具眼の士

 多年軍需相として、重要な内政の一面に才腕をふるっていた李厳の退職は、何といっても、蜀軍の一時的休養と、延いては国内諸部面の大刷新を促さずにはおかなかった。
 蜀道の嶮岨は、事実、誰がその責任者に当っても、克服することのできない自然的条件であり、加うるに、蜀廷の朝臣には、孔明のほかに孔明なく、外征久しきにわたるあいだには、きまって何かの形で、その弱体な内紛が現われずにいなかった。
 孔明の苦労は実にこの二つにあったといってよい。しかも帝劉禅は、甚だ英邁の資でないのである。うごかされやすくまたよく迷う。
 しかし孔明がこの遺孤に仕えることは、玄徳が世にいた頃と少しも変らなかった。いやもっと切実な忠愛と敬礼を捧げきって骨も細りゆく姿だった。それだけに帝劉禅が彼を慕い彼を惜しむことも一通りでなかったが、如何せん、孔明がいないときというと群臣がうごく。群臣がうごくと帝も迷いにつつまれる。蜀朝廷は実にいつも遠きに孔明の後ろ髪を引くものであった。ここにおいて孔明は、
「三年は内政の拡充に力を注ごう」
 と決意した。三年師を出さず、軍士を養い、兵器糧草を蓄積して、捲土重来、もって先帝の知遇にこたえんと考えたのである。
 いかなる難事が重なろうと、中原進出の大策は、夢寐の間も忘れることなき孔明の一念だった。そのことなくしては孔明もない。彼の望み、彼の生活、彼の日々、すべては凝ってそれへの懸命に生きていた。
 三年の間、彼は百姓を恤み宥わった。百姓は天地か父母のように視た。彼はまた、教学と文化の振興に努めた。児童も道を知り礼をわきまえた。教学の根本を彼は師弟の結びにありとなし、師たるものを重んじ、その徳を涵養させた。また内治の根本は吏にありとなし、吏風を醇化し吏心を高めさせた。吏にしてひとたび涜職の辱を冒す者あれば、市に曝して、民の刑罰よりもこれを数等厳罰に処した。
「口舌を以ていたずらに民を叱るな。むしろ良風を興して風に倣わせよ。風を興すもの師と吏にあり。吏と師にして善風を示さんか、克己の範を垂れその下に獺惰の民と悪風を見ることなけん」
 孔明はつねにそういっていた。かくて三年の間に、蜀の国力は充実し、朝野の意気もまったく一新された。
「――三年経ちました――。尺蠖の縮むは伸びんがため。いまようやく軍もととのいましたゆえ、六度征旗をすすめて中原へ出ようと思います。ただ臣亮もはや知命の年齢ですから、戦陣の不常どんなことがあろうとも知れません。……陛下も何とぞ先帝の英資にあやかり給うてよく輔弼の善言を聞き、民を慈しみ給い、社稷をお守りあって、先帝のご遺命を完う遊ばさるるよう伏しておねがい致しまする。――臣は、遠き戦陣におりましても、心はつねに陛下のお側におりましょう。陛下もまた、孔明はここにあらずとも、常に成都を守っているものとお思い遊ばしてお心づよくおわしませ」
 後主劉禅は、孔明がこう別れを奏してひれ伏すと、何のことばもなくしばし御衣の袂に面をつつんでいた。
 なおこの際にも、成都人の一部では、宮門の柏樹が毎夜泣くとか、南方から飛翔してきた数千の鳥群がいちどに漢水へ落ちて死んだとか、不吉な流言をたてて、孔明の出軍を阻めようとする者もあったが、孔明の大志は、決してそんな虚謬の説に弱められるものではなかった。
 彼は一日、成都郊外にある先帝の霊廟に詣でて、大牢の祭をそなえ、涙を流して、何事か久しく祈念していた。
 彼が玄徳の霊にたいして、何をちかったかは、いうまでもないことであろう。数日の後、大軍は成都を発した。帝は、百官をしたがえて、城外まで送り給うた。
 蜀道の嶮、蜀水の危も、踏み渉ること幾度。蜿蜒として軍馬はやがて漢中へ入った。
 ところが、まだ戦わぬうちに、孔明は一つの悲報に接した。それは関興の病歿だった。

 さきに張苞を亡い、いままた、関興の訃に接して、孔明の落胆はいうまでもないことだが、その嘆きはかえって、この時の第六次出師の雄図をしてさらにさらに、愁壮なものとしたことも疑われない。
 漢中に勢揃いをし、祁山へ進発した蜀軍は、五大部隊にわかれ、総兵三十四万と号していた。
 ときに魏は改元第二年を迎えて、青龍二年春二月だった。
 去年、摩坡という地方から、青龍が天に昇ったという奇異があって、これ国家の吉祥なりと、改元されたものである。
 また、司馬懿はよく天文を観るので、近年北方の星気盛んで、魏に吉運の見えるに反し、彗星太白を犯し、蜀天は晦く、いまや天下の洪福は、わが魏皇帝に幸いせん――と予言していたところなので、
孔明三年の歳月を備えに蓄えて六度祁山に出づ」
 という報に接したときには、
「明なる哉。これ蜀の敗滅、魏の隆昌。天運果たしてこの事をすでに告ぐ」
 と、勇躍、詔を拝して、かつて見ぬほどな大軍備をととのえた。
 出陣にさきだって、仲達は、
「かつて父を漢中に討たれた夏侯淵の子ら四人が、常に父を蜀のために亡った恨みを嚥んで切歯扼腕しております。ねがわくは、今度の軍に、その遺子四人を伴って行きたいと思いますが」
 と、曹叡に奏して、その許しをうけていた。これらの四子は、さきに失敗を招いた夏侯楙駙馬などとは大いに質がちがっていて、兄の覇は弓馬武芸に達し、弟の恵は六韜三略を諳じてよく兵法に通じ、他の二兄弟もみな俊才の聞えがあった。
 長安に集結した魏下諸州の精鋭は四十四万といわれた。そして宿命の決戦場渭水を前にして従前どおり布陣したが、祁山の蜀勢も、この魏勢も、戦いの回を追うごとに、その経験から地略的な攻究もすすみ、また装備や兵力は逐次増強されて、これを第一回第二回ごろの対峙ごろから較べると双方の軍容にも僅かな年月のあいだに著しい進歩が見える。
 作戦上から今次の相違を見ると、魏はまず五万の工兵隊を駆使して、竹木を伐採させ、渭水の上流九ヵ所に浮橋を架し、夏侯覇、夏侯威のふた手は、河を渡って、河より西に陣地を張った。
 これは従来に見られなかった魏の積極的攻勢を示したものであると共に、用意周到な司馬懿は、本陣の後ろにある東方の曠野に、一城を構築して、そこを恒久的な基地となした。
 この恒久戦の覚悟はまた、より強く、今度は蜀軍の備えにも観取できる。祁山に構えた五ヵ所の陣屋は、これまでの規模とそう変りはないが、斜谷から剣閣へわたって十四ヵ所の陣屋を築き、この一塁一塁に強兵を籠めて、運輸の連絡と、呼応連環の態勢を作ったことは、
「魏を撃たずんば還らじ」
 となす孔明の意志を無言に儼示しているものにほかならない。
 時に、その一塁から一報があって、孔明に、敵陣に変化あることを告げた。
「――魏の大将、郭淮、孫礼の二軍が、隴西の軍馬を領して、北原へ進出し、何事か為すあらんとするものの如く動いています」
 この情報に接した孔明は、
「それは司馬懿は、前に懲りて、隴西の道をわれに断たれんことをおそれて手配をいそいだものと思わるる。――今、詐って、蜀が彼のおそれる隴西を衝く態をなすならば、司馬懿は驚いて、その主力を応援にさし向けるだろう。敵の備えなきを撃つ――その虚は後の渭水にある」
 北原渭水の上流である。孔明は百余座の筏に乾いた柴を満載させ、夜中、水に馴れた五千の兵をすぐって、北原を襲撃させ、魏の主力がうごくのを見たら直ちに筏に火をつけて下流へ押しながし、敵の浮橋を焼き立て、西岸の夏侯軍を捕捉し、また立ち所に、渭水の南岸へ兵を上げて、そこの魏本陣を乗っ取らんという画策を立てた。
 これが果たしてうまく魏軍を計り得るかどうかは、魏の触覚たる司馬懿その人の頭脳ひとつにあった。

 さすがに、彼は観破した。
「いま孔明が、上流に多くの筏を浮かべ、北原を攻めそうな擬勢を作っているが、虚を見て、筏を切り流し、それに積んだ松柴と油をもって、わが数条の浮橋を焼き払うつもりに違いない」
 司馬懿はこういって、夏侯覇、夏侯威に何事か命じ、郭淮、孫礼、楽綝、張虎などの諸将へもそれぞれ秘命を授けおわった。
 やがて戦機は、蜀軍の北原攻撃から口火を切った。
 呉懿、呉班の蜀兵は、かねての計画どおり、無数の筏に焚草を積んで、河上に待機していた。
 ――日が暮れてきた。
 北原の戦況は、初め、魏の孫礼がうって出たが、もろくも打ち負けて退却した。そこへかかった蜀の魏延、馬岱は、
「負け振りがおかしい?」と見て、敢えて深追いしなかったが、それでもたちまち両岸の物陰から魏の旗がひらめき見え、喊声、雷鼓の潮とともに、
司馬懿、待ちうけたり」
郭淮。これにあり」
 と、両方から刹出して、半円陣を結び、敵と河とを一方に見て、圧縮して来た。
 魏延と馬岱は、命をかざして奮戦したが、到底、勝ち目のない地勢にあり、河流へせき落されて溺れる者、つつまれて討たれる者など、大半の兵を失ってしまった。
 ふたりは辛くも水上へ逃げたが、この頃、待ちきれずに、呉懿、呉班の手勢も、大量な筏を流し始めていた。
 しかしそれらの筏群が、魏陣の架けた浮橋まで流れてこないうちに、張虎、楽綝などの手勢がべつな筏で縄を張りめぐらし、蜀の筏をことごとく堰きとめて、それを足場に矢戦をしかけて来た。
 蜀兵はこの際なんらの飛道具も備えていなかったので、筏を寄せて、斬り結ぶしか手がなかったのである。それを寄せつけ寄せつけ魏は雨の如く矢を浴びせた。
 蜀将のひとり呉班もついに一矢をうけて水中に落命した。その上、火計はまったく失敗に帰し、蜀軍の敗亡惨たるものだった。
 ここの失敗は、当然別働隊たる王平、張嶷のほうへも狂いを生じていないはずはない。
 二軍は、孔明の命によって、渭水の対岸をうかがい、浮橋の焼ける火を見たら、直ちに、司馬懿の本陣へ突入しようと息をこらしていたが、夜が更けても、いっこう上流に火光が揚がらないので、
「はて。どうしたものだろう?」としびれを切らしていた。
 張嶷は、待ちくたびれて、
「対岸をうかがうに、魏陣はたしかに手薄らしく思われる。いっそのこと、突っ込もうか」
 と逸ったが、王平が、
「敵にどんな隙があろうと、ここだけの状況で作戦の機約をかえることはできない」
 と固く持して、なお根気よく、火の手を待っていた。
 するとそこへ、急使が来た。馬をとばして馳けてくるなり、大声でさしまねいていう。
「平将軍も、嶷将軍も、はやはや退き給え。丞相のご命令である。――北原も味方の敗れとなり、浮橋を焼く計もことごとく齟齬いたして、蜀勢はみな敗れ去った」
「なに。味方の大敗に終ったと」
 さすがの王平もあわてた。
 急に二軍が退き出したせつなである。それまで河波の音と芦荻の声しかなかった附近の闇がいちどに赤くなった。そして一発の轟音が天地のしじまを破るとともに、
「王平。逃げ出すのか」
「張嶷。いずこへ奔るか」
 と、魏の伏兵が四方八方から襲いかかって来た。
 はかると思いながら、事実はまったく敵の陥穽のなかにいたのである。かくては戦い得る態勢もとり得ない。王平、張嶷の二軍もさんざんにうたれて逃げ崩れた。
 上流下流の全面にわたって、この夜、蜀軍のうけた兵力の損害だけでも一万をこえていた。孔明は敗軍を収めて祁山へ立ち帰ったが、彼がかくの如く計を誤ったことはめずらしい。日頃の自信にもすくなからぬ動揺を与えられたに違いあるまい。その憂いは面にもつつめなかった。

 一日、孔明の憂色をうかがって、長史楊儀がひそかに訴えた。
「近頃、魏延が丞相の陰口を叩いて、とかく軍中の空気を濁していますが、何か原因があるのですか」
 孔明は眉重くうなずいた――。
「彼の不平は今に始まったことではないよ」
 楊儀はいぶかしげに、
「そこまでご承知でありながら、人一倍、軍紀にきびしい丞相が、なぜ彼の悪態を放置しておかれるのです?」
「楊儀。さようなことは、みだりに云うものではない。予が胸も察するがいい。蜀の諸将と軍力をよく観て」
 楊儀は沈黙した。そして孔明の意中を酌むにつけ断腸の思いがあった。連戦多年、蜀軍の将星は相次いで墜ち、用いるに足る勇将といえば実に指折るほど少なくなっている。――ともあれその中にあって魏延の勇猛は断然衆を超えているものがある。
 いまその魏延をも除くならば、蜀陣の戦力はさらに落莫たらざるを得ない。孔明がじっと怺えているのは、そのためであろうと楊儀は察した。
 時に成都からの用命をおびて、尚書費褘がこの祁山へ来た。孔明は彼に会うと告げた。
「ここにご辺ならでは能わぬ大役がある。蜀のために、予の書簡を携えて、呉へ使いに赴いてくれまいか」
「丞相の命令なれば、辞す理由はありません。どこへでも参りましょう」
「快く承知してくれて有難い。ではこの書簡を孫権に捧げ、なお卿の才を以て、呉をうごかすことに努めてもらいたい」
 孔明が彼に託したものは、実に蜀呉同盟条約の発動にあった。書中、祁山の戦況を縷々と告げて、いまや魏軍の全力はほとんどこの地に牽引されてある。この際、呉がかねての条約にもとづいて、魏の一面を撃つならば、魏はたちまち両面的崩壊を来し、中原の事はたちまちに定まる。然る後は、蜀呉天下を二分して、理想的な建設を地上に興すことができよう。と切々説いているものであった。
 費褘は、建業へ行った。
 孫権は、孔明の書簡を見、また蜀の使いを応接するに、礼はなはだ厚かった。
 そして、彼に云った。
「呉といえど、決して蜀魏の戦局に冷淡なものではない。しかしその時を見、また充分な戦力を養っていたもので、今や機は熟したと思われるゆえ、日を定めて、朕自ら水陸の軍をひきい、討魏の大旆をかかげて長江を溯るであろう」
 費褘は拝謝して、
「おそらく魏の滅亡は百日を出でますまい。して、どういう進攻路をとられますか」
 と、その口裡の虚実をうかがった。
 孫権は、言下に、
「まず、総勢三十万を発し、居巣門から魏の合淝、彩城を取る。また陸遜諸葛瑾らに江夏、沔口を撃たせて襄陽へ突入させ、孫韶、張承などを広陵地方から淮陽へ進ませるであろう」
 と、平常の怠りない用意をほのめかして掌を指すように語った。
 酒宴となって、くつろいだ時である。今度は孫権が費褘へたずねた。
「いま、孔明の側にいて、功労を記し、兵糧その他の軍政を扶けている者は誰だな?」
「長史の楊儀であります」
「つねに先鋒に当る勇将では」
「まず、魏延でしょうか」
「内は楊儀、外は魏延か。ははは」
 と、孫権は意味ありげに打ち笑って、
「自分はまだ、楊儀、魏延の人物は見ていないが、多年の行状で聞き知る所、いずれも蜀を負うほどな人物ではなさそうだ。どうして孔明ほどな人が、そんな小人輩を用いているのか」
 費褘はことばもなく、その場はよいほどにまぎらわしたが、後、祁山に帰って、復命したあとで、これをそのまま孔明に語ると、孔明は嘆息して、
「さすがに孫権も具眼の士である。いかに良く見せようとしても天下の眼はあざむかれないものだ。魏延、楊儀の小さいことは、われ疾くに知るも、呉の主君までが観抜いていようとは思わなかった」
 と、なお独り託っていた。

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