木牛流馬
一
「それがしは、魏の部将鄭文という者です。丞相に謁してお願いしたいことがある」
ある日、蜀の陣へ来て、こういう者があった。
孔明が対面して、
「何事か」
と、質すと、鄭文は拝伏して、
「降参を容れていただきたい」と、剣を解いて差し出した。
理由を問うと、鄭文は、
「それがしは、もとから魏の偏将軍でした。然るに、司馬懿の催しに応じて、参軍してから後は、自分より後輩の秦朗という者を重用して、それがしを軽んじるのみか、軍功を依怙贔屓になし、あまっさえそれがしが不平を洩らしたと称して、殺さんとする気振りすらあるのです。犬死せんよりはと、丞相の高徳を慕って降伏にきた次第です。お用い下されば、この恨みを報ぜんためにも、きっと蜀のために忠を尽しましょう」と、述べた。
すると、祁山の下の野に、一騎の魏将が、鄭文を追ってきて、鄭文を渡せと、しきりに喚いていると、営外の物見が報らせてきた。
「誰か汝を追ってきたというが、汝に覚えのある者か」
孔明が訊くと、
「それこそ、それがしのことを、つねに司馬懿に讒している秦朗でしょう。司馬懿にいいつけられて、追手に来たものでございましょう」
と、鄭文は急にそわそわしだした。
「汝とその秦朗とは、いずれが武勇が上か。司馬懿が秦朗を重用するというのは、汝の武勇が彼より劣るためではないか」
「そんなことはありません。断じて秦朗ごときに劣るそれがしではない」
「もし汝の武勇が秦朗に勝るものならば、司馬懿は讒者の言に過られたもので曲は彼にありといってよい。同時に、汝の言も信ずるに足りよう」
「そうです。その通りです」
「では、すぐ馬をとばして、秦朗と一騎打ちを遂げ、その首をこれへ持ってこい。然る後、降を容れ、重き位置を与えよう」
「お易いこと。丞相も見て下さい」
鄭文は、馬をとばして、野へ駈け下りた。
そこに待っていた魏の一将は、
「やあ、裏切者め。わが馬を盗んで、蜀陣へ逃げ込むとは、呆れ返った恥知らず、司馬懿大都督の命に依って誅殺を下す。わが刃をうけよ」
大音にいって、鄭文へ斬ってかかった様子に見えたが、まるで腕がちがうとみえて、からみ合ったかと思うとたちまち鄭文のために返討ちにされていた。
鄭文はその首を掻っ切ってふたたび孔明の前へ戻ってきた。孔明はもう一度いいつけた。
「秦朗の屍や衣裳も持ってこい」
鄭文はまた駆け戻って、死骸を揃えた。孔明は篤と見ていたが、
「鄭文の首を斬れ」
と左右の武士へ命じた。
「あっ。な、なんで。――それがしを?」
と、鄭文は首を抱えて絶叫した。孔明は、笑った。
「この屍は、秦朗ではない。秦朗は予も前から見知っている。似ても似つかぬ下郎をもって秦朗なりと欺いても、その計には乗らん。思うに、仲達が申しつけた偽計にちがいあるまい」
鄭文は震いおそれて、その通りですと自白した。孔明は思案していた。そして何か思い直したように、
「鄭文を檻車に入れておけ」と、しばらく斬るのを見合わせた。
翌日。孔明は自分の書いた原文を示して、
「命が惜しくば、司馬懿へ宛ててこの通りの書簡を書け」と、鄭文へ筆紙を持たせた。
鄭文は檻の中でその通りの書簡を書いた。これを持った蜀の一兵は附近の住民に姿を変えて、魏の陣へまぎれ入った。そして、
「鄭文という人から頼まれて来た者ですが」
と、司馬懿の側臣に手渡した。
司馬懿仲達は、書簡を熟視した。筆蹟は鄭文にまぎれない。彼はいたく歓んだ様子で、使いの男に酒食を与え、誰にも洩らすなと口止めして帰した。
二
鄭文の書簡には、
――明夜、祁山の火を合図に、都督みずから大軍をひきいて攻め懸り給え。孔明不覚にもそれがしの降伏を深く信じて、この身彼の中軍にあり。時を合わせて呼応一掴、孔明を擒人になさんこといま眼前に迫る。期してはずし給うな。
というような文意であった。
容易にひとの計略にはかからない司馬懿も、自分の仕掛けた計略にはつい懸った。翌日一日、密々準備して、夜に入るや、渭水の流れをそっと渉らんとした。
「父上にも似気ないことを」
息子の司馬師は父に諫めた。一片の紙片を信じて、これまで自重していた戦機を、我から動かすなどということは、日頃の父上らしくもない軽忽であると直言したのである。
「げにも」
と、司馬懿は子の言を容れて、急に、自分は後陣へまわり、べつな大将を先陣に配した。
その夜、宵のうちは、風清く、月明らかで、粛々たる夜行には都合が悪かったが、渭水を渉る頃から、夜霧ふかく、空も黒雲にとざされて来たので、司馬懿はかぎりなく歓んで、
「これ、天われを助くるもの」
と、人は枚を喞み、馬は口を勒し、深く蜀陣へ近づいた。
一方。この夜を期して、
「かならず司馬懿を捕えん」
と、計りに計っていた孔明も、剣に仗り、壇に歩して昼は必勝の祈祷をなし、夕べは血をそそいで諸将と決死の杯を酌み交わし、夜に入るや手分けを定めて、三軍、林のごとく待ちうけていた。
夜は更けて、黒霧迷濛たる頃、忽然、堰を切られた怒濤のごときものが、蜀の中軍へなだれ入った。しかしそこの営内は空虚だった。魏勢は怪しみ疑って、
「敵の計に陥ちるな」と、戒め合ったが、すでにそのとき魏勢は完全に出る道を失っていたのである。
鼓角、鉄砲、喊の声は、瞬時の間に起って、魏の先鋒の大半を殲滅した。その中には、魏将の秦朗も討死を遂げていた。
司馬懿は幸いにも後陣だったので、蜀の包囲鉄環からは遁れていたが、残る兵力を救わんため、一たんは強襲を試みて、彼の包囲を外から破らんとした。しかし、それも自軍の兵力をおびただしく損じたのみで、残る先鋒軍の約一万も敵の中に見捨てて、引き退くしかなかった。
「かくの如き平凡なる戦略にかかって、平凡なる敗北を喫したことはない」
めったに感情を激さない司馬懿も、この時ばかりはよほど口惜しかったとみえて、退陣の途中も歯がみをした。
しかもその頃になると、空はふたたび晴れて、晃々たる月天に返り、一時の黒雲は夢かのように考えられた。で、生き残って帰る魏将士の間には、誰いうとなく、「これは孔明が、八門遁甲の法を用いて、われらを黒霧のうちに誘い、また後には、六丁六甲の神通力を以て、黒霧をはらい除いたせいである」
というような妖言を放って、しかも誰もそれを疑わなかった。
「ばかを申せ、彼も人、我も人。世に鬼神などあるべきでない」
司馬懿は陣中の迷信に弾圧を加え、厳しく妄言を戒めたが、孔明は一種の神通力を持って、奇蹟を行う者だという考えは牢固として抜くべからざる一般の通念になってきた傾きすらあった。
魏の兵がこういう畏怖にとらわれだしたので、司馬懿もその怯兵を用いるのは骨であった。で、以後また、堅く要害を守り、一にも守備、二にも守備、ただこれ守るを第一として敢えて戦うことをしなかった。
その間に孔明は、渭水の東方にあたる葫芦谷に千人の兵を入れ、谷のうちで土木の工を起させていた。この谷はふくべ形の盆地を抱いて、大山に囲まれ、一方に細い小道があるだけで、わずかに一騎一列が通れるに過ぎない程だった。
孔明も日々そこへ通って、何事か日夜、工匠の指図をしていた。
三
魏が、敢えて戦わず、長期を持している真意は、あきらかに蜀軍の糧食涸渇を待つものであるはいうまでもない。
長史楊儀は、その点を憂えて、しばしば、孔明に訴えていた。
「いま蜀本国から運輸されて来た軍糧は、剣閣まで来て山と積まれている状態ですが、いかんせん剣閣から祁山までは悪路と山岳続きで、牛馬も仆れ、車も潰え、輸送は少しもはかどりませぬ。この分ではたちまち兵糧に詰ってくると案じられますが」
建興九年の第二次祁山出陣以来、第三次、第四次と戦を重ねるごとに、つねに蜀軍の悩みとされていたのはこの兵糧と輸送の問題だった。
今や約三年の休戦に農を勧め、士を休め、かつて見ぬほどな大規模の兵力と装備を擁して、六度祁山へ出た孔明が、その苦い経験をふたたびここに繰り返そうとは思われない。
「いや、そのことなら、近いうちに解決する。心配すな」
孔明は楊儀に云った。
その楊儀を始め蜀軍の諸将は、やがて或る日、孔明に導かれて、葫芦谷の内へ入ることを許された。
(ここ一ヵ月も前から何を工事しておられるのか?)と、前からいぶかっていた諸将は、その谷内がいつのまにか一大産業工場と化しているのを見てみな瞠目した。
何が製産されていたかといえば、孔明の考案にかかる「木牛」「流馬」とよぶ二種の輸送機であった。
これに似た怪獣形戦車は、かつて南蛮遠征のとき敵陣の前にならべられたことがある。今度発明のものは、それを糧運専用の輜重車に改造されたものといえる。そしてそれは第二次、第三次出兵の折にも少しは試用されたが、効果が少ないので、その後三年の休戦中に、孔明がさらに鋭意工夫を加え、ここに大量製産にかかる自信を持つに至った新兵器であった。
「動物の牛馬を使役すれば、牛馬の糧食を要し、舎屋や人手間がかかる上、斃死、悪病に仆れるおそれもあるが、この木牛流馬なれば、大量の物を積んで、しかも食うことなく疲れることも知らない」
すでに無数に製造されていた実物を示して、孔明はその「分墨尺寸」――つまり設計図についても、自身いろいろ説明を加えて、諸将へ話した。
一体木牛流馬とは、どんな構造の物かを考えるに、後代に伝わっている寸法や部分的な解説だけでは、概念を知るだけでも、かなり困難である。「漢晋春秋」「亮集」「後主伝」等に記載されている所を綜合してみると、大略、次の如き構造と効用の物であることがほぼ推察される。
木牛トハ、四角ナル腹、曲レル頭、四本ノ脚、屈折自在、機動シテ歩行ス。頭ハ頸ノ中カラ出ル、多クヲ載セ得ルモ、速度ハ遅シ。大量運搬ニ適シ、日常小事ノ便ニハ用イ難シ。一頭軽行スルトキハ一日数十里ヲ行クモ、群行スルトキハ二十里ニトドマル。
また、べつな書には――
曲レルハ牛ノ頭トシ、双ナルハ牛ノ脚トシ、横ナルハ牛ノ頸トシ、転ズルハ牛ノ背トシ、方ナルハ牛ノ腹トシ、立テルハ牛ノ角トシ、鞅(胸ノ綱)鞦(尾ノ綱)備ワリ、軸、双、轅(ながえ)ヲ仰グ。人行六尺ヲ牛行相歩ス。人一年分ノ糧食ヲ載セテ一日行クコト二十里。人大イニ労セズ。
とも見える。
蜀中ニ小車アリ。能ク八石ヲ載セテ、一人ニテ推スヲ得ベシ。前ハ牛頭ノ如シ。マタ、大車アリ、四人ヲ用イテ、十石ヲ推載ス。蓋シ木牛流馬ニ倣エルモノカ。
これは「後山叢譚」の誌している所であるが、もちろん後代の土俗運輸をそれに附説したものであることはいうまでもない。いずれにしてもその機動力の科学的構造は甚だ分明でないが、実用されて大効のあったことは疑われていない。
さて、この輜重機が沢山に造られだすと、蜀軍は右将軍高翔を大将として、ぞくぞく木牛流馬隊をくり出し、剣閣から、祁山へ、たちまち大量な兵糧の運輸が開始された。
蜀兵はその量を眺めただけで、勇気百倍した。反対に、魏の持久作戦は、根本的にその意義を覆さるるに至った。