩賞にあずかりなどしては、丞相の賞罰あきらかならずなどと誹りの因にもなりましょう。金品はしばらく庫内にお返しをねがって、やがて冬の頃ともなり、なにかと物不自由になった時分、これを諸軍勢に少しずつでも頒ち給われば、寒軍の中に一脈の暖気を催しましょう」
孔明はふかく感嘆した。かつて故主玄徳が、この人をあつく重用し、この人にふかく信任していたことをさすがにといま新たに思い出された。
このような麗しい感動に反して、彼の胸にはまたべつに、先頃からまだ解決をつけていない一つの苦しい宿題があった。馬謖の問題である。
馬謖をいかに処分すべきかということだった。
「王平を呼べ」
ついに処断を決するため、彼は一日、重々しい語気を以て命じ、軍法裁きを開いた。
王平がやがて見えた。孔明は、街亭の敗因を、王平の罪とは見ていないが、副将として、馬謖へつけてやった者なので、
「――前後の事情を申せ。つつまず当時のいきさつを申し述べよ」
と厳かに、まず彼の陳述からさきに訊いたのであった。
二
王平はつつまず申し立てた。
「――街亭の布陣には、その現地へ臨む前から、篤と丞相のお指図もありましたゆえ、それがしとしては、万遺漏なきことを期したつもりであります。けれど、何分にも、てまえは副将の位置にあり、馬謖は主将たるために、自分の言も聞かれなかったのでありました」
軍法裁判である。王平としては身の大事でもあったから、馬謖を庇っていられなかった。なお忌憚なく述べ立てた。
「初め、現地に赴くと、馬謖は何と思ったか、山上に陣を取るというので、それがしは、極力、その非を主張し、ついに彼の怒りにふれてしまい、やむなくそれがしの軍のみ、山麓の西十里に踏みとどまりました。けれどひとたび魏の勢が雲霞のごとく攻め来ったときは、五千の小勢は、到底、その抗戦に当り得ず、山上の本軍も、水を断たれて、まったく士気を失い、続々、蜀を脱して魏の降人に出る者があとを絶たない有様となりました。……まことに、街亭は全作戦地域の急所でした。一たんここの防ぎが破れだすと、魏延、高翔、その他の援けも、ほとんど、どうすることもできません。――以後の惨澹たる情況はなお諸将よりお訊き願わしゅうぞんじます。それがしとしては唯、その初めより終りまで、丞相のお旨をあやまらず、また最善の注意を以て事に当ったつもりで、そのことだけは、誓って、天地に辱じるものではございません」
「よし。退がれ」
口書を取って、さらに、孔明は魏延や高翔を呼出して、一応の調べをとげ、最後に、
「馬謖をこれへ」
と、吏に命じて、連れてこさせた。
馬謖は、帳前に畏まった。見るからに打ちしおれている姿である。
「……馬謖」
「はい」
「汝は、いとけなき頃より兵書を読んで、才秀で、よく戦策を暗誦じ、儂もまた、教うるに吝かでなかった。しかるに、このたび街亭の守りは、儂が丁寧にその大綱を授けつかわしたにかかわらず、ついに取り返しのつかぬ大過を犯したのはいかなるわけか」
「……はい」
「はい、ではないっ。あれほど、街亭はこれわが軍の喉にもあたる所ぞ、一期の命にかけても重任を慎しみ守れと、口のすっぱくなるばかり門出にもいい与えておいたではないか」
「面目次第もありません」
「咄。乳臭児。――汝もはやもう少しは成人していたかと思っていたが、案外なるたわけ者であった」
憮然として痛嘆する孔明の呟きを聞くと、馬謖は日頃の馴れた心を勃然と呼び起して、その面にかっと血の色をみなぎらして叫んだ。
「王平は、何と申し立てたか知りませんが、あれ程な魏の大兵力が来たんでは、誰が当ってもとても防ぐことは難しいでしょう」
「だまれ」
睨めつけて、
「その王平の戦いぶりと、汝の敗北とは、問題にならない程ちがう。彼は、麓に小塞を築いて、すでに蜀軍が総崩れとなっても、小隊の隊伍を以て、整々とみだれず、よく進退していたため、敵も一時は彼に伏兵やある、なんらかの詭策やある、と疑って敢えて近づかなかった程だったという。――これは蜀全軍に対して後の掩護となっておる。――それにひきかえ汝は備えの初めに、王平の諫めも用いず、我意を張って、山上に拠るの愚を敢えてしているではないか」
「そうです。けれど兵法にも……高キニ拠ッテ低キヲ視ルハ勢イスデニ破竹……とありますから」
「ばかっ」
孔明は耳をふさぎたいような顔をしていった。
「生兵法。まさに汝のためにあることばだ。今は何をかいおう。――馬謖よ。おまえの遺族は死後も孔明がつつがなく養ってとらせるであろう。……汝は。汝は。……死刑に処す」
いい渡すと、孔明は、面をそむけて、武士たちの溜りへ向い、
「すみやかに、軍法を正せ。この者を曳き出して、轅門の外において斬れ」
と、命じた。
三
馬謖は声を放って哭いた。
「丞相、丞相。私が悪うございました。もし私をお斬りになることが、大義を正すことになるならば、謖は死すともお恨みはいたしません」
死をいい渡されてから、彼は善性をあらわした。それを聞くと孔明も涙を垂れずにはいられなかった。
仮借なき武士たちは、ひとたび命をうくるや、馬謖を拉して轅門の外へ引っ立てたちまちこれを斬罪に処そうとした。
「待て。しばし猶予せい」
これは折ふし外から来合せた成都の使い、蒋琬の声だった。彼はちょうどこの場へ来合せ、倉皇、営中へ入って、すぐ孔明を諫めた。
「閣下、この天下多事の際、なぜ馬謖のような有能の士をお斬りになるのか。国家の損失ではありませんか」
「おお、蒋琬か、君のごとき人物がそんな事を予に質問するのこそ心得ぬ。孫子もいった。――勝チヲ天下ニ制スルモノハ法ヲ用ウルコト明ラカナルニ依ル――と。四海わかれ争い、人と人との道みな紊るとき、法をすて、何をか世を正し得べき……ふかく思い給え、ふかく」
「でも、馬謖は惜しい、実に惜しいものだ。……そうお思いになりませんか」
「その私情こそ尤なる罪であって、馬謖の犯した罪はむしろそれより軽い。けれど、惜しむべきほどな者なればこそ、なお断じて斬らなければならぬ。……まだ斬らんのか。何をしておる。早く、首をみせよ」
孔明は、侍臣を走らして、さらに催促させた。――と、間もなく、変り果てた馬謖のすがたが、首となってそこへ供えられた。ひと目見ると、孔明は、
「ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを」
と、面を袖におおうて、床に哭き伏した。
とき蜀の建興六年夏五月。若き馬謖はまだ三十九であったという。
首はただちに、陣々に梟示され、また、軍律の一文が掲げられた。
その後、糸をもって、胴に縫いつけ、棺にそなえて、あつく葬られた。かつ、その遺族は、長く孔明の保護によって、不自由なき生活を約されたが、孔明の心は、決して、慰められなかった。
――罪、我にあり。
孔明の自責は、みずから刃を身に加えたいほどだった。しかし蜀の危急はさし迫っている。なおかつ先帝の遺託もある。彼は身の重責を思うと死ぬにも死ねない思いを新たに持つ。そして遂に、こういう形をとるほかなかった。
成都へ帰る蒋琬に託して、彼は一文を表して、蜀帝に奏した。
それは全章、慙愧の文ともいうべきものだった。このたびの大敗が、帰するところまったく自己の不明にあることを深く詫び、国家の兵を多大に損じた罪を謝して、
(――臣亮は三軍の最高に在りますために、たれも臣の罪は罰するものがありません。故に、自分みずから臣職の位を三等貶して、丞相の職称は宮中へお返し申しあげたいとぞんじます。ねがわくはしばし亮の寸命だけはおゆるしおき希います)
という意味のものだった。
帝は大敗の報に非常に胸をいためておられたところであるが、孔明の表を読むやなお心を悩まされ、勅使を派して、
「丞相は国の大老である。一失ありとて、何で官位を貶してよいものぞ。どうか旧の職にとどまってさらに、士気を養い、国を治めよ」
と、伝えさせたが、
「すでに、馬謖を斬って、法の尊厳をあきらかにしたものを、私みずからそれを曖昧にするようなことでは、到底、このさきの軍紀を正し、蜀の国政にあずかることもできません」
孔明はそう拝答するのみで、どうしても旧職に復さなかった。
やむなく朝廷でも、ついに彼の希いを容れ、同時に丞相の称を廃して、
「以後は、右将軍として、兵を総督せよ」
と、任命した。
孔明はつつしんで拝受した。
四
いかなる強国でも、大きな一敗をうけると、その後は当然、士気も衰え、民心を銷沈するのが常である。
しかし蜀の民は気を落さなかった。士気もまた、
「見ろ、この次は」
と、かえって烈々たる敵愾心を燃えあがらせた。
孔明が涙をふるって馬謖を斬ったことは、彼の一死を、万世に活かした。
(――時ニ二十万ノ兵、コレヲ聞イテミナ垂泣ス)と「襄陽記」の内にも見える。
そのため、敗軍の常とされている軍令紀律の怠りは厳正にひきしめられ、また孔明自身が官位を貶して、ふかく自己の責任をおそれている態度も、全軍の将士の心に、
「総帥の咎は、全兵の咎だ。わが諸葛亮ひとりに罪を帰してはおけない。今に見ろ」
という敵愾心をいよいよ深めた。
馬謖の死は、犬死でない、と共に、孔明はなお善行を顕賞した。さきには老将軍の趙雲をねぎらったが、王平が街亭の戦に、軍令に忠実であった点を賞して、彼を新たに参軍へ昇進させた。
勅令をおびて漢中に来ていた費褘が、ある時、彼をなぐさめる気でいった。
「西城の多くの百姓が、閣下を慕って、漢中へ移ってきたと聞いて、蜀中の百姓はみなよろこんでおりますよ」
孔明は、苦々しそうに、つぶやいた。
「普天の下、漢土でないところはない。あなたの言は、国家の威力がなお足らないことをいっているのと同じだ」
「姜維という大将を獲られたそうではありませんか。帝にもたいへんおよろこびでした」
「お追従は止して下さい。ひとりの姜維を得たとて、街亭の大敗は補えません。いわんや失った蜀兵をや。諂いは軍中の禁物です」
はたから見ると、度が過ぎると思われる程、彼はなお自責して慎しみを守っていた。
また、ある人が、孔明にこういったこともある。
「神算ある閣下のこと、再び兵を出して魏に返報をすることはもうお胸にあるでしょう」
「いや、そうもいかん」
孔明はかぶりを振った。
「そもそも、智謀ばかりでは戦に勝てない。また、先頃の大戦では、蜀は魏よりも兵力は多かったが、負けてしまった。量るに、智でもなく数でもない」
彼はそこで眦をふさぎ、しずかな呼吸を幾つか数えてから次のような言をもらした。
「大兵を要しない。むしろ将兵の数を簡にして練磨を尊ぼう。また軍紀が第一だ。諸子はまた、もし予に過ちあったときは遠慮なく善言してくれい。それが忠誠である。……以上のことを鉄心一体に持てば、いつか今日の辱をぬぐえるであろう」
漢中の軍民は、伝え聞いて皆、孔明とともに自己を責めた。そして練武研心、後図を抱いて、毎日、魏の空を睨まえない日はなかった。
もちろん孔明その人も、捲土重来をふかく期していたのである。彼は、そのまま漢中にとどまった。そして汲々として明日のそなえに心魂を傾けた。
(――民ミナ敗ヲ忘レテ励ム)
当時、蜀の国情と士気とは、まさにこの語のとおりであった。其の敗れは、その国の内より敗れたときである。たとい一敗を外にうけても、敗れを忘れて、より強く結束した蜀国家には、なお赫々たる生命があった。