花嫁

「このまま踏み止まっていたら、玄徳はさておいて、呂布が、違約の敵と名乗って、総勢で攻めてくるにちがいない」
 紀霊は、呂布を恐れた。
 何だか呂布に一ぱい喰わされた気もするが、彼の太い神経には、まったく圧服されてしまった。
 やむなく紀霊は、兵を退いて、淮南へ帰った。
 彼の口から、仔細を聞いて、嚇怒したのは、袁術であった。
「彼奴。どこまで図太い奴か底が知れん。莫大な代償を受取っておきながら、よくも劉備を庇いだてして、無理押しつけな和睦などを酬いおったな」
 虫がおさまらない。
 袁術、堪忍をやぶって、
「この上は、予が自身で、大軍をすすめ、徐州小沛も、一挙に蹴ちらしてくれん」
 と、令を発せんとした。
 紀霊は、自己の不面目を、ふかく恥じていたが、
「いけません。――断じて、うかつには」と、諫めた。
呂布の勇猛は、天下の定評です。勇のみかと思っていたら、どうして、機智も謀才もあるのには呆れました。それが徐州の地の利をしめているのですから、下手に出ると、大兵を損じましょう」
「というと、彼奴が北隣に蟠踞していては、将来ともこの袁術は、南へも西へも伸びることができないではないか」
「それについて、ふと思い当ったことがあります。聞くところによると、呂布には妙齢の美しい娘がひとりあるそうです」
「妾の腹か、妻女の子か」
「妻女の厳氏が生んだ愛娘だというはなしですから、なお、都合がいいのです」
「どうして」
「ご当家にも、はや嫁君を迎えてよいご子息がおありですから、婚を通じて、まず、呂布の心を籠絡するのです。――その縁談を、彼が受けるか受けないかで、彼の向背も、はっきりします」
「む、む」
「もし彼が、縁談をうけて、娘をご子息へよこすようでしたら――しめたものです。呂布は、劉備を殺すでしょうよ」
 袁術は、膝を打って、
「よい考えだ。良策を献じた褒美として、このたびの不覚は、罪を問わずにおいてやる」
 と、いった。
 袁術はまず、一書を認めて、このたび和睦の労をとられた貴下のご好意に対して、満腔の敬意と感謝を捧げる――と慇懃な答礼を送った。
 日をはかって、それからわざと二月ほど間をおいてから、
「――時に、光栄ある貴家と姻戚の縁をむすんで、永く共栄をわかち、親睦のうえにも親睦を篤うしたいが」と、縁談の使いを向けた。
 もちろんその返辞は、
「よく考えた上、いずれご返辞は、当方より改めて」と、世間なみな当座の口上であった。
 先には、和睦の仲介へ、篤く感謝して来ているし、それからの縁談なので、呂布は、真面目に考慮した。
「わるい話でもないな。……どうだね。お前の考えは」
 妻の厳氏に相談した。
「さあ……?」
 愛しいひとり娘なので、彼の妻も、象牙を削ったような指を頬にあてて考えこんだ。
 後園の木蘭の花が、ほのかに窓から匂ってくる。呂布のような漢でも、こういう一刻は和やかな眼をしているよい父親であった。

 第一夫人、第二夫人、それと、いわゆる妾とよぶ婦人と。
 呂布の閨室は、もともと、そう三人あった。
 厳氏は正妻である。
 その後、曹豹の女を入れて、第二の妻としたが、早逝してしまったので子供もなかった。
 三番目のは妾である。
 妾の名は、貂蝉という。
 貂蝉といえば、彼が、まだ長安にいた頃、熱烈な恋をよせ、恋のため、董相国に反いて、遂に、時の政権をくつがえしたあの大乱の口火となった一女性であるが――その貂蝉はまだ彼の秘室に生きていたのだろうか。
貂蝉よ、貂蝉よ」
 彼は今も、よくそこの閨園では呼んでいる。だが、その後、彼にかしずいている貂蝉は、かの王允の養女であった薄命な貂蝉とは、名こそ同じだが、別人であった。
 どこか、似てはいる。
 しかし、年もちがう、気だてもちがう。
 呂布も、煩悩児であった。
 長安大乱のなかで死んだ貂蝉があきらめきれなかった。それ故、諸州にわたって、貂蝉に似た女性をさがし、ようやくその面影をどこかしのべる女を得て、
貂蝉貂蝉」と、呼んでいるのだった。
 その貂蝉にも、子はなかったので、子供といっては、厳氏の腹から生れた娘があるだけである。
 煩悩な父親は、その愛娘へも、人なみ以上な鍾愛をかけている。――子の幸福を、自分の行く末以上に案じている。
「どうだね?」
 袁術からの縁談には、彼はほとほと迷っていた。
 男親は、あまりに、多方面から考えすぎる。
 一面では良縁と思うし、一面では危うさを覚える。
「……わたしは、いいおはなしと思いますが」
 正妻の厳氏はいった。
「なぜならば、わたしが、ふと聞いたうわさでは、袁術という人は、早晩、天子になるお方だそうですね」
「誰に聞いた?」
「誰とはなく、侍女たちまで、そんな噂をささやきます。――天子の位につく資格をもっているんですって」
「彼の手には、伝国の玉璽がある。それでだろう。――しかし、衆口のささやき伝える力のほうが怖しい。実現するかもしれないな」
「ですから、よいではございませんか。娘を嫁入らせば、やがて皇妃になれる望みがありましょう」
「おまえも、偉いところへ眼をつけるな」
「女親のいちばん考える問題ですもの。ただ、先方に何人の息子がいるか、それは調べておかなければいけませんね。大勢のなかの一番出来の悪い息子なんかに貰われたら後悔しても追いつきませんから」
「その点は、不安はない。袁術には、一人しか息子はいないのだから」
「じゃあ、考えていらっしゃることはないじゃありませんか」
 雌鶏のことばに、雄鶏も羽ばたきした。――袁家から申しこんできた「共栄の福利を永久に頒たん」との辞令が、真実のように思い出された。
 返辞を待ちきれないように、袁家からは、再度韓胤を使者として、
「ご縁談の儀は、いかがでしょうか。一家君臣をあげて、この良縁の吉左右を、鶴首しておるものですから」
 と、内意をただしにきた。
 呂布は、韓胤を駅館に迎えて、篤くもてなし、承知の旨を答えるとともに、使者の一行にたくさんな金銀を与え、また帰る折りには、袁術へ対して、豪華な贈物を馬や車に山と積んで持たせてやった。
「申し伝えます。さだめし袁ご一家におかれても、ご満足に思われましょう」
 韓胤の帰った翌日である。
 例のむずかしやの陳宮が、いとどむずかしい顔をして、朝から政務所の閣にひかえ、呂布が起きだしてくるのを待っていた。

 やがて、呂布が起きてきた。
「おお、陳宮か、早いな」
「ちと、おはなしがありまして」
「なんじゃ」
「袁家とのご縁談の儀で」
 陳宮の顔つきから見て、呂布は心のうちで、ちょっと当惑した。
 また何か、この諫言家が、自分を諫めにきたのではないか。
 もう先方へは承諾を与えてある。今、内輪から苦情をもち出されてはうるさい。
「…………」
 そんな顔しながら、寝起きの鈍い眼を、横へ向けていた。
「おさしつかえございませんか。ここで申し上げても」
「反対かな。そちは」
「いや、決して」
 陳宮が、頭を下げたので、呂布はほっとして、
「吏員どもが出てくるとうるさい。あの亭へ行こう」
 閣を出て、木蘭の下を歩いた。
 水亭の一卓を囲んで、
「そちにはまだ話さなかったが、妻も良縁というから、娘をやることに決めたよ」
「結構でしょう」
 陳宮の答えには、すこし奥歯に物がはさまっている。
「いけないかね」
 呂布は、彼の諫めをおそれながら、彼の保証をも求めていた。
「いいとは思いますが、その時期が問題です。挙式は、いつと約しました」
「いや、まだそんなところまでは進んでいない」
「約束からお輿入れまでの日取りには、古来から一定した期間が定まっておりましょう」
「それによろうと思う」
「いけません」
「なぜ」
「世上一般の慣例としては、婚約の成立した日から婚儀までの期間を、身分によって四いろに分けています」
「天子の華燭の式典は一ヵ年、諸侯ならばそのあいだ半年、武士諸大夫は一季、庶民は一ヵ月」
「その通りです」
「そうか。むむ……」と、呂布はのみこみ顔で、
袁術は、伝国の玉璽を所有しておるから、早晩、天子となるかもしれない。だから、天子の例にならえというのか」
「ちがいます」
「では、諸侯の資格か」
「否」
「大夫の例で行えというか」
「いけません」
「しからば……」と、呂布も気色ばんだ。
「おれの娘をやるのに、庶民なみの例で輿入れせよと申すか」
「左様なことは、誰も申し上げますまい」
「わからぬことをいうやつ、それでは一体、どうしろというのか」
「事は、家庭のご内事でも、天下の雄将たるものは、常に、風雲をながめて何事もなさるべきでしょう」
「もちろん」
「驍勇並ぶ者なきあなたと、伝国の玉璽を所有して、富国強兵を誇っているところの袁家とが、姻戚として結ばれると聞いたら、これを呪咀し嫉視せぬ国がありましょうか」
「そんなことを怖れたらどこへも娘はやれまい」
「しかし、万全を図るべきでしょう。ご息女のお為にも。――お輿入れの吉日を、千載の好機と待ちかまえ、途中、伏兵でもおいて、花嫁を奪い去るようなおそれがないといえますか」
「それもそうだ……じゃあどうしたらいいだろう」
「吉日を待たないことです。身分も慣例も構うことではありません。四隣の国々が気づかぬまに、疾風迅雷、ご息女のお輿を、まず袁家の寿春まで、お送りしてしまうことです」

「なるほど」
 呂布も、彼にいわれてみれば、至極、もっともであると思うのだった。
「だが、弱ったなあ」
「何がお困りですか」
 陳宮は突っこんで訊ねた。
 呂布は頭をかいて、
「実は、夫人もこの縁談には乗り気で、非常な歓びだものだから……つい其方にも計らぬうち、袁術の使者へ、承諾の旨を答えてしまった」
「結構ではありませんか。てまえはべつに今度の縁談をお止め申しているのではございません」
「――だが、使者の韓胤は、もはや淮南へ、帰国してしまったのだ」
「それも構いません」
「なぜ。どうして」
 呂布は、怪しんだ。
 あまりに陳宮が落着きはらっているので妙に思われて来たらしい。
 陳宮は、こう打明けた。
「――実はです。今朝、てまえ一存で、ひそかに韓胤の旅館を訪問し、彼とは内談しておきました」
「なに。袁術の使者と、おれに黙って会っていたのか」
「心配でなりませんから」
「――で。どういうはなしを致したのか」
「わたしは、韓胤に会うと、単刀直入に、こう口を切っていいました。

こんどのご縁談は
つまるところ――
貴国においては
劉備の首がお目あてでしょう。
花嫁は花嫁として
後から欲しいお荷物は
劉備の首、それでしょう!

 いきなり手前がいったものですから韓胤は驚いて、顔色を失いましたよ」
「それはそうだろう。……そしたら韓胤はなんと答えたか」
「ややしばらくてまえの面を見ていましたが、やがて声をひそめて、

――左様な儀は
どうか大きなお声では
仰っしゃらないように。

 と、あれもなかなか一くせある男だけに、いい返辞をしたものです」
「ふウム。それから、其方はなにをいおうとしたのか」
「花嫁のお輿入れは、世間の通例どおりにしては、必ず、不吉が起る。順調に運ぶとは思われない。だから、自分からも、主君にそうおすすめ申すから、貴国のほうでも、即刻お取急ぎ下さるように。……こう申して帰ってきたのです」
韓胤は、おれには、何もいわなかった」
「それはいわないでしょう。この縁談は、政略結婚ですと、明らかにいって来るお使者はありませんからな」
 陳宮は、こういったら、呂布が考え直すかと思って、その顔いろを見つめていたが、呂布の心は、娘を嫁がせる支度やその日取りにばかりもう心を奪われていた。
「では、日取りは、早いほどいいわけだな。何だか、ばかに気ぜわしくなったぞ」
 彼はまた、後閣へ向って、大股にあるいて行った。
 妻の厳氏にいいふくめて、それから、夜を日についで、輿入れの準備をいそがせた。
 あらゆる華麗な嫁入り妝匣がそろった。おびただしい金襴や綾羅が縫われた。馬車や蓋が美々しくできた。
 いよいよ花嫁の立つ朝は来た。東雲の頃から、徐州城のうちに、鼓楽の音がきこえていた。ゆうべから夜を明かして、盛大な祝宴は張られていたのである。
 やがて、禽の啼く朝の光と共に、城門はひらかれ、花嫁をのせた白馬金蓋の馬車は、たくさんな侍女侍童や、美装した武士の列に護られて、まるで紫の雲も棚びくかとばかり、城外へ送り出されてきた。

 陳珪は、老齢なので、息子の邸で病を養っていた。
 彼の息子は、劉玄徳の臣、陳登であった。
「なんだね、あの賑やかな鼓楽は?」
 病室にかしずいている小間使いが、
「ご隠居さまには、まだご存じないんですか」と、徐州城を出た花嫁の行列が、遠い淮南へ立ってゆくのを、町の人たちが今、歓呼して見送っているのですと話した。
 すると、陳珪は、
「それは大変じゃ、こうしては居られない」と、病室から歩みだし、
「わしを驢に乗せて、お城まで連れてゆけ」と、いって、どうしても肯かなかった。
 陳珪は、息をきりながら徐州城へ上がって、呂布へ目通りをねがった。
「病人のくせに、何で出てきたのか。祝いになど来ないでもいいのに」と、呂布がいうと、
「あべこべです」
 陳珪は、強くかぶりを振って、云いだした。
「――あなたのご臨終もはや近づいたので、今日は、お悼みをのべに上がりました」
「老人。おまえは、自分のことを云っているのじゃないか」
「いいえ、老病のわたくしよりもあなたのほうが、お先になりました」
「なにを、ばかな」
「でも、命数は仕方がございません。ご自分で、冥途へ冥途へと、自然、足をお向けになるんですから」
「不吉なことを申すな。このめでたい吉日に」
「きょうが吉日とお考えになられるのからして、もう死神につかれているのです。――なぜならば、こんどのご縁談は、袁術の策謀です。あなたに、劉備という者がついていては、あなたを亡ぼすことができないため、まずご息女を人質に取っておいて、それから劉備のいる小沛へ攻め寄ろうとする考えなのです」
「…………」
劉備が攻められても、今度はあなたも、劉備へ加勢はできますまい。彼を見殺しにすることは、ご自身の手脚がもがれて行くことだとお思いになりませんか」
「…………」
「やれやれ、ぜひもない! 怖ろしいのは、人の命数と、袁術の巧妙な策略じゃ」
「ウーム……」
 呂布はうなっていたが、やがて陳珪をそこへ置き放したまま、大股にどこかへ出て行った。
陳宮っ。陳宮!」
 閣の外に、呂布の大声が聞えたので、何事かと、陳宮が詰所から走ってゆくと、その面を見るなり、呂布は、
「浅慮者め。貴様はおれを過らせたぞッ」と、呶鳴りつけた。
 そしてにわかに、騎兵五百人を庭上へ呼んで、
「姫の輿を追いかけて、すぐ連れもどしてこいっ。――輿入れは中止だ」と、云いわたした。
 呂布のむら気はいつものことだが、これにはみんな泡をくった。騎兵隊は、即刻、砂けむりあげて、花嫁の行列を追った。
 呂布は、書面を認めて、
「昨夜から急に、むすめが微恙で寝ついたので、輿入れの儀は、当分のあいだ延期とご承知ねがいたい」と、袁術のほうへ、早馬で使いをやった。
 病人の陳珪老人は、その夕方まで城内にいたが、やがてトボトボ驢の背にのってわが家へ帰りながら、
「ああ、これで……伜のご主君のあぶない所が助かった」
 と、まばらな髯のなかで、独りつぶやいていた。

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