奇計

 そこを去って、蕭関の砦を後にすると、陳登は、暗夜に鞭をあげて、夜明け頃までにはまた、呂布の陣へ帰っていた。
 待ちかねていた呂布は、
「どうだった? ……蕭関の様子は」と、すぐ糺した。
 陳登はわざと眉を曇らして、
「案の定、まことに憂うべき状態です」と、いった。
 呂布はもちろん顔色を変えた。
「では、わが眼のとどかぬ出城へ移って、早くも陳宮は異心をさし挟んでおる様子か」
「孫観、呉敦の輩は、もともと山野の賊頭なので、利を見て動くこともあろうかと、ひそかにおそれていましたが、陳宮のようなご恩顧の直臣までが、裏切りを謀っておろうとは思いませんでした。実に、人の心は頼み難いものです」
「いや陳宮は近頃、自分の言が事ごとに容れられないので、おれにすねているふうがあった。危うい哉――何も知らずに蕭関へ臨んだら、呂布は一生の大事を過るところだった」
 彼は、陳登の功をたたえ、次の如き一策をさずけて、再び陳登蕭関へ返した。
「――おれの伝令と偽って、陳宮に会い、何事でもよいから評議に時を移し、なるべく陳宮を酒に酔わしておけ。そして城楼から火の手をあげ、乾の門をあけておくのだ。火の手と共におれが突き進んで、自身、彼を成敗してしまうから」
 呂布は、すこぶる賢明な策のつもりだった。――で、日没頃から徐々と移動を起し、全軍、蕭関へ向って近づいていた。
 先に引っ返した陳登は、宵闇のとっぷりと迫った頃、蕭関に行き着いて、駒を降りるや否、
「一大事が起った」と、あわただしく、陳宮を呼びだして、息を喘きながら告げていた。
「――今日、曹操の大軍は、急角度に方向を変え、泰山の嶮や谷間をわたって、一斉に徐州へ攻め入ったという急報です。それ故、ここをお守りあっても、何の効もありません。速やかに、手勢をひいて、徐州を助けに向えとの命令です」
「えっ?」
 陳宮は、愕然と、胆を冷やした顔いろだった。
 応とも、否とも、陳宮が答えないまに、陳登はそう云い放したまま、すぐ駒にとび乗って、闇の中へ馳け去ってしまった。
 陳宮は、信じたとみえて、それから半刻とも経たないうちに、蕭関の守兵は、続々と砦を出て徐州のほうへ急いで行った。
 砦はがら空になった。
 するとその――寂たる暗天の望楼台に、一つの人影が起ち上がった。
 駒を飛ばして駈け去ったはずの陳登であった。
 陳登は鏃に密書をむすび、その矢をつがえて、搦手の山中へ、ひょうっと射た。
「……?」
 真っ暗な山ふところを見つめていると、やがて、松明を振っていた。
(矢文、見た、承知)
 の火合図なのである。
 暫くすると、乾、巽の二つの門から、ひたひたと、夜の潮のように、おびただしい人馬が、声もなく火影もなく、城内にはいって来た。そしてまた、墓場のようにしんとしていた。
 陳登は、見届けると、第二の合図をあげた。それは望楼から打揚げた狼烟であった。シュルシュルシュルと火鼠のような光が空へ走る。
 城外十里の彼方にあって、その火の手を待っていた呂布は、
「それっ、蕭関へ」と、一斉に駈けだした。
 揉みに揉んで、全軍、道を急いで行くと、同じような速度で砦から出てきた大部隊があった。
 徐州を救えと、何も知らずに急いできた陳宮の軍隊だった。
 呂布のほうでも知る筈はない。暗さは暗し、双方とも疑心暗鬼に襲われているところである。――当然、大衝突を起すと共に、かつての戦史にも見られない程な――酸鼻な同士討ちを徹底的に演じてしまった。

「はてな?」
 呂布はようやく気がついた。
 同時に、相手の軍勢の中でも、
「戟を引け、者どもしずまれ。――もしや相手は味方ではないか。曹操の軍とも思われぬふしがある」と、陳宮の声がしきりとしていた。
「馬鹿っ。同士討ちだっ」
 呂布はどなった。
 けれど、そう気がついたのがすでに遅い。双方ともおびただしい死傷を出し、お互いに意味なき戦をしたことに呆れはてて、茫然たるばかりだった。
「怪しからぬ陳登の虚言。おれに報告したことと、そちに云ったこととはまるで違う。……ともあれ、砦へ行ってよく聞こう」
 呂布は、怪しみながらも、そこで出会った陳宮の兵を合わせ、彼を連れて蕭関へ急いで来たが、そこへ近づくや否や、砦の内から一斉に曹操の兵が不意を衝いて喚きかかってきた。
 こんどは本当の曹操の兵だった。先に陳登が引入れておいたものである。鳴りをしずめて待ち構えていた矢先でもある。何でたまろう、呂布陳宮の兵は、潰乱混走を重ね、またしても、徹底的な打撃をうけてしまった。
 呂布さえ、闇を逃げまどって、からくも夜が明けてから、山間の岩陰から出てきたほどである。
 幸いに、陳宮に出会ったので、残り少ない味方をあつめ、
「ともかく、この上は、徐州へ帰って、一思案し直そう」と、悄然と急いだ。
 ところが。
 徐州の城門へ馳け入ろうとすると、櫓の上からバシャバシャッと雨のような矢が降って来た。
「こはいかに?」
 と仰天して、いななく駒の手綱をしめながら、城楼をふり仰ぐと、糜竺が壁上にあらわれて、
「匹夫。何しに来たか」と、大音で罵った。
「この城こそは、さきに汝が詐ってわが旧主玄徳様から騙し奪ったもの。当然、今日もとの主人の手に返った。もはや汝の家ではないのだ。どこへでも行きたい方角へ落ちて行け!」
 呂布は、鐙に立って、歯がみをしながら、
陳大夫はいないかっ。城内に陳大夫がいるだろう。――陳大夫! 顔を見せろ」
 と、さけんだ。
 糜竺は、からからと笑って、
「陳老人は今、奥にあって、祝杯をあげてござる。まんまと計られた相手に、この上、未練なすがたを見せたいのか」
 云い終ると、彼のすがたも、ひらりと楼の内にかくれ、後にはどっと手をうって笑う声のみが聞えた。
「無念だ。無念だ。……だが、まさか陳大夫が俺を?」
 呂布は、狂いまわる駒と共に、低徊してそこを去らなかった。
 陳宮は、歯ぎしりして、
「まだ悪人の奸計とおさとりなく、愚かな後悔に恋々とご苦悶あるか。悲しい哉、わが主君は、死ななければ目の醒めないお人だ」
 あまりな呂布の醜態に、陳宮は腹を立てて、独り先へ駒を引っ返してゆくと、呂布もあわてて後を追ってきた。
 そして、力なく、
小沛へ行こう。小沛の城には、腹心の張遼高順のふたりを入れて守らせてある。しばらく小沛に拠って形勢を見よう」と、いった。
 実際、残る策としては、それしかなかった。さすがの陳宮も万策つきたか、黙々と呂布に従って行った。
 すると、どうだろう?
 まぎれもない張遼高順の二将が彼方から来るではないか。しかも小沛の兵をのこらずひきつれ、砂けむりをあげて、こっちへ急いでくる様子なのだ。――呂布陳宮は眼をみはって、
「おやっ? 何で……」
 と、またしても、呆ッ気にとられた顔をして口を開いていた。

 一方。
 それへ近づいてきた高順と、張遼のほうでも呂布の姿を見て、心から不審そうに、
「やっ、これはわが君、どうしてこれへお越しなされましたか」と、訊ねた。
「いや、おれよりも、その方どもこそ、一体何しにこんな所へ急いできたか」
 呂布の反問に高順張遼はいよいよ解せない顔して、
「これはいかな事、われわれ両名は、固く小沛を守って動かぬことを欲していましたが、つい二刻ほど前、陳登馬を飛ばして馳せきたり、わが君には昨夜来、曹操の計にかかって重囲に陥ち給えり、疾く疾く徐州へ急いで主君を救い奉れ――と、こう城門で呼ばわるなり、鞭打って立去りました故、すわこそと、にわかに用意をととのえ、これまで参ったところでござる」
 そばで聞いていた陳宮は、もう笑う元気も、怒る勇気もなくなったような、ただほろ苦い唇をゆがめて、
「それもこれも、みな陳大夫陳登父子の謀み事、さてさて首尾よくもかかったり、悔めど遅し、醒れど及ばず。――ああ」
 と、横を向いた。
 呂布は恨みがましく、はったと眼を天の一方にすえて、
「ううむ、よくもおれに苦杯をのましたな。おれがいかに陳登父子を寵用して目をかけてやったか、誰もみな過分と知っておるところだ。忘恩の悪漢め、どうするか見ておれ」
 陳宮は、冷ややかにいった。
「ご主君、ようやくおわかりになりましたか。しかし、これからどうなさいます」
小沛へ行こう」
「およしなさい。恥をかさねるだけです。――陳登はもう曹操の軍を引入れて、祝杯をむさぼっているに違いありません」
「さもあらばあれ、彼奴らの如き、蹴ちらして奪いかえすまでだ」
 猛然先に立って、小沛の城壁の下まできた。
 陳宮のいった通り、城頭にはもう敵の旌旗が翩翻とみえる。――そして呂布来れりと聞くとそこの高櫓へ登った陳登が、声高に笑っていった。
「あれ見ろ、赤い馬に乗った物乞いを。飢えたか、何を吠えているぞ。岩でも喰らわしてやれ」
「忘恩の賊陳登。おれの恩を忘れたか。きのうまで、誰のために着、誰のために禄を喰んでいたか」
「だまれ、我もと漢朝の臣、あに汝ごとき粗暴逆心の賊に心から随身なそうや。――愚かものめ!」
「うぬっ、その細首の髻を、この手につかまぬうちは、誓ってここを退かんぞ! 陳登、城を出て闘え」
 喚いているところへ、後ろにある高順の陣をめがけて、突然、一彪の軍馬が北方から猛襲して来た。
「さてはまだ曹操の兵が、城外にもいたのか」
 と、大いに動揺して、左右の陣を、にわかに後ろへ開いて、鶴翼に備え立て、
「いざ、来い」と、おのおの手に唾して待ちかまえたが、近づくと、それは曹操の兵とも見えない。おそろしく薄ぎたなくて雑多な混成軍であった。馬も悪いし武器も不揃いだった。しかし、勢いは甚だしくすさまじい。どっと向う見ずに吶喊してきたかと思うと、先手と先手のぶつかり合った波頭線の人馬は、血けむりに赤く霞んで、双方の喚きは、直ちに惨烈をきわめた。すると、たちまちに四散して、馬前、人もなき鮮血の大地を蹴って、
「劉玄徳の舎弟関羽!」
「玄徳の義弟張飛とはおれのこと、この顔を覚えておれ」
 と、名のりながら、馬を獅子の如く躍らしてくる二騎があった。

 見れば、ひとりは豹頭虎眉の猛者、すなわち張飛、ひとりは朱面長髯の豪傑、すなわち関羽であった。
「や。や。玄徳の義弟だ」
「張、関が現れたぞ」
 眼に見、耳に聞いただけでも、呂布の兵は震い怖れた。ふたりは無人の境を行くように、呂布の備えを蹂躪した。
「ふがいなき味方かな」と、大将高順は部下を叱咤し、張飛の前に立ちふさがって、鏘々、火花を交わしたが、たちまち、馬の尻に鞭打って、潰走する味方の中に没し去った。
 関羽は、八十二斤の青龍刀をひっさげ、あえて、雑兵には眼もくれず、中軍へ猪突して、
「めずらしや呂布赤兎馬はなお健在なりや」と、呼びかけた。
 事の不意と、意外な敵の出現に呂布は動転していたが、是非なく、馬を返して戦った。
 ところへまた、
「兄貴、その敵は、おれにくれ」と、張飛が見つけて、迅雷のようにかかって来た。
 呂布は心中に、
「きょうは悪日」と呟いて、あわてふためきながら逃げだした。
「や、おのれ、待て」と、張飛は追う。
 関羽も跳ぶ。
 赤兎馬の尾も触れんばかり後ろに迫ったが、彼の馬と、呂布の馬とは、その脚足がまるで違う。
 駿足赤兎馬の迅い脚は、辛くも呂布の一命を救った。
 徐州は奪られ、小沛にははいれず、呂布は遂に、下邳へ落ちて行った。
 下邳徐州の出城のようなもので、もとより小城だが、そこには部下の侯成がいるし、要害の地ではあるので、
「ひとまずそこに拠って」と、四方の残兵を呼び集めた。
 かくて戦は、曹操の大捷に帰し、曹操は玄徳に対して、
「もともと其許の城だから、其許は以前の如く、徐州に入城して、太守の座に直りたまえ」
 といった。
 徐州には彼の妻子が監禁されていたが、糜竺陳大夫に守られていたので、みな恙なく、玄徳を迎えて対面した。
 久しぶり、一家君臣一座に会して、
関羽張飛は、小沛を離散の後、いずこに身をひそめていたのか」
 玄徳が問うと、
「てまえは海州の片田舎にかくれました」
 と、関羽は答えたが、張飛は、
「ぜひなく※蕩山にのがれて、山賊をやっていた」
 と、正直に語ったので人々は大笑いした。
 数日の後。
 曹操は、中軍を会場として、盛大な賀宴をひらいた。
 その時、彼は自分の左の席を、玄徳に与えた。右のほうは空席にしていた。
 それから順に、従軍の諸大将や文官も席に着いたところで、曹操は立って、
「この度、第一の功は、陳大夫陳登父子の働きである。予の右座は、陳老人に与うるものである」
 と、述べた。
 全員、拍手の中に、陳大夫老人は末席から息子に手をひかれて曹操の右側に着席した。
「あなたには、十県の禄を与え、子息陳登には、伏波将軍の職を贈る」
 と、曹操はなお犒らった。
 歓語快笑のうちに宴はすすみ、その中でまた、
「いかにして、呂布を生虜るべきか?」
 の最後の作戦が、和気藹々のうちに種々検討された。――生虜るか殺すかこんどこそ呂布の始末をつけないうちは曹操許都へ退かない決心であった。

 下邳小城は、呂布にとって逃げこんだ檻にひとしい。
 呂布はすでに檻の虎だ。
 しかし、窮鼠が猫を咬むの喩えもあるから、檻の虎の料理は、易しきに似て、下手をすれば、咬みつかれる怖れがある。
 その席上、程昱がいった。
「遠火で魚をあぶるように、ゆるゆると攻め殺すがよいでしょう。短兵急に押し詰めると、いわゆる破れかぶれとなって、思慮にとぼしい呂布のこと、どんな無謀をやるかもしれません」
 呂虔も、程昱の意見、しかるべしと賛同して、
呂布の立場になってみると、今はただ臧覇、孫観などの泰山の賊党がたのみであろうと思われる。――それもはかなく、いよいよ面子もなく――最後の切札を選ぶとなれば――淮南袁術へすがって、無条件降伏を申し入れ、袁術の援けをかりて、猛然、反抗して来るにちがいありません」
 曹操は、両者の言へ、等分にうなずいて、
「いずれの説も、予の意中と変りはない。予のおそるるところも、呂布袁術とが、結ばれる点にある。――山東の道々は、予自身の軍をもって遮断するから、劉玄徳は、その麾下をよく督して下邳より淮南のあいだの通路を警備したまえ」と、いった。
 玄徳は、謹んで、
「尊命、承知いたしました」と、誓った。
 宴は終って、一同、万歳を唱え、おのおの陣所へ帰って行く。
 玄徳は即日、兵馬をととのえ、徐州には糜竺と簡雍の二人をとどめて、自身、関羽張飛孫乾の輩を率きつれて、邳郡から淮南への往来を断り塞ぐべく出発した。
 それも――
 下邳の窮敵に気づかれると、死にもの狂いの抵抗をうけることは必然なので、山を伝い、山間を抜け、ようやく呂布の背面にまわった。
 要路の地勢を考えて、まず柵を結い、関所を設け、丸木小屋の見張所を建て、望楼を組上げなどして、街道はおろか、峰の杣道、谷間の細道まで、獣一匹通さぬばかり監視は厳重をきわめていた。
      ×     ×     ×
 冬は近づく。
 泗水の流れはまだ凍るほどにも至らないが、草木は枯れつくし、満目蕭条として、寒烈肌身に沁みてくる。
 呂布は、城をめぐる泗水の流れに、逆茂木を引かせ、武具兵糧も、充分城内に積み入れて、
「雪よ。早く山野を埋めろ」と、天に祷った。
 彼は自然の他力をたのみにしていたが、人智に長けた陳宮は、冷笑して彼に諫めた。
曹操の勢は、遠路を来て、戦いつづけ、まだ配備もととのわず、冬を迎えて陣屋の設けもできていません。今、直ちに逆寄せをなし給えば、逸をもって労を撃つで――必ず大捷を博すだろうと思います」
 呂布は首を振った。
「そううまくは行くまい。敗軍のあげくだから、まだ此方の将士こそ士気が揚っていない。彼の来り攻めるを待って、一度に突いて出れば、曹軍の大半は泗水に溺れてしまうだろう」
「は。……そうですか」
 陳宮も近頃は、彼に対する情熱を持ちきれないふうである。抗弁もせず嘲笑って引き退がった。
 とこうするまに、早くも曹操山東の境を扼し、また当然下邳へ押しよせて、城下を大兵で取固めた。
 そして二日余りは矢戦に送っていたが、やがて曹操自身、わずか二十騎ほどを従えて、何思ったか、泗水の際まで駒を出して、
呂布に会わん」
 と、城中へ呼びかけた。

底本:「三国志(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2008(平成20)年12月22日第53刷発行
   「三国志(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2008(平成20)年9月16日第50刷発行
※副題には底本では、「草莽の巻」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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