蜀また倣う

 曹丕が大魏皇帝の位についたと伝え聞いて、蜀の成都にあって玄徳は、
「何たることだ!」と、悲憤して、日夜、世の逆しまを痛恨していた。
 都を逐われた献帝は、その翌年、地方で薨去せられたという沙汰も聞えた。玄徳はさらに嘆き悲しんで、陰ながら祭をなし、孝愍皇帝と諡し奉って、深く喪に籠ったまま政務も見ない日が多かった。すべてを孔明に任せきって、近頃は飲もまことにすすまない容子だった。
「困ったものではある」
 内外の経策から蜀の前途にたいする憂いまで、孔明の胸には案じても案じきれないほどな問題が積っていた。
 だが玄徳は六十一。彼はまだ四十一の若さであった。加うるに隠忍よく耐える人である。百忍自ラ憂イナシ、としていた。彼は彼みずから、
(こういう生れ性なのだ)と、苦労の中に独りなぐさめているふうだった。
 彼はあまり動かない人である。口かずもきかないし、どっちかといえば少し陰気くさいところすらあった。だから玄徳でも閉じ籠っていると、彼も苦労負けして鬱いでいるように見える。無能の如くちょっと見には見えるのであった。
 ――が、ほんとうの彼は一刻として休むを知らない頭脳の持ち主なので、誰よりもよくその性を知っている彼自身が、
(……こういう生れ性なのだ)と、自らを慰める理由もそこにあるのであった。
 後漢の朝廷が亡んだ翌年の三月頃である。襄陽の張嘉という一漁翁が、
「夜、襄江で網をかけておりましたところ、一道の光とともに、河底からこんなものが揚がりましたので」と、遥々、その品を、蜀へたずさえてきて、孔明に献じた。
 黄金の印章であった。
 金色燦爛として、印面には、八字の篆文が刻してある。すなわちこう読まれた。
 受命于天 既寿永昌
 孔明はひと目見るやたいへん驚いて、
「これこそ、ほんとうの伝国の玉璽である。洛陽大乱のみぎり、漢家から持ち出されて、久しく行方知れずになっていると聞いておるあの宝章にちがいない。曹丕に伝わったものは、そのため、仮に朝廷で作られた後の物に相違なかろう」
 彼は、太傅許靖や、光禄大夫譙周などを、にわかにあつめて、故典事例を調べさせた。人々は伝え聞いて、
「それこそ、漢朝宗親たるわが君が、進んで漢の正統を継ぐべきであると、天の啓示されたものにちがいない」と云い囃し、また何事につけ天象を例にひく者たちは、
「そういえば近頃、成都の西北の天に、毎夜のごとく、瑞気ある光芒が立ち昇っている」
 と、説いたりした。
 要するに、孔明の思う気運というものが、大体蜀中に盛り上がって来たので、ある日、彼は諸臣とともに、漢中王の室へ伺候して、
「今こそ、皇帝の御位について、漢朝の正閏を正し、祖廟の霊をなぐさめ、またもって、万民を安んずべき時でありましょう」
 と、帝立の議をすすめた。
 玄徳は、愕いて、
「そちたちは、予をして、末代までの不忠不義の人とするつもりか」と、ひどく怒った。
 孔明は、襟を正して、
「逆子曹丕と、わが君とを、同一視するものではございません。彼の如き弑逆の大罪を、いったい誰がよく懲らしますか。景帝のご嫡流たるあなた様以外にはないではございませんか」
「でも、ひとたび臣下の群れに落ちた涿郡の一村夫である。普天の下、率土の浜。まだ一つの王徳も施さないうちに、たとえ後漢の朝は亡んだにせよ、予がそのあとを襲ったら、やはり曹丕のような悪名をうけるであろう。ふたたび云うな。予にはそんな望みはない」
 どうしても玄徳はききいれないのであった。
 孔明は黙然と退出した。
 そして、そのことから後、病と称して、政議の席にも、一切、顔を出さなくなった。
「よほど、重態のようか」
 玄徳は心配しだした。ついに耐え難く思ったものか、一日、彼はみずから孔明の邸を訪うて、その病を親しく見舞った。

 孔明は恐懼して病褥を出、清衣して、玄徳を迎えた。彼の病室へ入ってくるなり玄徳はあわてて云った。
「横臥しておればよいに、無理をして病を重くしては、せっかく見舞いにきたのが、かえって悪いことになる。軍師、遠慮せずに、横になっておれ」
「もったいないことです。君侯御自ら臣下の家へお越し給わるさえ恐懼にたえませんのに、みぐるしい病人の枕頭へ親しくお見舞いくださるとは、何と申してよいかわかりません」
「すこし痩せたのう。餌はどうか」
「余りすすみませぬ」
「いったいどういう病か」
「心の煩いです。肉体には病はないつもりです」
「心の病とは」
「ただご賢察ねがうほかありません」
 孔明は、目をふさいだ。そして玄徳がいくら訊ねても、肉体に病はないが、心の病はいまや胸を焚くようです。としか答えなかった。
「軍師。先頃の進言を予が拒んだので、それが煩いの因じゃと申すのか」
「さればです。臣、草廬を出てよりはや十余年、菲才を以て君に仕え、いま巴蜀を取ってようやく理想の一端は実現されたかの感があります。しかしなおここに万代の基礎をたてて、さらに、この鴻業、この耀きを、不朽ならしめんとするに当って、如何なる思召しやら、あなた様にはこの期に至って、世の俗論をおそれ、一身の名分にばかりこだわり、ついに天下の大宗たるお志もないようであります。一世の紛乱の暗黒を統べ闢き、万代にわたる泰平の基をたつるは、天に選ばれた人のみがよく為しとげることで、志さえ立てれば誰でも為し能うものではありません。――不肖臣亮が廬を出てあなた様に仕えたのは全くその人こそあなた様をおいてはほかにないと信じたからでした。またあなた様におかれても当年の大志は明らかに百世万民のために赫々と燃えるような意気を確かにお持ちでした。……しかるに、ああ、ついに劉皇叔ともあるお方も、老いては小成に安んじて、一身の無事のみが、ただ希うところになるものかと、あれこれ思うものですから、臣の病も日々重くなるものとみえまする」
 孔明のことばは沈痛を極めた。また彼のことばには裏にも表にも微塵の私心私慾はなかった。玄徳は服せざるをえなかった。
 元来、彼は非常に名分を尊ぶ人である。世の毀誉褒貶を気にする性であった。それだけにこの問題については、当初から孔明の意見にも容易に従う色は見せなかったが、周囲の事態形勢、また蜀中の内部的なうごきも、遂に、玄徳の逡巡を今はゆるさなかった。
「よくわかった。予の思慮はまだ余りに小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、魏の曹丕の即位を認めているように天下の人が思うかも知れない。軍師の病が癒ったらかならず進言を容れるであろう」
 玄徳はそう約して帰った。
 数日のうちに、孔明はもう明るい眉を蜀営の政務所に見せていた。太傅許靖、安漢将軍糜竺、青衣侯尚挙、陽泉侯劉豹、治中従事楊洪、昭文博士伊籍、学士尹黙、そのほかのおびただしい文武官は毎日のように会議して大典の典礼故実を調べたり、即位式の運びについて、議をかさねていた。
 建安二十六年の四月。成都は、成都が開けて以来の盛事に賑わった。大礼台は武担の南に築かれ、鸞駕は宮門を出、満地を埋むるごとき軍隊と、星のごとく繞る文武官の万歳を唱える中に、玄徳は玉璽をうけ、ここに蜀の皇帝たる旨を天下に宣したのであった。
 拝舞の礼終って、直ちに、
章武元年となす)
 という改元のことも発布され、また国は、
(大蜀と号す)
 と定められた。
 大魏に大魏皇帝立ち、大蜀に大蜀皇帝が立ったのである。天に二日なしという千古の鉄則はここにやぶれた。呉は、果たして、これに対してどういう動きを示すだろうか。

 蜀皇帝の位についてからの玄徳は、その容顔までが、一だん変って、自然に万乗の重きを漢中王の頃とはまた加え、何ともいえぬ晩年の気品をおびてきた。
 もっと異ってきたのは彼の気魄であった。一時は非常に引っ込み思案で、名分や人道主義にばかりとらわれて、青春から壮年期にわたって抱いていた大志も、老来まったくしぼんでしまったかと思われたが、孔明の家を見舞って、彼の病中の苦言を聞いてから後は、何か翻然と悟ったらしい人間の大きさと幅と、そして文武両面の政務にもつかれを知らない晩年人の老熟とを示してきた。
「朕の生涯にはなおなさねばならぬ宿題がある。それは呉を伐つことだ。むかし桃園に盟をむすんだ関羽の仇を討つことである。わが大蜀の軍備はただその目的のために邁進して来たものといっても過言ではない。朕、いま傾国の兵をあげ、昔日の盟を果たさんことを、あえて関羽の霊に告ぐ。汝ら、それを努めよ」
 一日。
 蜀帝の力ある玉音は群臣のうえにこう宣した。朝に侍す百官は粛として咳声もない。綸言豈疑義あらんやと人はみな耀く目を以て答え、血のさしのぼる面をもって決意をあらわしていた。
 すると趙雲子龍が、
「無用無用」と、ひとり反対してはばかる色もなく諫めた。
「呉はいま伐つべからずです。魏を伐てば呉は自然に亡ぶものでしょう。もし魏を後にして、呉へかからば、かならず魏呉同体となって蜀は苦境に立たざるを得ないだろうと思われます」
「何をいうぞ、趙雲
 玄徳はその切れ長い眦から彼を一眄して、むしろ叱るが如くいった。
「呉は倶に天を戴かざるの仇敵だ。朕の義弟を討ったばかりでなく、朕の麾下を脱した傅士仁糜芳潘璋馬忠らの徒がみな拠って棲息しておる国ではないか。その肉を啖い、九族を亡ぼし、以て悪逆の末路を世に示さなければ、朕が大蜀皇帝として立った意義はない」
「あいや、骨肉のうらみも、不忠の臣の膺懲も、要するに、それは陛下の御私憤にすぎません。蜀帝国の運命はもっと重うございます」
関羽は国家の重鎮、馬忠、傅士仁の徒はことごとく国賊。その正邪を正し、怨みをそそぐは、当然、国家の意志ではないか。なんで私情の怒りというか。民もみな怒りきるほどの敵愾心と、戦いの名分が明らかにあってこそ、初めて戦いには勝つものだ。汝の言は、理としては聞えるが、尊ぶには足らん」
 蜀帝の決意は固かった。
 その後、蜀帝の勅使は、ひそかに南蛮(雲南昆明)へ往来した。
 そして南蛮兵五万余を借り出すことに成功を見た。
 その間に、張飛の一身に一奇禍が起った。張飛はその頃、閬中(四川省閬中)にいたが、車騎将軍領司隷校尉に叙封され、また閬州一円の牧を兼任すべしとの恩命に接したのであった。
「わが家兄は、万乗の御位についても、なおこの至らない愚弟をお忘れないとみえる」
 感情のつよい彼は、そういって勅使の前で哭いた。
 関羽の死が聞えて以来、張飛はことに感情づよくなっていた。酔うては怒り、醒めては罵り、または独り哭いて、呉の空を睨み、
(いつかきっと、義兄貴のうらみをはらしてくるるぞ)と剣をたたき、歯をくいしばっていたりすることがままあった。陣中の兵は、この激情にふれて、よく撲られたり、蹴られたりした。故に、将士のあいだには、ひそかに張飛に遺恨を抱く者すらあるような空気だった。
 恩爵の勅に接した日も、張飛は勅使をもてなした後で、
「なぜ、蜀の朝臣どもは、帝にすすめて、一日もはやく、呉を伐たんのか」
 と、まるで勅使のせいのように激論をふっかけた。

前の章 出師の巻 第18章 次の章
Last updated 1 day ago