蜀人・張松

 近年、漢中陝西省・漢中)の土民のあいだを、一種の道教が風靡していた。
 五斗米教。
 仮にこう称んでおこう。その宗教へ入るには、信徒になるしるしとして、米五斗を持てゆくことが掟になっているからである。
「わしの家はなぜか病人がたえない」とか、
「こう災難つづきなのは、何かのたたりに違いない」とか、それと反対に、
「うちの躄が立った」などというのもあるし、
「五斗米教のお札を門に貼ってから、奇妙に盗賊が押しかけて来ない」
 などと、迷信、浮説、嘘、ほんと、雑多な声に醸されながら、いつのまにか漢中におけるこの妖教の勢力とその殿堂は、国主を凌ぐばかりであった。
 教主は、師君と称している。その素姓を洗えば、蜀の鵠鳴山にいてやはり道教をひろめていた張衡という道士の子で、張魯、字を公棋という人物だった。
 これが、漢中に来て、いわゆる五斗米教を案出し、
「あわれな者よ。みなわれにすがれ。汝らの苦患はみな張魯がのぞいてやる」
 と、愚民へ呼びかけた。
 民衆の逆境は、このときほど甚だしい時代はない。どこを捜したって満足に家内揃ってその日を楽しんでいるなどという家はない。しかも教養なく、あしたの希望もない民衆は、
「これこそ天来の道士様」
 と、たちまち五斗米をかついで礼拝に来る者が、廟門に市をなした。
 師君の張魯をめぐって、治頭、大祭酒などという道者がひかえ、その下に鬼卒とよぶ祭官が何百人とある。
 不具、病人などが、祈祷をたのむと、
「懺悔せよ」と、暗室に入れ、七日の後、名を書いたお札を、一通は山の上に埋けて、天神に奏するものだといい、一通は平地に埋けて地神に詫をするといい、もう一通は水底に沈めて、
「おまえの罪業は、水神にねがって、流してもらった」と、云い聞かせる。
 愚民は信ずるのだった。その妄信から時々、奇蹟が生ずる。すると、大祭を行う。漢中の街は、邪宗門のあくどい彩で塗りつぶされ、廟門には豚、鶏、織物、砂金、茶、あらゆる奉納品が山と積まれ、五斗入り袋は、十倉の棟にいっぱいになる。
 こうして、邪教の猖獗は、年ごとに甚だしくなり、今年でもう三十年にもなるが、いかにせん、その悪弊は聞えてきても、中央に遠い巴蜀の地である。令を以て禁止することも、兵を向けて一掃することもできない。
 そこでかえって、教主張魯に対しては、卑屈な懐柔策を取ってきた。彼に鎮南中郎将という官職を与え、漢寧の太守に封じて、そのかわりに、
「年々の貢ぎを怠るなかれ」と誓わせて来たのである。
 従って、五斗米教は、中央政府の認めている官許の道教として、いよいよ毒を庶民に植えつけて、今や巴蜀地方は、一種の教門国と化していた。
 すると、ついこの頃のこと。
 漢中の一百姓が、自分の畑から、黄金の玉璽を掘り出し、びっくりして庁へ届けてきた。
 張魯の群臣は、みな口をそろえて、
「これこそ、天が、漢寧王の位につくべし、と師君へ授け給うたもの」
 と、彼に、王位につくことをすすめた。
 すると、閻圃という者が、思慮ありげに、こう進言した。
「なるほど今は、中央の曹操西涼馬超を討って、気いよいよ驕り、人民としては、いわゆる天井をついた象。たしかに撃つべきときに違いないが、まず我らは、蜀四十一州を内に併合統一して、しかる後、彼に当るのが、正しくないかと考えられますが。――師君のご賢慮はいかがでしょうか」

 師君張魯の弟に、張衛という大将がいる。
 いま、閻圃の言を聞くと、その張衛は、
「然り、然り。閻圃の説こそ、大計というものである」
 と云いながら前へ進んで、彼の献策をさらに裏書して、こう大言した。
「先ごろ来、西涼馬超が破れたことから、領内混乱に陥り、西涼州の百姓たちの逃散して、漢中に移り来るもの、すでに数万戸にのぼると聞く。――加うるに、従来、漢川の民、戸数十万に余り、財ゆたかに糧はみち足り、四山谿流、道は嶮岨にして、一夫これを守れば万卒も通るを得ず、と古来からいわれておる。もしこれに蜀を加えて、統治を施し、よく武甲と仁政を以て固め、上に帝王を定むるならば、これこそ千年の基業を開くことができるに相違ない。――家兄、願わくは不肖張衛に、入蜀の兵馬を授けたまえ。誓って、この大理想を顕現してお目にかけん」
 両者の言に、張魯も意をうごかされて、
「よろしかろう。疾く準備にかかれ」と、聴許した。
 かくて、漢中の兵馬が、ひそかに、蜀をうかがっているとき、その蜀は今、どんな状態にあったろうか。
 巴蜀。すなわち四川省。
 長江千里の上流、揚子江の水も三峡の嶮にせばめられて、天遠く、碧水いよいよ急に、風光明媚な地底の舟行を数日続けてゆくと、豁然、目のまえに一大高原地帯が展ける。
 アジアの屋根、パミール高原に発する崑崙山系の起伏する地脈が支那西部に入っては岷山山脈となり、それらの諸嶺をめぐり流れる水は、岷江、金沱江、涪江、嘉陵江などにわかれては、またひとつ揚子江の大動脈へ注いでくる。
 四川の名は、それに起因る。河川流域の盆地は、米、麦、桐油、木材などの天産豊かであり、気候温暖、人種は漢代初期からすでに多くの漢民族が入って、いわゆる巴蜀文化の殷賑を招来していた。その都府、中心地は、成都である。
 ただこの地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、
「蜀の桟道」と呼ばれている。
 さて、こういう蜀も、遂に、時代の外の別天地ではあり得なかった。
 蜀の劉璋は漢の魯恭王が後胤といわれ、父劉焉が封を継いでいたが、その家門と国の無事に馴れて、いわゆる遊惰脆弱な暗君だった。
漢中張魯が攻めてくるとか。いかがすべきぞ。ああ、どうしたらいいか」
 彼は、生れて初めて、敵というものが、すぐ隣にいたのを知ったのである。
 蜀の諸大将も、みな怯えた。するとひとり、評議の席を立って、
「不肖ですが、それがし、三寸の舌をうごかして、よく張魯が軍勢を退けてご覧にいれる。乞う、お案じあるな」と、いった者がある。
 見れば、その人は、背丈五尺そこそこしかなく、短身長臂、おまけに、鼻はひしげ、歯は出ッ歯で、額は青龍刀みたいに広くて生えぎわがてらてらしている。
 ただ大きいのは声だけだ。声は鐘を撞くように余韻と幅がある。
「やあ、張松か。いかなる自信があって、さような大言を吐くか」
 劉璋以下、諸大将が半ば危ぶみながら問うと、
「百万の兵も、一心に動く。一心の所有者に、それがしの一舌を以て説く。なんで、動かし得ぬことがありましょうか」と、許都に上って、曹操に会見し、将来の利害大計を述べて、この禍いを変じて、蜀の大幸として見せん――と、諄々、腹中の大方策を披瀝した。
 張松の考えているその内容とはどんなものか、とにかく、彼の献策は用いられることとなり、彼は早速、遠く都へ使いして行くことになった。
 その旅行の準備にかかる傍ら、彼は自分の家に、画工を雇って、西蜀四十一州の大鳥瞰図を、一巻の絵巻にすべく、精密に写させていた。

 画工は五十日ほどかかってようやくそれを描き上げた。四十一州にわたる蜀の山川谿谷、都市村落、七道三道の通路、舟帆、駄馬の便、産物集散の模様まで、一巻数十尺の絵巻のうちに写されていた。
「これを開けば、いながらにして、蜀に遊ぶようなものだ。よしよし。上出来」
 張松は、画工をねぎらった。
 彼は直ちに、劉璋に謁して、出発の準備も調いましたればと、暇を告げた。
 劉璋は、かねて用意しておいた金錦繍の贈物を、白馬七頭に積んで、彼に託した。もちろん曹操への礼物である。
 千山万峡、嶮岨を越えて、使者の張松は都へ向った。
 時、曹操は銅雀台へ遊びに行って、都へ還ったばかりであった。
 江南の風雲は、なお測り難いものがあるが、西涼の猛威を、一撃に粉砕し、彼の意はいよいよ驕り、彼の臣下は益〻慢じ、いまや、曹操一門でなければ人でないような、我が世の春を、謳歌していた。
「さすがは、花の都」
 張松も、眼を驚かされた。魏の文化の眩さに、白馬七頭に積んできた礼物も、曹操の前に出すには気恥ずかしいような気がした。
 ひとまず旅館に落着き、相府に入国の届を出し、また迎使部の吏を通じて、拝謁簿に姓氏官職などを記録し、
「やがて丞相からお沙汰のあるまで相待つように」
 という吏員のことばに従って、その日の通知を待っていた。
 ところが、幾日たっても、相府からの召しがないので怪しんでいると旅亭の館主が、
「それは、姓氏を簿に書き上すとき、賄賂を吏員に贈らなかったからでしょう」
 と、注意してくれた。
 そこで、客舎の主人から莫大な賄賂を相府の吏員に贈ると、ようやく五日目ごろに、沙汰があって、張松は、曹操に目通りすることができた。
 曹操は、一眄をくれて、
「蜀はなぜ毎年の貢ぎ物を献じないか」
 と、罪を責めた。
 張松は、答えて、
「蜀道は、嶮岨な上に、途中盗賊の害多く、とうてい、貢ぎを送る術もありません」
 と、いった。
 曹操は、甚だしく、自分の威厳を損ぜられたような顔をして、
「中国の威は、四方に遍く、諸州の害を掃って、予は今やいながらに天下を治めておる。なんで、交通の要路に野盗乱賊が出没しようか」
「いやいや。決してまだ天下は平定していません。漢中張魯あり、荊州に玄徳あり、江南孫権の存在あり。加うるに、緑林山野、なお無頼の巣窟に適する地方は、どれほどあるかわからない」
 曹操は急に座を起って、ぷいと後閣へ入ってしまった。激怒した容子である。張松は、ぽかんと、見送っていた。
 階下に整列していた近臣も、興を醒して、張松の愚を嗤った。
「外国の使臣として、はるばる参りながら、あえて丞相の御心に逆らうとは、いやはや、不束千万。再度のお怒りが降らぬうち、疾く、疾く蜀へ帰り給え」
 すると張松は、その低い鼻の穴から、ふふふと、嘲笑をもらした。
「さてさて、魏の国の人は嘘で固めているとみえる。わが蜀には、そんな媚言やへつらいをいう佞人はいない」
「だまれ。しからば、魏人は諂佞だというか」
「おや、誰だ?」
 声に驚いて、張松が振り向くと、侍立の諸臣のうちから、一人の文化的な感じのする青年が、つかつかと進んで、張松の前へ立った。
 年の頃まだ二十四、五歳。神貌清白、眉ほそく、眼すずやかである。これなん弘農の人で、一門から六相三公を出している名家楊震の孫で、楊修、字は徳祖という。いま曹操に仕えて、楊郎中といわれ、内外倉庫の主簿を勤めていた。
「外国の使臣といえ、黙って聞いておれば、怪しからんことをいう。すこし君に談じつける儀があるから、僕に従ってこっちへ来給え」
 楊修はそういって、張松を閣の書院へひっぱって行った。張松は、この青年の魅力に何か心をひかれたので、黙って彼のあとに従いて行った。

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