戦車と地雷
一
この日は、藤甲兵の全軍に、兀突骨もみずから指揮に立って、江を渡ってきた。
蜀兵は、抗戦に努めると見せかけながら、次第に崩れ立ち、やがて算をみだして、旗、得物、盔を打ち捨て、われがちに退却した。
そして、一竿の白旗が、ひらひら見える地点に集結していた。
「敵は逃げ癖がついた。もう大丈夫。追いまくってみなごろしにかかれ」
兀突骨は、勝ち誇って、味方の後陣にいる孟獲へも合図した。そしていよいよ、追撃を加え、ふたたび敵の集結を衝いた。
魏延は予定のことなので、戦っては敗れ、戦っては敗れと見せかけながら、第三の白旗、第四の白旗と、敗退地点をたどって、退却をつづけた。
七日のうちに三ヵ所の陣屋を捨て、七ヵ所の集結を崩して逃げた。
「はてな? 少し脆すぎるぞ」
兀突骨も疑いだしたのだろう。少し追撃がゆるくなった。で、魏延は急に気勢をあげ、新手を加えて、逆襲を試みた。
逆襲戦では、先頭に進み、兀突骨へ一騎打ちを挑んだ。そして彼の戟先から逃げ走ったので、兀突骨は、
「今こそ」と、拍車を加えて、追いかけにかかった。
誘導作戦はむずかしい。逃げ過ぎても疑われる。魏延は折々、引き返して、敵を罵り、また虚勢を示し、ついに、十五日の間、十五ヵ所の白旗をたどって、逃げに逃げた。
ここに至ってはついに猜疑深い兀突骨も、自身の武勲に思い上がらざるを得ない。部下をかえりみて、大象の上から豪語した。
「なんと見たか。連戦十五日のうちに、蜀の塁を踏み破ること七ヵ所、戦って勝ち抜くこと十五度。すでに桃江から三百余里の間に、一兵の敵もないじゃあないか。さしもの孔明も風を望んで逃げ奔り、大事すでに定まったも同様だ。いちど凱歌をあげろ! 凱歌を!」
あげた戦果と、分捕った酒に酔って、凄じい気焔を示し、無敵藤甲軍の自信いよいよ満々と、次の日の戦いへ臨んだ。
この日、大将兀突骨は白象にのり、白月の狼頭帽をいただき、青金白珠をちりばめた鱗縅しの胴を着込んで、四肢は黒々と露出し、さながら羅漢の怒れるような面をして、蜀軍の中へ、鉄鎗を揮っていた。
魏延はこれを迎えて、奮戦力闘を試みた後、わざと奔って一山を逃げめぐり、盤蛇谷のふところへ逃げこんだ。
部下と共に、追撃してきた兀突骨は、一応、白象を止めて、
「伏兵はいないか」と、用心深い眼で見まわしていたが、四山に草木もなく、埋兵の気ぶりも見えないので、意を安んじ、全軍をこの谷に休めて、
「蜀軍はどこへ失せたか」と、一息入れていた。
すると手下の蛮兵が、
「これから奥へかけて、巨きな箱車が、諸所に十何輛も置き捨ててあります」
と、知らせて来たので、自身視察してみると、なるほど、兵糧を積んだ貨車かと思える車が諸所に散乱している。
「これはすばらしい鹵獲品だ。敵は狼狽の余り、谷間へ貨車を引きこんでしまい、山路に出会って、退くも進むもならず、置き捨てて奔ったものだろう。貨車の内には、成都の珍味があるに違いない。あれを皆、谷の外へ曳きだしてまとめておけ」
そして彼自身も、後へ戻って、谷道の峡口を出ようとすると、突如、天地を鳴り轟かせて、巨岩大木が頭上へ降ってきた。
「あなや?」と、仰天して、退く間もなく、左右の蛮兵は、大石や大木の下になって、何百ともなく屍となっている。その上にもなお、大木や岩が落ちてくるので、たちまち、谷口はふさがってしまった。
「山上にまだ敵がいるぞ。早く出ろ。早く道を拓け」
狂気の如く、彼が叱咤していると、その側にあった一輛の車がひとりでに焔を噴き出した。
いよいよ愕いて、全軍われがちに、谷の奥へなだれ打ってゆくと、轟然大地が炸けた。烈火と爆煙にはねとばされた蛮兵の手脚は、土砂と共に宙天の塵となっていた。
二
兀突骨は白象の背から跳びおりた。白象は火焔に狂って火焔の中へ奔りこんで自ら焼け死んだ。
彼は断崖へしがみついて、逃げ登ろうとしたが、左右の山上から投げ炬火が雨の如く降り注いでくる。のみならず、岩間岩間や地の下に隠れていた薬線に火がつくと、さしも広い谷間も、須臾にして油鍋に火が落ちたような地獄となってしまった。
火の光は天に乱れ、炸音は鳴りやまず、濛々の煙は異臭をおびてきた。
烏戈国の藤甲軍は、一兵ものこらず、焼け死んでしまった。その数は三万をこえ、火勢のやがて冷めた後、これを盤蛇谷の上から見ると、さながら火に駆除された害虫の空骸を見るようであった。
孔明は、翌日そこに立ち、はらはらと涙をながして、
「社稷の為には、多少の功はあろうが、自分は必ず寿命を損ずるであろう。いかにとはいえ、かくまで、殺戮をなしては」と、嘆息した。
聞く者みな哀れを催したが、ひとり趙雲は、然らずと、かえってそれを孔明の小乗観であると難じた。
「生々流相、命々転相。象をなしては亡び、亡びては象をむすぶ。数万年来変りなき大生命のすがたではありませんか。黄河の水ひとたび溢るれば、何万人の人命は消えますが、蒼落としてまた穂は実り人は増してゆく。黄河の狂水には天意あるのみで人意の徳はありませんが、あなたの大業には王化の使命があるのではありませんか。蛮民百万を亡ぼすも、蛮土千載の徳を植えのこしておかれれば、これしきの殺業何ものでもございますまい」
「ああ。……よく云って下すった」
孔明は趙雲の掌を額にいただいてさらに落涙数行した。
さるほどに、一方南蛮王孟獲は、後陣屋にあって、まだ烏戈国兵の全滅を夢にだも知らずにいた。
ところへ約千人ばかりの蛮兵が迎えにきて、
「烏丈国王には藤甲軍をひきいて、さしもの蜀勢を追いつめ追いつめ、遂に、盤蛇谷へ孔明を追い込みました。大王にもすぐ来られて、ともに孔明の最期をご覧あれとのお伝えです」
聞くや孟獲は、
「しめた。孔明も百年目だ」
と、直ちに大象にのって、部下総勢と共に、盤蛇谷をさして急いできた。
「や、余りに先を急いで、道を間違えたのではないか」
気づいた時は、案内として、先に馳けていた怪しげな蛮兵千人の一隊は、どこへ行ったか見当らなかった。
「ちとおかしいぞ」
引っ返そうとすると、時すでに遅し。
一方の疎林から張嶷、王平、鼓を打って殺出し、一面の山陰からは、魏延、馬忠、喊呼をあげて迫ってきた。
「もどれっ、いや先へ行け」
狼狽のあまり、山の根まで突き当るように奔ってゆくと、山上の旗鼓、いちどに雪崩れおりて来て、
「孟獲、覚悟」
と、早くも関索、馬岱などの蜀将の若手が、龍槍、蛇矛を揮って馳け向ってきた。
「しまった」
白象は鈍重すぎる。孟獲は跳びおりて、林の中の一路へ走りこんだ。
すると前面から、りんりんと金鈴銀鈴をひびかせて、絹蓋涼しげに一輛の四輪車が押されてきた。孔明である。あのにこやかな笑みである。羽扇をあげて一喝、
「反奴孟獲。まだ眼がさめぬかっ」
と浴びせかけた。
孟獲は眼がくらくらとなって、あ――と高く両の拳で天を衝いたと思うと、うーむっと、大きな唸きを発して、それへ気を失って倒れてしまった。
難なく縄にかけて、馬岱がそれをひいて帰った。猛獣でも眼を眩すほどな神経があるものかと、蜀の諸大将は笑い合って、彼の仮檻房を覗いて通った。