秋風陣
一
潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。
「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」
関羽がいうと、
「つまらない事になった」
と、張飛はしきりと、今のうちに功を立てねば、いつの時か風雲に乗ぜんと、焦心るのであった。
「――義軍なんぞ小功を思わん。義胆なんぞ風雲を要せん」
劉玄徳は、独りいった。
雁の列のように、漂泊の小軍隊はまた、南へ向って、旅をつづけた。
黄河を渡った。
兵たちは、馬に水を飼った。
玄徳は、黄いろい大河に眼をやると、憶いを深くして、
「ああ、悠久なる哉」
と、呟いた。
四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。
「この畔で、半日もじっと若い空想にふけっていたことがある。――洛陽船から茶を購おうと思って」
茶を思えば、同時に、母が憶われてくる。
この秋、いかに在わすか。足の冷えや、持病が出てはこぬだろうか。ご不自由はどうあろうか。
いやいや母は、そんなことすら忘れて、ひたすら、子が大業をなす日を待っておられるであろう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、また実地に当る軍人同士のあいだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争いやらあって、なかなか武力と正義の信条一点張りで、世に出られないことなどは、お察しもつくまい。ご想像にも及ぶまい。
だから以来、なんのよい便りもなく、月日をむなしく送っている子をお考えになると、
(阿備は、何をしているやら)
と、さだめしふがいない者と、焦れッたく思っておいでになるに相違ない。
「そうだ。せめて、体だけは無事なことでも、お便りしておこうか」
玄徳は、思いつめて、騎の鞍をおろし、その鞍に結びつけてある旅具の中から、翰墨と筆を取りだして、母へ便りを書きはじめた。
駒に水を飼って、休んでいた兵たちも、玄徳が箋葉に筆をとっているのを見ると、
「おれも」
「吾も」
と、何か書きはじめた。
誰にも、故郷がある。姉妹兄弟がある。玄徳は思いやって、
「故郷へ手紙をやりたい者は、わしの手もとへ持ってこい。親のある者は、親へ無事の消息をしたがよいぞ」と、いった。
兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ、何か書いて持ってきた。玄徳はそれを一嚢に納めて、実直な兵を一人撰抜し、
「おまえは、この手紙の嚢をたずさえて、それぞれの郷里の家へ、郵送する役目に当れ」
と、路費を与えて、すぐ立たせた。
そして落日に染まった黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになって、浅瀬は徒渉し、深い所は筏に棹さして、対岸へ渡って行った。
二
先頃から河南の地方に、何十万とむらがっている賊の大軍と戦っていた大将軍朱雋は、思いのほか賊軍が手ごわいし、味方の死傷はおびただしいので、
「いかがはせん」と、内心煩悶して、苦戦の憂いを顔にきざんでいたところだった。
そこへ、
「潁川から広宗へ向った玄徳の隊が、形勢の変化に、途中から引っ返してきて、ただ今、着陣いたしましたが」と、幕僚から知らせがあった。
朱雋はそれを聞くと、
「やあ、それはよい所へ来た。すぐ通せ、失礼のないように」
と、前とは、打って変って、鄭重に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて、
「長途、おつかれであろう」と、歓待した。
正直な張飛は、前の不快もわすれて、すっかり感激してしまい、
「士は己を知る者の為に死す、である」
などと酔った機嫌でいった。
だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。
翌日。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破っていただきたい方面がある」
と、朱雋は、玄徳らの軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取っている頑強な敵陣の突破を命じた。
否む理由はないので、
「心得た」と、義軍は、朱雋の部下三千を加えて、そこの高地へ攻めて行った。
やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなった。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になって、兵馬の行くてを晦くした。
「やあ、これはまた、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまって、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいいぞ」
朱雋からつけてよこした部隊から、誰いうとなく、こんな声が起って、恐怖はたちまち全軍を蔽った。
「ばかなっ」
関羽は怒って、
「世に理のなき妖術などがあろうか。武夫たるものが、幻妖の術に怖れて、木の根にすがり、大地を這い、戦意を失うとは、何たるざまぞ。すすめや者ども、関羽の行く所には妖気も避けよう」
と大声で鼓舞したが、
「妖術にはかなわぬ。あたら生命をわざわざおとすようなものだ」
と、朱雋の兵は、なんといっても前進しないのである。
聞けば、この高地へ向った官軍は、これまでにも何度攻めても、全滅になっているというのであった。黄巾賊の大方師張角の弟にあたる張宝は、有名な妖術つかいで、それがこの高地の山谷の奥に陣取っているためであるという。
そう聞くと張飛は、
「妖術とは、外道魔物のする業だ。天地闢けて以来、まだかつて方術者が天下を取ったためしはあるまい。怖じる心、おそれる眼、わななく魂を惑わす術を、妖術とはいうのだ。怖れるな、惑うな。――進まぬやつは、軍律に照らして斬り捨てるぞ」
と、軍のうしろにまわって、手に蛇矛を抜きはらい、督戦に努めた。
朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが、張飛の蛇矛にはなお恐れて、やむなくわっと、黒風へ向って前進しだした。
三
その日は、天候もよくなかったに違いないが、戦場の地勢もことに悪かった。寄手にとっては、甚だしく不利な地の利にいやでも置かれるように、そこの高地は自然にできている。
峨々たる山が、道の両わきに、鉄門のように聳えている。そこを突破すれば、高地の沢から、山地一帯の敵へ肉薄できるのだが、そこまでが、近づけないのだった。
「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。豪傑、どうか無謀はやめて、引っ返し給え」
と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、怯み上がっていうほどだから、兵卒が皆、恐怖して自由に動かないのも無理ではなかった。
だが、張飛は、
「それは、いつもの寄手が弱いからだ。きょうは、われわれの義軍が先に立って進路を斬りひらく、武夫たる者は、戦場で死ぬのは、本望ではないか。死ねや、死ねや」と、督戦に声をからした。
先鋒は、ゆるい砂礫の丘を這って、もう鉄門峡のまぢかまで、攻め上っていた。朱雋軍も、張飛の蛇矛に斬り捨てられるよりはと、その後から、芋虫の群れが動くように這い上がった。
すると、たちまち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかとおぼえた時、一方の山峡の頂に、陣鼓を鳴らし、銅鑼を打ちとどろかせて、
――わあっ。わあっ。
と、烈風も圧するような鬨の声がきこえた。寄手は皆地へ伏し、眼をふさぎ、耳を忘れていたが、その声に振り仰ぐと、山峡の絶巓はいくらか平盤な地になっているとみえて、そこに賊の一群が見え「地公将軍」と書いた旗や、八卦の文を印した黄色の幟、幡など立て並べて、
「死神につかれた軍が、またも黄泉へ急いで来つるぞ。冥途の扉を開けてやれ」
と、声を合わせて笑った。
その中に一人、遠目にもわかる異相の巨漢があった。口に魔符を噛み、髪をさばき、印をむすんでなにやら呪文を唱えている容子だったが、それと共に烈風は益〻つのって、晦冥な天地に、人の形や魔の形をした赤、青、黄などの紙片がまるで五彩の火のように降ってきた。
「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、呪を唱えて、天空から羅刹の援軍を呼び出したぞ」
朱雋の兵は、わめき合うと、逃げ惑って、途も失い、ただ右往左往うろたえるのみだった。
張飛の督戦も、もう効かなかった。朱雋の兵があまり恐れるので、義軍の兵にも恐怖症がうつったようである。そして風魔と砂礫にぶつけられて、全軍、進むことも退くこともできなくなってしまった時、赤い紙片や青い紙片の魔物や武者は、それ皆が、生ける夜叉か羅刹の軍のように見えて、寄手は完全に闘志を失ってしまった。
事実。
そうしている間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりをあげ、煙をふいて、寄手の上に降ってきたのである。またたくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになっていた。
「敗れた! 負けたっ」
玄徳は、軍を率いてから初めて惨たる敗戦の味をいま知った。
そう叫ぶと、
「関羽っ。張飛っ。はや兵を退けっ――兵を退けっ」
そして自分もまっしぐらに、駒首を逆落しに向けかえし、砂礫とともに山裾へ馳け下った。
四
敗軍を収めて、約二十里の外へ退き、その夜、玄徳は関羽、張飛のふたりと共に、帷幕のうちで軍議をこらした。
「残念だ、きょうまで、こんな敗北はしたことがないが」と、張飛がいう。
関羽は、腕を拱んでいたが、
「朱雋の兵が、戦わぬうちから、あのように恐怖しているところを見ると、何か、あそこには不思議がある。張宝の幻術も、実際、ばかにはできぬかも知れぬ」と、呟いた。
「幻術の不思議は、わしには解けている。それは、あの鉄門峡の地形にあるのだ。あの峡谷には、常に雲霧が立ちこめていて、その気流が、烈風となって、峡門から麓へいつも吹いているのだと思う」
これは玄徳の説である。
「なるほど」と二人とも初めて、そうかと気づいた顔つきだった。
「だから少しでも天候の悪い日には、ほかの土地より何十倍も強い風が吹きまくる。この辺が、晴天の日でも、峡門には、黒雲がわだかまり、砂礫が飛び、煙雨が降り荒んでいる」
「ははあ、大きに」
「好んで、それへ向ってゆくので、近づけばいつも、賊と戦う前に、天候と戦うようなものになる。張宝の地公将軍とやらは、奸智に長けているとみえて、その自然の気象を、自己の妖術かの如く、巧みに使って、藁人形の武者や、紙の魔形など降らせて、朱雋軍の愚かな恐怖をもてあそんでいたものであろう」
「さすがに、ご活眼です。いかにも、それに違いありません。けれど、あの山の賊軍を攻めるには、あの峡門から攻めかかるほかありますまい」
「ない。――それ故に、朱雋はわざと、われわれを、この攻め口へ当らせたのだ」
玄徳は、沈痛にいった。
関羽、張飛の二人も、良い策もない、唇をむすんで、陣の曠野へ眼をそらした。
折から仲秋の月は、満目の曠野に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のような山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も嘘ごとのように、大気と月光の下に横たわっていた。
「いや、ある、ある」
突然、張飛が、自問自答して云いだした。
「攻め口が、ほかにないとはいわさん。長兄、一策があるぞ」
「どうするのか」
「あの絶壁を攀じ登って、賊の予測しない所から不意に衝きくずせば、なんの造作もない」
「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れそうに見える所から登ったのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れそうに見えない場所から登るのが、用兵の策というものであろう」
「張飛にしては、珍しい名言を吐いたものだ。その通りである。登れぬものときめてしまうのは、人間の観念で、その眼だけの観念を超えて、実際に懸命に当ってみれば案外やすやすと登れるような例はいくらでもあることだ」
さらに、三名は、密議をねって、翌る日の作戦に備えた。
朱雋軍の兵、約半分の数に、おびただしい旗や幟を持たせ、また、銅鑼や鼓を打ち鳴らさせて、きのうのように峡門の正面から、強襲するような態を敵へ見せかけた。
一方、張飛、関羽の両将に、幕下の強者と、朱雋軍の一部の兵を率きつれた玄徳は、峡門から十里ほど北方の絶壁へひそかに這いすすみ、惨澹たる苦心のもとに、山の一端へ攀じ登ることに成功した。
そしてなお、士気を鼓舞するために、すべての兵が山巓の一端へ登りきると、そこで玄徳と関羽は、おごそかなる破邪攘魔の祈祷を天地へ向って捧げるの儀式を行った。
五
敵を前にしながら、わざとそんな所で、おごそかな祈祷の儀式などしたのは、玄徳直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れている兵がたくさんいるらしく見えたからであった。
式が終ると、
「見よ」
玄徳は空を指していった。
「きょうの一天には、風魔もない、迅雷もない、すでに、破邪の祈祷で、張宝の幻術は通力を失ったのだ」
兵は答えるに、万雷のような喊声をもってした。
関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の砦を踏みつぶせ」
と軍を二手にわけて、峰づたいに張宝の本拠へ攻めよせた。
地公将軍の旗幟を立てて、賊将の張宝は、例によって、鉄門峡の寄手を悩ましにでかけていた。
すると、思わざる山中に、突然鬨の声があがった。彼は、味方を振返って、
「裏切り者が出たか」と、訊ねた。
実際、そう考えたのは、彼だけではなかった。裏切り者裏切り者という声が、何処ともなく伝わった。
張宝は、
「不埓な奴、何者か、成敗してくれん」
と、そこの守りを、賊の一将にいいつけて、自身、わずかの部下を連れて、山谷の奥にある――ちょうど螺の穴のような渓谷を、驢に鞭打って帰ってきた。
するとかたわらの沢の密林から、一すじの矢が飛んできて、張宝のこめかみにぐざと立った。張宝はほとばしる黒血へ手をやって、わッと口を開きながら矢を抜いた。しかし鏃はふかく頭蓋の中に止まって、矢柄だけしか抜けてこなかったくらいなので、とたんに、彼の巨躯は、鞍の上から真っ逆さまに落ちていた。
「賊将の張宝は射止めたるぞ。劉玄徳、ここに黄匪の大方張角の弟、地公将軍を討ち取ったり」
次に、どこかで玄徳の大音声がきこえると、四方の山沢、みな鼓を鳴らし、奔激の渓流、挙って鬨をあげ、草木みな兵と化ったかと思われた。玄徳の兵は、一斉に衝いて出で、あわてふためく張宝の部下をみなごろしにした。
山谷の奥からも、同時に黒煙濛々とたち昇った。張飛か、関羽の手勢が、本拠の砦に、火をかけたものらしい。
上流から流れてくる渓水は、みるまに紅の奔流と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となって、三日三晩燃えとおした。
首馘る数一万余、黒焦げとなった賊兵の死骸幾千幾万なるを知らない。殲滅戦の続けらるること七日余り、玄徳は、赫々たる武勲を負って朱雋の本営へ引揚げた。
朱雋は、玄徳を見ると、
「やあ、足下は実に運がいい。戦にも、運不運があるものでな」と、いった。
「ははあ、そうですか。ひと口に、武運ということもありますからね」
玄徳は、なんの感情にも動かされないで、軽く笑った。
朱雋は、さらにいう。
「自分のひきうけている野戦のほうは、まだいっこう勝敗がつかない。山谷の賊は、ふくろの鼠としやすいが、野陣の敵兵は、押せばどこまでも、逃げられるので弱るよ」
「ごもっともです」
それにも、玄徳はただ、笑ってみせたのみであった。
然るところ、ここに、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。
六
伝令の告げるには、
「先に戦没した賊将張宝の兄弟張梁という者、天公将軍の名を称し、久しくこの曠野の陣後にあって、督軍しておりましたが、張宝すでに討たれぬと聞いて、にわかに大兵をひきまとめ、陽城へたて籠って、城壁を高くし、この冬を守って越えんとする策を取るかに見うけられます」
とのことだった。
朱雋は、聞くと、
「冬にかかっては、雪に凍え、食糧の運輸にも、困難になる。ことに都聞えもおもしろくない。今のうちに攻めおとせ」
総攻撃の令を下した。
大軍は陽城を囲み、攻めること急であった。しかし、賊城は要害堅固をきわめ、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月余も費やしたが、城壁の一角も奪れなかった。
「困った。困った」
朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、玄徳は聞えぬ顔をしていた。
よせばいいに、そんな時、張飛が朱雋へいった。
「将軍。野戦では、押せば退くしで、戦いにくいでしょうが、こんどは、敵も城の中ですから、袋の鼠を捕るようなものでしょう」
朱雋は、まずい顔をした。
そこへ遠方から使いが来て、新しい情報をもたらした。それもしかし朱雋の機嫌をよくさせるものではなかった。
曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負って下っていた董卓・皇甫嵩の両軍が、賊の大方張角の大兵と戦っていた。使いはその方面のことを知らせに来たものだった。
董卓と皇甫嵩のほうは、朱雋のいういわゆる武運がよかったのか、七度戦って七度勝つといった按配であった。ところへまた、黄賊の総帥張角が、陣中で病没したため、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に梟くるところの賊首何千、さらに、張角を埋けた墳をあばいてその首級を洛陽へ上せ、
(戦果かくの如し)と、報告した。
大賢良師張角と称していた首魁こそ、天下に満つる乱賊の首体である。張宝は先に討たれたりといっても、その弟にすぎず、張梁なおありといっても、これもその一肢体でしかない。
朝廷の御感は斜めならず、
(征賊第一勲)
として、皇甫嵩を車騎将軍に任じ、益州の牧に封ぜられ、そのほか恩賞の令を受けた者がたくさんある。わけても、陣中常に赤い甲冑を着て通った武騎校尉曹操も、功によって、済南(山東省・黄河南岸)の相に封じられたとのことであった。
自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共によろこびを感じるほど、朱雋は寛度でない。彼はなお、焦心りだして、
「一刻もはやく、この城を攻め陥し、汝らも、朝廷の恩賞にあずかり、封土へ帰って、栄達の日を楽しまずや」と、幕僚をはげました。
もちろん、玄徳らも、協力を惜しまなかった。攻撃に次ぐ攻撃をもって、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
城内の賊の中に、厳政という男があった。これは方針をかえる時だとさとったので、ひそかに朱雋に内通しておき、賊将張梁の首を斬って、
「願わくば、悔悟の兵らに、王威の恩浴を垂れたまえ」と、軍門に降ってきた。
陽城を墜した勢いで、
「さらに、与党を狩りつくせ」
と、朱雋の軍六万は、宛城(湖北省・荊門県附近)へ迫って行った。そこには、黄巾の残党、孫仲・韓忠・趙弘の三賊将がたて籠っていた。
七
「賊には援けもないし、城内の兵糧もいたずらに敗戦の兵を多く容れたから、またたく間に尽きるであろう」
朱雋は、陣頭に立って、賊の宛城の運命を、かく卜った。
朱雋軍六万は、宛城の周囲をとりまいて、水も漏らさぬ布陣を詰めた。
賊軍は、
「やぶれかぶれ」の策を選んだか、連日、城門をひらいて、戦を挑み、官兵賊兵、相互におびただしい死傷を毎日積んだ。
然しいかんせん、城内の兵糧はもう乏しくて、賊は飢渇に瀕してきた。そこで賊将韓忠は遂に、降使を立てて、
「仁慈を垂れ給え」と、降伏を申し出た。
朱雋は、怒って、
「窮すれば、憐みを乞い、勢いを得れば、暴魔の威をふるう、今日に至っては、仁慈もなにもない」
と、降参の使者を斬って、なおも苛烈に攻撃を加えた。
玄徳は彼に諫めた。
「将軍、賢慮し給え。昔、漢の高祖の天下を統べたまいしは、よく降人を容れてそれを用いたためといわれています」
将軍は、嘲笑って、
「ばかをいい給え。それは時代による。あの頃は、秦の世が乱れて項羽のようながさつ者の私議暴論が横行して、天下に定まれる君主もなかった時勢だろ、ゆえに高祖は、讐ある者でも、降参すれば、手なずけて用うことに腐心したのである。また、秦の乱世のそれと、今日の黄賊とは、その質がちがう。生きる利なく、窮地に墜ちたがゆえに、降を乞うてきた賊を、愍れみをかけて、救けなどしたら、それはかえって寇を長じさせ、世道人心に、悪業を奨励するようなものではないか。この際、断じて、賊の根を絶たねばいかん」
「いや、伺ってみると、たいへんごもっともです」
玄徳は、彼の説に伏した。
「では、攻めて城内の賊を、殲滅するとしてもです。こう四方、一門も遁れる隙間なく囲んで攻めては、城兵は、死の一途に結束し、恐ろしい最後の力を奮いだすにきまっています。味方の損害もおびただしいことになりましょう。一方の門だけは、逃げ口を与えておいて、三方からこれを攻めるべきではありますまいか」
「なるほど、その説はよろしい」
朱雋は、直ちに、命令を変更して、急激に攻めたてた。
東南の一門だけ開いて、三方から鼓をならし、火を放った。
果たして、城内の賊は、乱れ立って一方へくずれた。
朱雋は、騎を飛ばして、乱軍の中に、賊将の韓忠を見かけ、鉄弓で射とめた。
韓忠の首を、槍に突き刺させて、従者に高く振り上げさせ、
「征賊大将軍朱雋、賊徒の将、韓忠をかく葬ったり。われと名乗る者やなおある」
と、得意になって呶鳴った。
すると、残る賊将の趙弘、孫仲のふたりは、
「あいつが朱雋か」と、火炎の中を、黒驢を飛ばして、名のりかけてきた。
朱雋は、たまらじと、自軍のうちへ逃げこんだ。韓忠親分の讐と怒りに燃えた賊兵は、朱雋を追って、朱雋の軍の真ん中を突破し、まったくの乱軍を呈した。
賊の一に対して、官兵は十人も死んだ。朱雋につづいて、官軍はわれがちに十里も後ろへ退却した。
賊軍は、気をもり返して、城壁の火を消し、再び四方の門を固くして、
「さあいつでも来い」と構えなおした。
その日の黄昏れ、多くの傷兵が、惨として夕月の野に横たわっている官軍の陣営へ、何処からきたか、一彪の軍馬が馳けきたった。
八
「何者か」
と、玄徳らは、やがて近づいて陣門に入るその軍馬を、幕舎の傍らから見ていた。
総勢、約千五百の兵。
隊伍は整然、歩武堂々。
「そもこの精鋭を統べる将はいかなる人物か」を、それだけでも思わすに足るものだった。
見てあれば。
その隊伍の真っ先に、旗手、鼓手の兵を立て、続いてすぐ後から、一頭の青驪にまたがって、威風あたりを払ってくる人がある。
これなんその一軍の大将であろう。広額、濶面、唇は丹のようで、眉は峨眉山の半月のごとく高くして鋭い。熊腰にして虎態、いわゆる威あって猛からず、見るからに大人の風を備えている。
「誰かな?」
「誰なのやら」
関羽も張飛も、見まもっていたが、ほどなく陣門の衛将が、名を糺すに答える声が、遠くながら聞えてきた。
「これは呉郡富春(浙江省・富陽市)の産で、孫堅、字は文台という者です。古の孫子が末葉であります。官は下邳の丞ですが、このたび王軍、黄巾の賊徒を諸州に討つと承って、手飼いの兵千五百を率い、いささか年来の恩沢にむくゆべく、官軍のお味方たらんとして馳せ参じた者であります。――朱雋将軍へよろしくお取次を乞う」
堂々たる態度であった。
また、音吐も朗々と聞えた。
「…………」
関羽と張飛は、顔を見合わせた。先には、潁川の野で、曹操を見、今ここにまた、孫堅という一人物を見て、
「やはり世間はひろい。秀でた人物がいないではない。ただ、世の平静なる時は、いないように見えるだけだ」と、感じたらしかった。
同じ、その世間を、
「甘くはできないぞ」
という気持を抱いたであろう。なにしろ、孫堅の入陣は、その卒伍までが、立派だった。
孫堅の来援を聞いて、
「いや呉郡富春に、英傑ありと、かねてはなしに聞いていたが、よくぞ来てくれた」
と、朱雋はななめならずよろこんで迎えた。
きょうさんざんな敗軍の日ではあったし、朱雋は、大いに力を得て、翌日は、孫堅が准泗の精鋭千五百をも加えて、
「一挙に」と、宛城へ迫った。
即ち、新手の孫堅には、南門の攻撃に当らせ、玄徳には北門を攻めさせ、自身は西門から攻めかかって、東門の一方は、前日の策のとおり、わざわざ道をひらいておいた。
「洛陽の将士に笑わるるなかれ」
と、孫堅は、新手でもあるので、またたく間に、南門を衝き破り、彼自身も青毛の駒をおりて、濠を越え、単身、城壁へよじ登って、
「呉郡の孫堅を知らずや」
と賊兵の中へ躍り入った。
刀を舞わして孫堅が賊を斬ること二十余人、それに当って、噴血を浴びない者はなかった。
賊将の趙弘は、
「ふがいなし、彼奴、何ほどのことやあらん」
赫怒して孫堅に名のりかけ、烈戦二十余合、火をとばしたが、孫堅はあくまでつかれた色も見せず、たちまち趙弘を斬って捨てた。
もう一名の賊将孫仲は、それを眺めて、かなわじと思ったか、敗走する味方の賊兵の中にまぎれこんで、早くも東門から逃げ走ってしまった。
九
その時。
ひゅっと、どこか天空で、弦を放たれた一矢の矢うなりがした。
矢は、東門の望楼のほとりから、斜めに線を描いて、怒濤のように、われがちと敗走してゆく賊兵の中へ飛んだが、狙いあやまたず、今しも金蘭橋の外門まで落ちて行った賊将孫仲の頸を射ぬき、孫仲は馬上からもんどり打って、それさえ眼に入らぬ賊兵の足にたちまち踏みつぶされたかに見えた。
「あの首、掻き取ってこい」
玄徳は、部下に命じた。
望楼のかたわらの壁上に鉄弓を持って立ち、目ぼしい賊を射ていたのは彼であった。
一方、官軍の朱雋も、孫堅も城中に攻め入って、首をとること数万級、各所の火災を鎮め、孫仲・趙弘・韓忠三賊将の首を城外に梟け、市民に布告を発し、城頭の余燼まだ煙る空に、高々と、王旗をひるがえした。
「漢室万歳」
「洛陽軍万歳」
「朱雋大将軍万歳」
南陽の諸郡もことごとく平定した。
かの大賢良師張角が、戸ごとに貼らせた黄いろい呪符もすべてはがされて、黄巾の兇徒は、まったく影をひそめ、万戸泰平を謳歌するかに思われた。
しかし、天下の乱は、天下の草民から意味なく起るものではない。むしろその禍根は、民土の低きよりも、廟堂の高きにあった。川下よりも川上の水源にあった。政を奉ずる者より、政をつかさどる者にあった。地方よりも中央にあった。
けれど腐れる者ほど自己の腐臭には気づかない。また、時流のうごきは眼に見えない。
とまれ官軍は旺だった。征賊大将軍は功なって、洛陽へ凱旋した。
洛陽の城府は、挙げて、遠征の兵馬を迎え、市は五彩旗に染まり、夜は万燈にいろどられ、城内城下、七日七夜というもの酒の泉と音楽の狂いと、酔どれの歌などで沸くばかりであった。
王城の府、洛陽は千万戸という。さすがに古い伝統の都だけに、物資は富み、文化は絢爛だった。佳人貴顕たちの往来は目を奪うばかり美しい。帝城は金壁にかこまれ、瑠璃の瓦を重ね、百官の驢車は、翡翠門に花のよどむような雑鬧を呈している。天下のどこに一人の飢民でもあるか、今の時代を乱兆と悲しむいわれがあるのか、この殷賑に立って、旺なる夕べの楽音を耳にし、万斛の油が一夜にともされるという騒曲の灯の、宵早き有様を眺むれば、むしろ、世を憂え嘆く者のことばが不思議なくらいである。
けれど。
二十里の野外、そこに連なる外城の壁からもし一歩出てみるならば、秋は更けて、木も草も枯れ、いたずらに高き城壁に、蔓草の離々たる葉のみわずかに紅く、日暮れれば花々の闇一色、夜暁ければ颯々の秋風ばかり哭いて、所々の水辺に、寒げに啼く牛の仔と、灰色の空をかすめる鴻の影を時たまに仰ぐくらいなものであった。
そこに。
無口に屯している人間が、枯れ木や草をあつめて焚火をしながら、わずかに朝夕の霜の寒さをしのいでいた。
玄徳たちの義軍であった。
義軍は、外城の門の一つに立って、門番の役を命じられている。
といえば、まだ体裁はよいが、正規の官軍でなし、官職のない将卒なので、三軍洛陽に凱旋の日も、ここに停められて、内城から先へは入れられないのであった。
鴻が飛んでゆく。
野芙蓉にゆらぐ秋風が白い。
「…………」
玄徳も関羽も、この頃は、無口であった。
あわれな卒伍は、まだ洛陽の温かい菜の味も知らない。土龍のように、鉄門の蔭に、かがまっていた。
張飛も黙然と、水ばなをすすっては、時折、ひどく虚無に囚われたような顔をして、空行く鴻の影を見ていた。