鸚鵡州

 禰衡江夏へ遊びに行っている間に、曹操の敵たる袁紹のほうからも、国使を差向けて、友好を求めてきた。
 荊州は両国からひッぱり凧になったわけである。いずれを選ぶも劉表の胸ひとつにある。こうなると劉表は慾目に迷って、かえって大勢の判断がつかなくなった。
「韓嵩。其方の考えではどう思うな。曹操についたほうがよいか、袁紹の求めに従ったほうが利か?」
 従事中郎将の韓嵩は、群臣を代表して、つつしんで答えた。
「要するに、その大方針は、あなたのお胸から先に決めなければなりますまい。もしあなたに天下のお望みがあるなら曹操に従うべきです。もし天下に望みがなければ、どっちでも歩のいいほうをにらみ合わせて荷担すればよろしいでしょう」
 劉表の顔色を見ると、まんざら天下に望みがないふうでもない。で、韓嵩はまた云い足した。
「なぜならば、曹操は天子を擁し、その戦は、常に大義を振りかざすことができます」
「しかし袁紹の雄大な国富と勢力も侮れんが」
「ですから、曹操が敗れて、自ら破綻を生じ、いまの位置から失脚でもすれば、そこに必然彼に取ってかわる機会もあるというものではありませんか」
 劉表はなお決しかねていたが、翌る日、また韓嵩をよび出して云いつけた。
「いろいろ考えてみたが、まず其方が都へのぼって、仔細に洛内の実情や、曹操の内ぶところをうかがって来ることがよいな。こっちの去就は、そのあとできめてもよかろう」
 韓嵩はよろこばない色を示して、しばらく考えていたが、やがてそれに答えて、
「わたくしは節義を守る人間だということをお信じねがいます。あなたが天子に順なるを旨とされて、天子の下にある曹操とも提携して行こうというお考えならば、使いに参っても心安くぞんじますが、もしそうでないと、わたくしは節義のために非常に苦境におちいるやも知れません」
「なぜそんな心配を抱くのか。わしには分らんが」
「てまえを都へお遣しになると、曹操はかならずわたくしの歓心を迎えましょう。また万一には天子から官爵をくだし賜わるかも知れません。諸州の臣下が上洛した場合の例を見てもそれが考えられます。……するとてまえは、正しく漢朝の恩を着ますし、また漢家の臣であるに相違ありませんから、あなたに対しては故主、旧のご主人といったような気持になるかと思います。――そうなると事ある場合、天子の命に服しても、あなたのお為には働けないかも知れません」
「何かと思えば、そんな先の先までの取越し苦労をしているのか。諸州の雄藩の臣にも、朝廷から官爵をもらっている者はいくらでもあるではないか。まあ、わしにはわしとして、別に考えのあることじゃ。すみやかに都にのぼり、曹操の内幕や、虚実のほどを充分にさぐって来い」
 韓嵩はやむなく命をうけて、荊州の物産や数々の珍宝を車馬に積み、数日ののち城下を発して許都へ向った。
 彼はさっそく相府の門をおとずれて、多くの土産ものを披露した。
 曹操は先ごろ自分の使いとして、禰衡をやってあるところへ変だなとは思ったが、ともかく対面して、好意を謝し、また盛宴をひらいて長途の旅をなぐさめたりなどした。そしてまた如才なく朝廷に奏請して、彼のために侍中零陵の太守という官職を与えて帰した。
 半月ほど滞在して、韓嵩が都を立つと、すぐそのあとで、荀彧が、曹操のまえに出て云った。
「なぜあんな者を、無事に帰してしまわれたのですか。彼は、許都の内情をさぐりに来たものに違いない。それを賓客あつかいなどして、まことに言語道断である。もうすこし中央の府たるものは、他州の外臣に対して、戒心を厳にせねばなりませんな」

「もっともな言である」と、一応は聞いているようだったが、うなずきのなかに笑いをたたえて、曹操はやがて荀彧に諭した。
「予には、作戦以外に、虚実はない。だから何を探って帰ろうと、予の実力の正価を知って戻るのみで、かえって歓迎すべき諜客といえようではないか。――それにいま荊州へは禰衡を派遣してある。予が期待しているのは、その禰衡劉表の手で殺してくれることである。なにをそれ以上いま駈引きをする必要があろうか」
 彼の高論に、荀彧も服し、諸人もなるほどと感心した。
 一方の韓嵩は、荊州へ立ち帰ると、すぐ劉表にまみえて、許都の上下にみちている勃興気運のさかんなことを極力告げて、
「臣、愚考いたしますに、あなたの御子のうち、お一方様を、朝廷の仕官にさし出して、都へ人質として留めおかれたら、曹操も疑うことなく、従って将来、ご家運のほどもいよいよ長久と存じられますが」と、述べた。
 気に入らないとみえて、劉表は彼の話なかばから横を向いていたが、突然、
「二心をいだく双股膏薬め。――韓嵩を縛して斬り捨てい!」と、あたりの武士へ命じた。
 武士たちは剣に手をかけながらさっと韓嵩のうしろに立った。韓嵩は手を振って叩頭百遍しながら、
「――ですから臣がお使いをうける前に、再三申しあげたではございませんか。わたくしは私の信じることを申しあげるのが、最善の臣道と心得、またお家の為と思っておすすめしたに過ぎません。お用いあるとないとは、あなたのお考え次第のことです」と、陳弁これ努めた。
 侍臣の蒯良も、劉表のかたわらにあって共々、彼の言い訳をたすけて、
「韓嵩のいっていることは、少しも詭弁ではありません。彼は都へ立つ前にも、口を酸くして、今のとおりなことを申し述べていました。ですから、都へ行ったため、にわかに豹変したものとも、二心あるものともいえませぬ。――それに、彼はすでに、朝廷から恩爵をうけて帰りましたから、いま直ぐにご成敗ある時は、朝廷に対しても、おそれあること、平にここはご寛大にさしおかれますように」と懇願した。
 劉表は、まだ甚だ釈然としない気色であったが、蒯良の事理明白なことばに、否むよしもなく、
「目通りはかなわん。死罪だけは許しておくが、獄に下げて、かたくつないでおけい」と、命じた。
 韓嵩は、武士たちの手に、引っ立てられながら、
「都へ行けばこうなる、荊州へ帰ればかくの如くなると、分りきっておりながら、遂に、自分の思っていた通りに自分を持ってきてしまった。不信の末はかならず非業に終るし、信ならんとすれば、またこうなる。世に選ぶ道というものは難しい!  ……」
 と、大きく嗟嘆をもらして行った。
 彼の姿が消えると、すぐ入れちがいに、江夏から人が来て、
「賓客の禰衡が、とうとう黄祖のために殺されました」
 という耳新しい事実を伝えてきた。
「なに、奇舌学人が……黄祖の手にかかって?」
 予期していたことではあるが、そう聞くと、みな愕然とした色を顔にたたえた。劉表は、さっそく江夏からきた者を面前に呼び出して、
「どういう経緯で殺したのか、またあの奇儒が、どんな死方をしたか?」
 と、半ば、曹操に対するおそれと、半ば、好奇心をもって自身訊ねた。

 江夏の使いは、顛末を仔細にこう語りだした。――
 その話によると、
 禰衡江夏へ行ってからも相変らずで、人もなげに振舞っていたが、ある時、城主の黄祖が、彼が欠伸しているのを見て、
「学人。そんなに退屈か」と、皮肉に訊ねた。
 禰衡は、打ちうなずいて、
「なにしろ話し相手というものがないからな」
「城内には、それがしもおり、多くの将兵もいるのに、なんでまた」
「ところが一人として、語るに足る者はおらん。都は蛆虫の壺だし、荊州は蠅のかたまりだし、江夏は蟻の穴みたいなものだ」
「するとそれがしも」
「そんなもんじゃろ。何しても退屈至極だ。蝶々や鳥と語っているしかない」
「君子は退屈を知らずとか聞いておるが」
「嘘をいえ。退屈を知らん奴は、神経衰弱にかかっておる証拠だ。ほんとうに健康なら退屈を感じるのが自然である」
「では一夕、宴をもうけて、学人の退屈をおなぐさめいたそう」
「酒宴は真っ平だ。貴公らの眼や口には、酒池肉林が馳走に見えるか知らんが、わしの眼から見るとまるで芥溜めを囲んで野犬がさわいでいるような気がする。そんな所へすえられて、わしを肴に飲まれてたまるものか」
「否、否。……きょうはそんな儀式張らないで二人きりで飲りましょう。あとでお越し下さい」
 黄祖は去ったが、しばらくすると、小姓の一童子をよこして、禰衡を誘った。
 行ってみると、城の南苑に、一枚の莚と一壺の酒をおいたきりで、黄祖は待っていた。
「これはいい」
 口の悪い禰衡も初めて気に入ったらしく、莚の上に坐った。
 側には、一幹の巨松が、大江の風をうけて、颯々と天声の詩を奏でていた。壺酒はたちまち空になって、また一壺、また一壺と童子に運ばせた。
「学人に問うが……」と、黄祖もだいぶ酩酊して、唇をなめあげながら云いだした。
「学人には……だいぶ長いこと、都に居ったそうだが、都では今、誰と誰とを、真の英雄と思われるな?」
 禰衡は、言下に、
「大人では孔文挙、小児なら楊徳祖」と、答えた。
 黄祖は、すこし巻舌で、
「じゃあ、吾輩はどうだ。この黄祖は」と、片肱を張って、自分を前へ押しだした。
 禰衡はからからと笑って、
「君か。君はまあ、辻堂の中の神様だろう」
「辻堂の神様? それは一体どういうわけだ」
「土民の祭をうけても、なんの霊験もないということさ」
「なにッ。もう一ぺんいッてみろ」
「あははは。怒ったのか。――お供物泥棒の木偶人形が」
「うぬっ」
 黄祖はかっとして剣を抜くやいなや、禰衡を真二つに斬り下げて、その満身へ、返り血をあびながら発狂したようにどなっていたということである。
「片づけろ片づけろ。この死体をはやく埋めてしまえ。此奴は死んでもまだ口をうごかしている!」
 ――以上。
 ありのままな顛末を聞いて、劉表も哀れを催したか、その後、家臣をやって、禰衡の屍を移し、鸚鵡州の河畔にあつく葬らせた。
 禰衡の死はまた、必然的に、曹操劉表との外交交渉のほうにも、絶息を告げた。
 曹操は、禰衡の死を聞いた時、こういって苦笑したそうである。
「そうか、とうとう彼も自分の舌剣で自分を刺し殺してしまったか。彼のみではない。学問に慢じて智者ぶる人間にはままある例だ。――そういう意味で彼の死も、鴉が焼け死んだぐらいな意味はある」

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