奇計
読了時間:約19分一
待ちかねていた呂布は、
「どうだった? ……蕭関の様子は」と、すぐ糺した。
陳登はわざと眉を曇らして、
「案の定、まことに憂うべき状態です」と、いった。
呂布はもちろん顔色を変えた。
「では、わが眼のとどかぬ出城へ移って、早くも陳宮は異心をさし挟んでおる様子か」
「孫観、呉敦の輩は、もともと山野の賊頭なので、利を見て動くこともあろうかと、ひそかにおそれていましたが、陳宮のようなご恩顧の直臣までが、裏切りを謀っておろうとは思いませんでした。実に、人の心は頼み難いものです」
「――おれの伝令と偽って、陳宮に会い、何事でもよいから評議に時を移し、なるべく陳宮を酒に酔わしておけ。そして城楼から火の手をあげ、乾の門をあけておくのだ。火の手と共におれが突き進んで、自身、彼を成敗してしまうから」
「一大事が起った」と、あわただしく、陳宮を呼びだして、息を喘きながら告げていた。
「――今日、曹操の大軍は、急角度に方向を変え、泰山の嶮や谷間をわたって、一斉に徐州へ攻め入ったという急報です。それ故、ここをお守りあっても、何の効もありません。速やかに、手勢をひいて、徐州を助けに向えとの命令です」
「えっ?」
陳宮は、愕然と、胆を冷やした顔いろだった。
砦はがら空になった。
するとその――寂たる暗天の望楼台に、一つの人影が起ち上がった。
駒を飛ばして駈け去ったはずの陳登であった。
陳登は鏃に密書をむすび、その矢をつがえて、搦手の山中へ、ひょうっと射た。
「……?」
真っ暗な山ふところを見つめていると、やがて、松明を振っていた。
(矢文、見た、承知)
の火合図なのである。
暫くすると、乾、巽の二つの門から、ひたひたと、夜の潮のように、おびただしい人馬が、声もなく火影もなく、城内にはいって来た。そしてまた、墓場のようにしんとしていた。
陳登は、見届けると、第二の合図をあげた。それは望楼から打揚げた狼烟であった。シュルシュルシュルと火鼠のような光が空へ走る。
城外十里の彼方にあって、その火の手を待っていた呂布は、
「それっ、蕭関へ」と、一斉に駈けだした。
揉みに揉んで、全軍、道を急いで行くと、同じような速度で砦から出てきた大部隊があった。
呂布のほうでも知る筈はない。暗さは暗し、双方とも疑心暗鬼に襲われているところである。――当然、大衝突を起すと共に、かつての戦史にも見られない程な――酸鼻な同士討ちを徹底的に演じてしまった。
二
「はてな?」
呂布はようやく気がついた。
同時に、相手の軍勢の中でも、
「馬鹿っ。同士討ちだっ」
呂布はどなった。
けれど、そう気がついたのがすでに遅い。双方ともおびただしい死傷を出し、お互いに意味なき戦をしたことに呆れはてて、茫然たるばかりだった。
「怪しからぬ陳登の虚言。おれに報告したことと、そちに云ったこととはまるで違う。……ともあれ、砦へ行ってよく聞こう」
呂布さえ、闇を逃げまどって、からくも夜が明けてから、山間の岩陰から出てきたほどである。
幸いに、陳宮に出会ったので、残り少ない味方をあつめ、
「ともかく、この上は、徐州へ帰って、一思案し直そう」と、悄然と急いだ。
ところが。
徐州の城門へ馳け入ろうとすると、櫓の上からバシャバシャッと雨のような矢が降って来た。
「こはいかに?」
と仰天して、いななく駒の手綱をしめながら、城楼をふり仰ぐと、糜竺が壁上にあらわれて、
「匹夫。何しに来たか」と、大音で罵った。
「この城こそは、さきに汝が詐ってわが旧主玄徳様から騙し奪ったもの。当然、今日もとの主人の手に返った。もはや汝の家ではないのだ。どこへでも行きたい方角へ落ちて行け!」
呂布は、鐙に立って、歯がみをしながら、
と、さけんだ。
糜竺は、からからと笑って、
「陳老人は今、奥にあって、祝杯をあげてござる。まんまと計られた相手に、この上、未練なすがたを見せたいのか」
云い終ると、彼のすがたも、ひらりと楼の内にかくれ、後にはどっと手をうって笑う声のみが聞えた。
「無念だ。無念だ。……だが、まさか陳大夫が俺を?」
呂布は、狂いまわる駒と共に、低徊してそこを去らなかった。
陳宮は、歯ぎしりして、
「まだ悪人の奸計とおさとりなく、愚かな後悔に恋々とご苦悶あるか。悲しい哉、わが主君は、死ななければ目の醒めないお人だ」
そして、力なく、
すると、どうだろう?
「おやっ? 何で……」
と、またしても、呆ッ気にとられた顔をして口を開いていた。
三
一方。
「やっ、これはわが君、どうしてこれへお越しなされましたか」と、訊ねた。
「いや、おれよりも、その方どもこそ、一体何しにこんな所へ急いできたか」
「これはいかな事、われわれ両名は、固く小沛を守って動かぬことを欲していましたが、つい二刻ほど前、陳登馬を飛ばして馳せきたり、わが君には昨夜来、曹操の計にかかって重囲に陥ち給えり、疾く疾く徐州へ急いで主君を救い奉れ――と、こう城門で呼ばわるなり、鞭打って立去りました故、すわこそと、にわかに用意をととのえ、これまで参ったところでござる」
そばで聞いていた陳宮は、もう笑う元気も、怒る勇気もなくなったような、ただほろ苦い唇をゆがめて、
と、横を向いた。
呂布は恨みがましく、はったと眼を天の一方にすえて、
「ううむ、よくもおれに苦杯をのましたな。おれがいかに陳登父子を寵用して目をかけてやったか、誰もみな過分と知っておるところだ。忘恩の悪漢め、どうするか見ておれ」
陳宮は、冷ややかにいった。
「ご主君、ようやくおわかりになりましたか。しかし、これからどうなさいます」
「小沛へ行こう」
「さもあらばあれ、彼奴らの如き、蹴ちらして奪いかえすまでだ」
猛然先に立って、小沛の城壁の下まできた。
「あれ見ろ、赤い馬に乗った物乞いを。飢えたか、何を吠えているぞ。岩石でも喰らわしてやれ」
「忘恩の賊陳登。おれの恩を忘れたか。きのうまで、誰のために着、誰のために禄を喰んでいたか」
「だまれ、我もと漢朝の臣、あに汝ごとき粗暴逆心の賊に心から随身なそうや。――愚かものめ!」
「うぬっ、その細首の髻を、この手につかまぬうちは、誓ってここを退かんぞ! 陳登、城を出て闘え」
「さてはまだ曹操の兵が、城外にもいたのか」
と、大いに動揺して、左右の陣を、にわかに後ろへ開いて、鶴翼に備え立て、
「いざ、来い」と、おのおの手に唾して待ちかまえたが、近づくと、それは曹操の兵とも見えない。おそろしく薄ぎたなくて雑多な混成軍であった。馬も悪いし武器も不揃いだった。しかし、勢いは甚だしくすさまじい。どっと向う見ずに吶喊してきたかと思うと、先手と先手のぶつかり合った波頭線の人馬は、血けむりに赤く霞んで、双方の喚きは、直ちに惨烈をきわめた。すると、たちまちに四散して、馬前、人もなき鮮血の大地を蹴って、
と、名のりながら、馬を獅子の如く躍らしてくる二騎があった。
四
「や。や。玄徳の義弟だ」
「張、関が現れたぞ」
関羽は、八十二斤の青龍刀をひっさげ、あえて、雑兵には眼もくれず、中軍へ猪突して、
事の不意と、意外な敵の出現に呂布は動転していたが、是非なく、馬を返して戦った。
ところへまた、
「兄貴、その敵は、おれにくれ」と、張飛が見つけて、迅雷のようにかかって来た。
呂布は心中に、
「きょうは悪日」と呟いて、あわてふためきながら逃げだした。
「や、おのれ、待て」と、張飛は追う。
関羽も跳ぶ。
「ひとまずそこに拠って」と、四方の残兵を呼び集めた。
「もともと其許の城だから、其許は以前の如く、徐州に入城して、太守の座に直りたまえ」
といった。
久しぶり、一家君臣一座に会して、
玄徳が問うと、
「てまえは海州の片田舎にかくれました」
「ぜひなく※蕩山にのがれて、山賊をやっていた」
と、正直に語ったので人々は大笑いした。
数日の後。
曹操は、中軍を会場として、盛大な賀宴をひらいた。
その時、彼は自分の左の席を、玄徳に与えた。右のほうは空席にしていた。
それから順に、従軍の諸大将や文官も席に着いたところで、曹操は立って、
と、述べた。
「あなたには、十県の禄を与え、子息陳登には、伏波将軍の職を贈る」
と、曹操はなお犒らった。
歓語快笑のうちに宴はすすみ、その中でまた、
「いかにして、呂布を生虜るべきか?」
五
呂布はすでに檻の虎だ。
しかし、窮鼠が猫を咬むの喩えもあるから、檻の虎の料理は、易しきに似て、下手をすれば、咬みつかれる怖れがある。
その席上、程昱がいった。
「遠火で魚をあぶるように、ゆるゆると攻め殺すがよいでしょう。短兵急に押し詰めると、いわゆる破れかぶれとなって、思慮にとぼしい呂布のこと、どんな無謀をやるかもしれません」
呂虔も、程昱の意見、しかるべしと賛同して、
「呂布の立場になってみると、今はただ臧覇、孫観などの泰山の賊党がたのみであろうと思われる。――それもはかなく、いよいよ面子もなく――最後の切札を選ぶとなれば――淮南の袁術へすがって、無条件降伏を申し入れ、袁術の援けをかりて、猛然、反抗して来るにちがいありません」
曹操は、両者の言へ、等分にうなずいて、
「いずれの説も、予の意中と変りはない。予のおそるるところも、呂布と袁術とが、結ばれる点にある。――山東の道々は、予自身の軍をもって遮断するから、劉玄徳は、その麾下をよく督して下邳より淮南のあいだの通路を警備したまえ」と、いった。
玄徳は、謹んで、
「尊命、承知いたしました」と、誓った。
宴は終って、一同、万歳を唱え、おのおの陣所へ帰って行く。
それも――
要路の地勢を考えて、まず柵を結い、関所を設け、丸木小屋の見張所を建て、望楼を組上げなどして、街道はおろか、峰の杣道、谷間の細道まで、獣一匹通さぬばかり監視は厳重をきわめていた。
× × ×
冬は近づく。
泗水の流れはまだ凍るほどにも至らないが、草木は枯れつくし、満目蕭条として、寒烈肌身に沁みてくる。
「雪よ。早く山野を埋めろ」と、天に祷った。
彼は自然の他力をたのみにしていたが、人智に長けた陳宮は、冷笑して彼に諫めた。
「曹操の勢は、遠路を来て、戦いつづけ、まだ配備もととのわず、冬を迎えて陣屋の設けもできていません。今、直ちに逆寄せをなし給えば、逸をもって労を撃つで――必ず大捷を博すだろうと思います」
呂布は首を振った。
「そううまくは行くまい。敗軍のあげくだから、まだ此方の将士こそ士気が揚っていない。彼の来り攻めるを待って、一度に突いて出れば、曹軍の大半は泗水に溺れてしまうだろう」
「は。……そうですか」
陳宮も近頃は、彼に対する情熱を持ちきれないふうである。抗弁もせず嘲笑って引き退がった。
「呂布に会わん」
と、城中へ呼びかけた。
1989(平成元)年4月11日第1刷発行
2008(平成20)年12月22日第53刷発行
1989(平成元)年4月11日第1刷発行
2008(平成20)年9月16日第50刷発行
※副題には底本では、「草莽の巻」とルビがついています。
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
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