殺地の客

 孔明の使命はまず成功したといってよい。呉の出師は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権に暇を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。
 同舟の人々は、みな前線におもむく将士である。中に、程普魯粛の二将もいた。
 程普は由来、大都督周瑜と、余りそりのあわない仲だったし、こんどの出師にも、反対側に立っていたが、いまは口を極めて、周瑜の人物を賞揚していた。
「何といっても、まだ若いし、どうかと実は危ぶんでおったが、今朝、江岸の勢揃いに、将台に立って三軍の令を云い渡した態度と威厳は、実に堂々たるものだったそうな――伜の程咨もそう云いおりました。稀代な英傑が呉に生れたものだと」
 魯粛もそれへ相槌を打って、
「いやあのお方は、青年時代、ひどく風流子のようにいわれ過ぎていたが、どうしてどうして外柔内剛です。これから戦場に臨んでみたら、いよいよその本質が発揮されるでしょう」と、いった。
 程普は、いかにもと、打ちうなずいて、
「自分なども今までは、周都督の人物にたいし、認識を欠いていた一人であったが、今日以後はいかに此方らが年長であろうと実戦の体験にくわしかろうと、問うところではない。ひたすら周都督の命令によって忠節をつくそうと思う。――実は慚愧にたえないので、出舷の前に、都督に会って、そう偽りのない気もちを語り、旧来の罪を謝して来たわけだ」と、しきりに懺悔していた。
 孔明もそこにいたが、二人のその話には、何もふれて行かなかった。独り船窓に倚って、恍然と、外の水や空を見ていた。
 三江をさかのぼること七、八十里、大小の兵船は蝟集していた。江岸いたるところに水寨を構え、周瑜はその中央の地点に位する西山をうしろにとって水陸の総司令部となし、五十里余にわたって陣屋、柵門を構築し、天日の光もさえぎるばかり、翻々颯々、旗幡大旆を植えならべた。
孔明もあとから来ているそうだが……」
 と彼はその本陣で、魯粛に会うとすぐいった。
「誰か、迎えにやってくれないか」
「これへお召しになるのですか」
「そうだ」
「では、誰彼というよりも、自分で言って参りましょう」
 魯粛は、すぐ江岸の陣屋へ行って、そこに休息していた孔明を伴ってきた。
 周瑜は、雑談のすえ、
「ところで、先生にお教を乞いたいことがありますが」
「何ですか」
白馬官渡の戦いについて」
「あれは袁紹曹操の合戦でしょう。私に何が分りましょう」
「いや、先生の蘊蓄ある兵法に照して、あの戦いに寡兵を以てよく大軍を打破った曹操の大捷利は、何に起因するものなるかを――それがしのために説き明かしていただきたいので」
「士気、用兵の敏捷、もとより操と紹との違いもありましょうが、要するに、曹軍の奇兵が、袁紹側の烏巣の兵糧を焼き払ったことが、まずあの大捷を決定的なものにしたといっても過言ではありますまい」
「ああ、愉快」と、周瑜は膝を打って、
「先生のお考えもそうでしたか、自分もあの戦いの分れ目はその一挙にあったと観ておった。――思うに今、曹操の兵力は八十三万、わが軍の実数はわずか三万、当年の曹操はまさにその位置を顛倒して絶対優勢な側にある。これを破るには、われもまた、彼の兵糧運送の道を断つが上策と考えるが、先生以て如何となすか?」
「彼の糧地はどこか突きとめてありますか」
「百方、物見を派して探り得ておる。曹操の兵糧はことごとく聚鉄山にあるという。先生は少年の頃から荊州に住み馴れ、あの辺の地理には定めしおくわしいであろう。彼を破るは、共に主君の御為、ひとつ決死の兵千余騎を貸しますから、夜陰、敵地に深く入って、彼の糧倉を焼き払って下さらんか。――あなたをおいては、この壮挙を見事成し遂げる人はいない」

 孔明はすぐさとった。これは周瑜が、敵の手をかりて、自分を害そうとする考えであるに違いない――と。
 が彼は、欣然、
「承知しました」と、ことばをつがえて帰って行った。
 そばにいた魯粛は、周瑜のためにも孔明のためにも惜しんで、後からそっと孔明の仮屋をうかがってみた。
 帰るとすぐ、孔明は鉄甲を着け、剣を佩き、早くも武装して夜に入るのを待ちかまえている様子である。魯粛はこらえかねて、姿を見せ、気の毒そうにたずねた。
「先生、あなたは今宵のご発向に、必勝を期して行かれるのですか。それとも、やむなき破目と、観念されたのですか」
 孔明は、笑いを含んで、
「広言のようですが、この孔明は、水上の船戦、馬上の騎兵戦、輸車戦車の合戦、歩卒銃手の平野戦、いずれにおいても、その妙を極めぬものはありません。――何で、敗北と諦めながら出向きましょう」
「しかし、曹操ほどな者が、全軍の生命とする糧倉の地に、油断のあるはずはない。寡兵をもって、それへ近づくなど、死地に入るも同様でしょう」
「それは、貴公の場合とか、また周都督ならそうでしょう。そう二者が一つになっても、ようやくこの孔明の一能にしかなりませんからな」
「二者にして一能にしかならんとは、どういうわけですか」
「陸戦にかけては魯粛、水軍にかけては周瑜ありとは、よく呉の人から自慢に聞くことばです。けれど失礼ながら、陸の覇者たるあなたも、船戦にはまったく晦く、江上の名提督たる周閣下も、陸戦においては、河童も同様で、なんの芸能もありません。――思うに、完き名将といわるるには、智勇兼備、水陸両軍に精しく、いずれを不得手、いずれを得手とするが如き、片輪車ではなりますまい」
「ほう。先生にも似あわしからぬ大言。この魯粛はともあれ、周都督を半能の人と仰せらるるは、近頃ちとおことばが過ぎはしませんか」
「いや、試みに、眼前の事実をごらんあれば分ろう。この孔明に兵千騎を託して、それで聚鉄山の糧倉が焼き払えるものと考えているなどは、まったく陸戦に晦い証拠ではありませんか。――われもし今宵討死せば、周都督の愚将たる名は一時に天下にとどろくでしょう」
 魯粛は驚いて、倉皇と立ち去ったが、すぐそのことを、周瑜の耳に入れていた。
 由来、周瑜も感情家である。時々、その激血が理性を蹴る。いまも魯粛から、孔明の大言したことを聞くと、
「なに、この周瑜を、陸地の戦いには、まったく暗い愚将だといったか。半能の大将に過ぎないといったのだな。……よしっ、すぐもう一度、孔明のところへ行って、孔明の出陣を止めてきてくれ。こよいの夜襲には、われ自ら進んで、かならず敵の糧倉を焼払ってみせる」
 孔明に侮られたのを心外とするのあまり、意を決して、自身の手並のほどを見せ示そうとする気らしい。直ちに幕下へ発向の触れをまわして、兵数も増して五千余騎となし、夜と共に出で立つ準備にとりかかった。
 かくと魯粛から聞いて、孔明はいよいよ笑った。
「五千騎行けば五千、八千騎行けば八千、ことごとく曹操の好餌となって、大将も生け捕られるであろう。周都督は呉の至宝、そうさせてはなるまい。足下は親友、よく理を説いて、思い止まらせてあげたがよい」
 そしてなお、魯粛に言を託して、
「いま、呉とわが劉予州の君とが、真に一体となって曹操に当れば、大事はきっと成るであろう。相剋し、内争し、相疑えば、かならず曹操に乗ぜられん。――またこのたびの出師にその戦端を陸地から選ぶは不利。よろしく江上の船戦をもって、第一戦の雌雄を決し、敵の鋭気をくじいて後、徐々陸戦の機をはかるべきであろう」と、云ってやった。

 すでに一帯の陣地は黄昏れかけている。周瑜は馬を呼んでいた。五千の兵は、薄暮の中に勢揃いして、粛然、出立の令を待っているところであった。
 そこへ魯粛が駆けてきて、孔明のことばを周瑜に伝えた。周瑜は聞くと、耳をそばだてて、
「ああ。おれの才は、ついに孔明に及ばないか」と、痛嘆した。
 急に彼は、出立を取消した。聚鉄奇襲の計画をあきらめてしまったのである。彼も決して暗愚なる大将ではない。孔明にいわれないでも、そのことの危険は充分に知っていたからだった。
 しかし、その夜の挙は見合わせたにしても、孔明に対する害意に変更は来さなかった。むしろ孔明の叡智を恐れるのあまり、その殺意は、いよいよ深刻となり陰性となって、周瑜の胸の奥に、
(後日、またの機会に)
 と、独りひそかに誓われていたにちがいなかった。
 ――こうした南方の情勢一変と、孔明の身辺に一抹の凶雲がまつわって来つつある間に、一方、江夏の玄徳は、そこを劉琦の手勢に守らせて、自身とその直属軍とは、夏口漢口)の城へ移っていた。
 彼は、毎日のように、樊口の丘へ登って、
孔明は如何にせしか」と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、
「呉の向背や如何に?」と、江南の雲に安からぬ眸を凝らしていた。
 ところへ、近頃、遠く物見に下江って行った一艘が帰帆してきて、玄徳に告げることには、
「呉はいよいよ魏軍へ向って開戦しました。数千の兵船が、舳艫をならべて遡航しつつあるとのこと。また、三江江岸一帯、前代未聞の水寨を構築しています。さらに、北岸の形勢をうかがうに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもって、江陵荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ南へと移動しつつあります」と、あった。
 玄徳はその報告の半ばまで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面にあらわし、
「さては、わが策成れり」
 と歓び勇んだ。
 元来、玄徳は、よほどなことがあっても、そう欣舞雀躍はしない性である。時によると、うれしいのかうれしくないのか、侍側の者でも、張合いを失うほどすこぶるぼうとしていることなどある。
 だが、この時は、よほど内心うれしかったようである。すぐ夏口の城楼に、臣下をあつめて、
「すでに、呉は起ったのに、今もって、孔明からは何の消息もない。誰か、江を下って、呉軍の陣見舞いにおもむき、孔明の安否を探ってくる者はないか」と、いった。
 糜竺がすすんで望んだ。
「不才ながら、てまえが行って来ましょう」
「そちが行ってくれるか」
 玄徳は、適任だと思った。
 糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕の中でも一種特異な人材であった。
「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」
 安心して、玄徳は彼をやった。糜竺はかしこまって、直ちに、一帆の用船に、薫酒、羊肉、茶、そのほか沢山な礼物を積んで、江を下った。
 呉陣の岸について、番の隊将に旨をつたえ、すぐ本営に行って周瑜と会った。
「これは、ねんごろな陣見舞いを」
 と、周瑜は快く品々をうけ、また使い糜竺をもてなしはしたが、
「どうか、ご主君劉予公へ、よろしくお伝え賜りたい」
 と、どこかよそよそしく、孔明のうわさなどには、一切ふれてこなかった。

 翌日、また次の日と、会談は両三回に及んだが、周瑜はいつも、話題の孔明に及ぶことを避けていた。
 糜竺は三日目の朝、暇を告げに行った。すると、周瑜は初めて、
孔明もいまわが陣中にあるが、共に曹操を討つには、ぜひ一度、劉予公も加えて、緊密なる大策を議さねばなるまいかと考えておる。――幸いに、玄徳どのが、これまで来会してくれれば、これに越したことはないが」と、いった。
 糜竺は、畏まって、
「何と仰せあるか分りませんが、ご意向の趣は、主君劉予州にお伝えしましょう」
 と約して帰った。
 魯粛はそのあとで、
「何のために、玄徳を、この陣中へお招きになるのですか」
 と、周瑜の意中をいぶかって訊ねた。すると、周瑜は、
「もちろん殺すためだ」と、平然と答えた。
 孔明を除き、玄徳を亡き者にしてしまうことが、呉の将来のためであると、周瑜はかたく信じているらしいのである。その点、魯粛の考えとは非常に背馳しているけれど、まだ曹操との一戦も開始しないうちに、味方の首脳部で内紛論争を起すのもおもしろくないことだし、先は、大都督の権を以てすることなので、魯粛も、
「さあ、どういうものですかな」
 と、口をにごす程度で、あえて、強い反対もしなかった。
 一方、夏口にある玄徳は、帰ってきた糜竺の口から委細を聞いて、
「では自身、さっそく呉の陣を訪ねて行こう」
 と、船の準備をいいつけた。
 関羽をはじめ諸臣はその軽挙を危ぶんで、
糜竺が行っても孔明に会わせない点から考えても、周瑜の本心というものは、多分に疑われます。態よく、返書でもおやりになっておいて、もう少し彼の旗色を見ていてはいかがですか」
 と、諫めたが、玄徳は、
「それでは、せっかく孔明が使いして実現した同盟の意義と信義にこちらから反くことになろう。虚心坦懐、ただ信をもって彼の信を信じて行くのみ」といってきかない。
 趙雲張飛は、留守を命ぜられ、関羽だけが供をして行った。
 一船の随員わずか二十余名、ほどなく呉の中軍地域に着いた。
 江岸の部隊からすぐこの由が本陣の周瑜に通達された。――来たか! というような顔色で、周瑜は番兵にたずねた。
「玄徳は、どれほどな兵を連れてやって来たか」
「従者は二十人ぐらいです」
「なに二十人」
 周瑜は笑って、
(わが事すでに成れり!)
 と、胸中でつぶやいていた。
 ほどなく、玄徳の一行は、江岸の兵に案内されて、中軍の営門を通ってきた。周瑜は出て、賓礼を執り、帳中に請じては玄徳に上座を譲った。
「初めてお目にかかる。わたくしは劉備玄徳。将軍の名はひとり南方のみではなく、かねがね北地にあっても雷のごとく聞いていましたが、はからずも今日、拝姿を得て、こんな愉快なことはありません」
 玄徳が、まずいうと、
「いやいや、まことに、区々たる不才。劉皇叔の御名こそ、かねてお慕いしていたところです。陣中、何のご歓待もできませんが」
 と、型のごとく、酒宴にうつり、重礼厚遇、至らざるなしであった。
 その日まで、孔明は何も知らなかったが、ふと、江岸の兵から、今日のお客は、夏口の劉皇叔であると聞いて、
「さては?」
 と、愕きをなして、急に、周瑜の本陣へ急いで行った。――そして帳外にたたずみ、ひそかに主客の席をうかがっていた。

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