遼西・遼東

 いまや曹操の勢いは旭日の如きものがあった。
 北は、北狄とよぶ蒙古に境し、東は、夷狄と称する熱河山東方面に隣するまで――旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまった。彼らしい新味ある施政と威令とは、沈澱久しかった旧態を一掃して、文化産業の社会面まで、その相貌はまったく革ってきた。
 しかも、曹操は、まだ、
「――これでいい」と、しなかった。
 彼の胸中は、大地の広大のごとく、果てが知れなかった。
「いま、袁煕袁尚の兄弟は、遼西烏丸熱河地方)におるという。この際、放棄しておいては、後日の禍いになろう。遼西遼東の地をあわせ定めておかなければ、冀北、冀東の地も永久に治まるまい」
 彼の壮図のもとに、ふたたび大軍備が命ぜられたが、もとよりこれには曹洪以下、だいぶ異論も多かった。
 ここはすでに遠征の地である。遠征からまた遠征へ、そうした果てなき制覇に邁進している間に、遠い都に変が起ったらどうするか。また荊州劉表、玄徳などが、留守をうかがって、虚を衝いたらどうするか。
 実に当然な憂いであった。
 ――が、ひとり郭嘉は、曹操の大志を支持して、
「冒険には違いないが、千里の遠征も、制覇の大事も、そう二度三度はくり返されません。すでに都を去ってここまできたものを千里征くも、二千里征くも大差はない。ことに、袁紹の遺子を流浪させておけば、連年、どこかで叛乱を起すにちがいありません」
 議事は決した。
 遼西遼東は、夷狄の地とされている。かつて体験のない外征であった。ために、軍の装備や糧の計には万全が尽された。戦車、兵粮車だけでも数千輛という大輜重隊が編制された。
 そのほか、純戦闘隊数十万、騎馬あり徒歩あり、輿あり、また弩弓隊あり軽弓隊あり、鉄槍隊あり、工具ばかり担ってゆく労兵隊などまで実に物々しいばかりな大行軍であった。
 廬龍寨(河北省・劉家営)まで進んだ。
 すでに夷境へ近づくと、山川の気色も一変し、毎日狂風が吹き荒れて――いわゆる黄沙漠々の天地が蟻のようなこの大行軍の蜿蜒をつつんだ。
 そして易州まで来ると、曹操にとって、不慮の心配事ができた。それは彼を扶けて常に励ましてきた郭嘉が、風土病にかかって、輿にも乗っているにたえなくなったことである。
 郭嘉は、大熱をこらえながら、なお曹操に献策していた。
「どうも、行程がはかどらないようです。かくては、千里の遠征に、功は遂げても、年月を費やしましょう。また敵の備えも固まりましょう。――如かじあなたは、軽騎の精猛のみを率い、道の速度を三倍して、夷狄の不意を衝きなさい。その余の軍勢は、不肖がお預りして病を養いながら、お待ちしております」
 曹操は彼の言を容れて、初めの大軍を改編し、雷挺隊と称する騎馬と車ばかりの大部隊をひいて、遮二無二、遼西の境へ侵入した。
 道の案内には、もと袁紹の部下だった田疇という者が立った。
 泥河あり、湖沼あり、断崖あり――あらゆる難路が横たわっているので、もし田疇がいなかったら、地理の不案内だけでも、曹軍は立往生したかも知れなかった。
 かくて、ようやく夷狄の大将冒頓の柳城(遼寧省)へ接近した。
 時、建安の十一年、秋七月だった。

 柳城の西、白狼山を陥し、曹操はこれに立って、敵を俯瞰した。そしていうには、
「おびただしい夷族の整備ではある。けれど悲しいかな、夷族はやはり夷族。あの配陣はまるで兵法を知らないものの児戯だ。一戦に蹴破ってよろしい」
 すなわち張遼を先鋒に、于禁許褚徐晃などを、三面から三手に分け、城外の敵を一塁一塁踏み破り、ついに夷将冒頓を討ち取って、七日のうちに柳城を占領してしまった。
 袁煕袁尚は、ここにひそんで督戦していたが、またも拠るところを失ったので、わずか数千の兵をつれて遼東のほうへ逃げ足早く落ちて行った。
 そのほかの夷兵は全部、降参して出た。曹操は、田疇の功を賞して、柳亭侯に封じたが、田疇はどうしても受けない。
「それがしは以前、袁紹に仕えて、なお生きている身なのに、旧主の遺子を追う戦陣の道案内に立って、爵禄を頂戴するなど、義において忍びません」というのである。
「苦衷。もっともなことだ」
 曹操は思いやって、代りに議郎の職を命じ、また柳城の守りをいいつけた。
 律令正しい彼の軍隊と、文化的な装備やまた施政は、いちじるしく辺土の民を徳化した。近郡の夷族は続々と、貢ぎ物をもたらして、柳城市に群れをなし、みな曹操に恭順を示した。
 なかには駿馬一万匹を献納した豪族もある。曹操の軍力はかくて大いに富強された。けれど彼は、日々、易州に残してきた愛臣郭嘉の病態を思うことを忘れなかった。
「……どうも捗々しくなく、九分まではむずかしいそうです」
 易州の便りでそれを知った彼の秘書は憂わしげに告げた。曹操は急に、
「ここは田疇にまかせて還ろう」と、云いだした。
 すでに冬にかかっていた。車騎大兵の行路は、困難を極めた。時には二百余里のあいだ一滴の水もなくて、地下三十丈を掘って求めなければならなかったし、青い物は一草もないので、馬を斃して喰い、病人は続出する有様だった。
 ようやく、易州にかえり着いて、曹操はまずなにを第一になしたかというと、先に、夷境への遠征を諫言した大将たちに、
「よく、善言をいってくれた」と、恩賞をわけ与えたのである。そしてなお云うには、
「幸いに、勝つことを得、身も無事に還ってきたが、これはまったく奇蹟か天佑というほかはない。獲るところは少なく、危険は実に甚だしかった。この後、予に短所があれば、舌に衣を着せず、万、諫めてもらいたい」
 次に彼は、郭嘉の病床を見舞った。郭嘉は彼の無事なすがたを見ると、安心したか、その日に息をひきとった。
「予の覇業は、まだ中道にあるのに、せっかく、ここまで艱苦を共にして来た若い郭嘉に先立たれてしまった。彼は諸将の中でも、一番年下なのに」
 と、彼は骨肉のひとりを失ったように、涙をながして悲しんだ。喨々、哀々、陣葬の角笛や鉦は、三日にわたって、冬空の雲を哭かしめていた。
 祭が終ると、郭嘉の病床に始終仕えていた一僕が、そっと、一封の書面を、曹操に呈した。
「これは、亡くなられたご主人のご遺言でした。死期を知ると、ご主人はみずから筆をとって認め、自分が死んだら、あとでご主君に渡してくれよ、ここに書いたようになされば、遼東の地は、自然に平定するであろうと仰っしゃいました」
 曹操は、遺書を額に拝した。
 数日の後には、早くも、諸将のあいだに、
遼東をどうするか?」――が、紛々と私議論争されていた。
 袁煕袁尚の二名は、その後、遼東へ奔って、太守公孫康の勢力をたのみ、またまた、禍いの兆しが見えたからである。
「捨てておいても大事ない。やがて近いうちに、公孫康から、袁兄弟の首を送ってくるだろう」
 曹操は今度に限ってひどく落着きこんでいた。

 逃亡から逃亡へ、今は身のおき所もなく、遼東へ頼ってきた袁煕袁尚の兄弟に対して、太守公孫康は、
「扶けたがいいか、いっそ、殺すべきだろうか」を、今なお迷っていた。
 ――というのは、一族の者から、扶ける必要はないと、異論が出たからである。
「彼らの父袁紹が在世中には、つねにこの遼東を攻略せんと計っていたものである。しかし実現に至らぬうち、自分が敗れ去ったのだ。怨みこそあれ恩顧はない」
 そして、なおこう極言する者もあった。
「――鳩は、鵲の巣を借りて、いつのまにか鵲を追って巣を自分の物にしてしまう。亡父の遺志を思い出して、袁兄弟も、後には鳩に化けないこともない。むしろこの際、彼らの首を曹操へ送ってやれば、曹操遼東を攻める口実を失い、遼東もこのまま安泰なるばかりでなく、翻然、ご当家を重んじないわけにゆかなくなる」
 公孫康は、その儀もっともなり――と決心して、一方人を派して、曹操の動静をうかがわせ、曹軍の攻め入る様子もないと見極めると、一日、城下にある袁兄弟へ使いをやって、酒宴に迎えた。
 袁煕と、袁尚は、
「さてはそろそろ出軍の相談かな? 何といっても曹操の脅威をうけている折だから、吾々の協力もなくてはかなうまい」
 などと談じ合いながら登城してきた。
 ところが、一閣の室に通されて見ると、この寒いのに、暖炉の備えもなく榻の上に裀も敷いてなかった。
 ふたりは面をふくらせて、
「われわれの席はどこですか」と、尊大ぶった。
 公孫康は、大いに笑って、
「今から汝ら二つの首は、万里の遠くへ旅立つのに、なんで温き席がいろうや」
 と、いうや否や、帳の陰を振りかえって、それっと合図した。
 十余名の力者は一斉におどり出して、二人へ組みつき、左右から脾腹に短剣を加え、袁煕袁尚ともども無造作に首にしてしまった。
 易州に陣取ったまま、曹軍は依然、動かずにあったが、夏侯惇、張遼などは、その間、しばしば曹操へ諫めた。
「もし、遼東へ攻め進むお心がないならば、はやく都へご凱旋あっては如何です。なすこともなく、こんな所に滞陣しているのは無意味でしょう」
 すると曹操は、
「決して無為に過しているわけではない。今に遼東から、袁煕袁尚の首を送ってくるであろうから、それを待っているのだ」と、答えた。
 諸将は、彼の心事を怪しみ、また嘲笑を禁じ得なかった。ところが半月ほどすると、太守公孫康の使者は、ここに到着し、書を添えて、匣に入れた塩漬の首二顆を正式に献じた。
 さきに嘲けり笑っていた諸人は驚いた。曹操は限りなく笑い興じて、
郭嘉の計にたがわず、故人の遺書の通りになった。彼も地下で満足したろう」
 と、種明しをして聞かせた。
 それによると、郭嘉は、遺書のうちに、「遼東ハ兵ヲ用イズシテ攻ムベシ。動カザレバ即チ、坐シテ袁二子ノ首級オノズカラ到ラン」と極力、進攻をいましめていた。
 つまり彼は、遼東の君臣が、袁家の圧力に対して、多年伝統的に、反感や宿怨こそ持っているが、何の恩顧も好意も寄せていないことを、疾くに洞察していたからである。
 こういう先見の明もありながら、ここ易州の軍旅のうちに病死した郭嘉は、年まだ三十八歳であった。
 さて曹操は、遼東の使者を厚くねぎらい、公孫康へ報ゆるに襄平侯左将軍の印を以てした。そして郭嘉の遺髪を手厚く都へ送り、やがて自身も、全軍を領して、冀州まで帰った。

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