絶妙好辞
一
思いがけぬ孔明の言葉に、老将黄忠の忿懣はやるかたなく、色をなして孔明に迫るのだった。
「昔、廉頗は年八十に及んで、なお米一斗、肉十斤を食い、天下の諸侯、これをおそれ、あえて趙の国境を犯さなかったといいます。まして私は、未だ七十に及ばず、何ゆえに老いたりとて、さように軽んじられるのですか、それがしただ一人、三千余騎を率い、必ず、夏侯淵の首を取って参るでしょう」
孔明は、なお聴かない。黄忠は幾度となく、執念深く許しを乞うので、ついに孔明も折れて、
「強いて行かれるならば、法正を監軍として同伴なさい。そして万事合議して、慎重に事を行うがよろしい。決して軽々になさってはなりません。我もまた兵を以て援助しましょう」
と条件を附して許した。
黄忠は文字通り勇躍、兵を率いて出発した。その後、孔明はひそかに玄徳に向い、
「老将黄忠、ただ簡単に許しては駄目なのです、ああして言葉をもって励まして、初めて責任も一層強く感じ、相手の認識も新たにすると申すものです。ただいま出発致しましたが、別に援兵を送る必要がありましょう」といって、許しを乞い、早速趙雲をよびよせ、
「ご辺、一手の兵を率い、小路より奇兵を出し、黄忠に力を添えて欲しい。しかしながら、黄忠の軍勝ちにあらば、決して出ることなかれ、彼が敗色濃きおりを見て援けよ」と命じ、また劉封、孟達は、ともに三千余騎をひきいて、山中の険阻なる所に、堂々と旗を立て、味方の勢いの壮んなるところを示して、敵の心を惑わすべしと申しつけた。そして厳顔には、巴西、閬中にゆかせ、張飛、魏延と交代して難所を守り固め、張飛、魏延は還って漢中攻略をなさんとし、また下弁へ人を派して、馬超に孔明の計を伝える、という完璧の攻略手配を、秩序よく行った。
孔明がひとたび断を下してからの進行ぶりは見事にも鮮やかなものである。
こちらは、天蕩山を追われ、定軍山に逃げのびて来た張郃、夏侯尚の両名は、夏侯淵に見え、
「味方は大将を討たれ、多くの兵を損じたり。その上、玄徳みずから蜀の大軍を配し、漢中を攻めんとの説あらば、即刻、魏王に救援の兵をもとめ給え」
と進言。夏侯淵大いに驚き、この旨を曹洪に向って報じ、曹洪はまた早馬を飛ばして都の曹操に通じた。
曹操はこの報に接し、いそぎ文武の大将を召集して、緊急会議を開いた。
席上、長史劉曄は、
「漢中は土壌肥沃にして生産物多く、民はまた盛んにして、まことに国の藩屏と申すべきところ。万一敗れて、これが敵の手中におちては魏のうち震動するに違いありません。願わくは大王みずから労をはばからず、駕をすすめて全軍を指揮なさるべきでしょう」と、決意をうながした。
曹操は実にもとうなずき、
「さきごろも、汝が言を用いずして、今これを後悔している」
と称し、一議もなく、即時四十万の大軍を起し、七月都を発って、九月には長安に入った。
ここで陣容を整え、先ず全軍を三手に分った。
即ち、主力の中軍に曹操。
先手陣、夏侯惇。
後陣、曹休。
曹操は白馬にまたがり、黄金の鞍をそなえ、玉をもってつくられた轡をとる。
錦の袍を着した武士、手に紅羅の傘蓋をささげて、左右には、金瓜、銀鉞、戈矛をさしあげ、天子の鑾駕の偉容を整えさせている。
また、龍虎になぞらえた近衛兵二万五千、これを五手に分け、いずれも五色の旗を持って、龍鳳日月の旗を中心に控えた有様は、まばゆきばかりの美しさと、天下を睥睨する威容をつくって、見事なものであった。
二
絢爛たる軍容粛々とあたりを払って、潼関にまで進んだ。
曹操は、遥かに樹木の生い繁った所を見て、
「あれは、いずくぞ」と、従者に問う。
「藍田と申すところです。あの樹林のうちが、すなわち蔡邕の山荘でございます」
近侍の答えに、曹操は往事を思い出して、山荘を訪れようといった。
むかし、蔡邕と交わりを深めていた頃の話であるが、蔡邕に蔡琰という娘があった。縁あって、衛道玠に嫁いだが、韃靼に生虜られ、胡のために無理に妻とせられてしまった。
蔡琰の悲嘆は、天地も崩れるばかりであったが、ついに胡の子二人までも生んだ。しかし明けるにつけ、暮るるにつけ、この沙漠不毛の国に囚れては、故郷恋しく、涙に袖の乾く間もなかった。
とりわけ、胡が好んで吹く、笳という笛を聴くたびに、郷愁はますばかりで、ついには、思慕の悲しさから、みずから十八曲を作曲した。
この曲が、いつしか伝え伝わって、中国に流布されたのを、偶然曹操が聴き、その心情の哀れさに、韃靼国へ人をつかわして、千両の黄金をもって蔡琰を渡すよう交渉した。
胡の左賢王も、曹操が勢いの盛んなるを知っていたので、渋々ではあったが、蔡琰を還してよこした。
曹操はよろこんで、董紀に、その妻として蔡琰をめあわせた。
いまはからずも、蔡邕の荘と聞き、大軍を先に進ませ、みずからは近習のもの百騎ほどを連れて、董紀の宅を訪れた。
ちょうど主人の董紀は所用で留守であったが、曹操がわざわざの来駕と聞き、蔡琰は驚いてみずから鄭重に迎えた。
曹操は、堂に坐して、健勝をよろこび、堂内をうち眺め、壁に一つの碑文を書した画軸のあるのに気づき、
「これは、いかなるものか」
と訊ねた。蔡琰はかしこまって、
「これは、曹娥と申すものの碑文でございます。昔、和帝の朝、会稽の上虞というところに、曹※と申す一人の師巫がおりました。この人は神楽の上手な人で、ある年の五月五日、したたか酒に酔いまして、舟の上で舞いますうち、あやまって川に落ち、水に溺れて、とうとう死にました。その人に十四歳になる娘がありましたが、これを哭き哀しみまして、毎日毎夜川のふちをめぐっておりましたが、七日七夜目、とうとう娘も淵に飛び込んでしまったのです」
曹操は、感じ入ったごとく、まじろぎもせず、蔡琰が語るを聴き入っていた。
「……それから五日目のことでございます。その娘が、父の屍を負うて、水面に浮び出ましたので、里の人々は父を思う娘の一念に驚きましたが、この心を憐れに思いまして、岸の辺にねんごろに葬りました。程なく、このことが、上虞の令度尚と申す人から帝に奏され、孝女なりと仰せられ、邯鄲淳に文章を草すべく命ぜられ、石にそのことを刻まれました。邯鄲淳はこのとき年歯わずかに十三歳で、筆を揮ってこの文を作し、一字も訂正しなかったと申します。父蔡邕はこのことを聞きまして、碑のもとに行き、その文を見ようとしましたが、日すでに没し、読むことができませんので、指で石を撫で、筆画を探って読み、感じて、碑背に八字を書きつけましたが、後になって里人が、その八字を刻みつけました。そちらにございますのが、父の筆の跡でございます」
蔡琰の指すほうの軸を見れば、
「黄絹幼婦。外孫韲臼」
と八字が書かれてあった。
曹操は、この文を読み下して、蔡琰にむかい、
「汝、この八字の書の意味を知るか」と訊ねた。
蔡琰は、頬を染め、
「父が書きました書、その意を知りたくは思っておりましたけれど、未だにその意味を解しかねております」と答えた。
三
曹操は席にあった大将たちに向って、
「誰か、この文意を解したものがあるか」
と見廻したが、誰も解き得ないと見え、揃ってただ首をうなだれて答える者はない。
すると、そのうちから一人、
「それがし、解き得たように存じます」
と立ち上がった者があった。見れば、主簿の役にある楊修であった。
曹操は楊修が、その文意を語りだそうとするのを押えて、
「さようか、しかし、しばらくそれをいわずにおるように、予も考案して見よう」
と馬にまたがり、山荘を出て行ってしまった。
しばらくして、莞爾とした顔を現し、楊修に向い、
「汝の考えを申して見よ」
という。楊修がかしこまって、
「これは確かに隠し詞に違いございません。黄絹と申すは即ち色の糸、文字にしますれば『絶』の字にあたります。幼婦は即ち少き女『妙』の字です。外孫は即ち女の子、これ『好』でありましょう。韲臼は即ち辛きを受ける器で『辞』の字に当ると考えます。これを連ねて『絶妙好辞』これは邯鄲淳の文を賛して、絶れて妙なる好き辞と褒めたものと存じますが」
よどみなく説明した。
曹操大いに愕いて、予の考えも全く同じであった、と楊修を賞した。山荘を出でて本軍を追い、日ならずして漢中に着いた。
漢中にあった曹洪はうやうやしくこれを出迎え、まず張郃がたびたびの戦に敗れたことを語った。
曹操は、
「これは張郃の罪ばかりではない、勝敗は、武士の常の道、とがむることはあるまい」
と、温かい心を示した。
曹洪は目下の情勢を、
「敵は玄徳みずから大軍を指揮致し、黄忠に命じて定軍山を攻めさせた様子ですが、夏侯淵はどうしたことか、大王がおいでになると聞いて、固く守るのみで、戦闘を致さぬ模様でございます」
と報告した。曹操はこれを聞き、
「いや、そんなことをしていてはならぬ。戦を挑まれながら、出でて戦わざるは、臆していると見られる。早く使者をつかわして予が令を伝え、いさぎよく出でて戦うよう計らえ」と命じた。
劉曄はそばから、
「夏侯淵は性急の上に剛直ですから、おそらく敵の計略にかかって痛い目に逢うに違いありません、おやめになったほうがよろしいでしょう」
と諫めたが、曹操は取上げず、手ずから王命を書して、定軍山の夏侯淵のもとに使いを派した。
夏侯淵は、いつか必ず王命のあることと期待していた折であったので、喜んで親書を開いた。それには、
詔シテ夏侯淵ニコレヲ知ラシム。オヨソ将タルモノハ、当ニ剛柔ヲ以テ相済ウベク、イタズラニソノ勇ヲノミ恃ムベカラズ。シカレドモ将トシテハ、マサニ勇ヲモッテ本トナシ、コレヲ行ウニ智計ヲ以テスベシ。モシ只ニ勇ニ任ズル時ハ、コレ一愚夫ノ敵ノミ。吾イマ大軍ヲ南鄭(漢中)ニ屯シ、卿ガ妙才ヲ観ント欲ス。二字ヲ辱ムルナクンバ可也(妙才ハ夏侯淵ノ字)
とあった。彼は勇躍した。早速に兵を調え、張郃を呼んでいうには、
「只今、魏王の大軍は漢中に到着、予に命じて、敵を討たしめんとす。予、久しくこの所を守って、一度も会心の勝負をなさず、髀肉の嘆をかこちいたり、明日、みずから出でて、思うさま戦い、まず黄忠を生捕って見しょう」
張郃はこれを危なかしく聞き、
「どうぞ軽々しく出撃なさらぬよう。黄忠は智勇ともに備え、加うるに法正と申すは、戦略にたけたる者、この地は幸いにして要害堅固なのですから、進まずに、堅く守られるが賢明と存じます」
と極力思いとどまらせようとした。