両虎競食の計

 楊奉の部下が、
徐晃が今、自分の幕舎へ、敵方の者をひき入れて何か密談しています」
 と、彼の耳へ密告した。
 楊奉は、たちまち疑って、
「引っ捕えて糺せ」と、数十騎を向けて、徐晃の幕舎をつつみかけた。すると、曹操の伏勢が起って、それを追い退け、満寵は徐晃を救いだして、共に、曹操の陣へ逃げて来た。
 曹操は、望みどおり徐晃を味方に得て、
「近来、第一の歓びだ」と、いった。
 士を愛すること、女を愛する以上であった曹操が、いかに徐晃を優遇したかいうまでもなかろう。
 楊奉韓暹のふたりは、奇襲を試みたが、徐晃は敵方へ走ってしまったし、所詮、勝ち目はないと見たので、南陽河南省)へと落ちのび、そこの袁術を頼って行った。
 ――かくて、帝の御車と、曹操の軍は、やがて許昌の都門へ着いた。
 ここには、旧い宮門殿閣があるし、城下の町々も備わっている。曹操はまず、宮中を定め、宗廟を造営し、司院官衙を建て増して、許都の面目を一新した。
 同時に、
 旧臣十三人を列侯に封じ、自身は、
 大将軍武平
 という重職に坐った。
 また董昭は――前に、帝の勅使として来て曹操にその人品を認められていたかの董昭公仁は――この際いちやく、洛陽の令に登用された。
 許都の令には、功に依って、満寵が抜擢された。
 荀彧は、侍中尚書令。
 荀攸は軍師に。
 郭嘉は、司馬祭酒に。
 劉曄は、司空曹掾に。
 催督は、銭料使に。
 夏侯惇、夏侯淵、曹仁曹洪など直臣中の直臣は、それぞれ将軍にのぼり、楽進李典徐晃などの勇将はみな校尉に叙せられ、許褚典韋は都尉に挙げられた。
 多士済々、曹操の権威は、自ら八荒にふるった。
 彼の出入には、常に、鉄甲の精兵三百が、弓箭戟光をきらめかせて流れた。――それにひきかえて、故老の朝臣は名のみ、大臣とか元老とかいわれても、日ましに影は薄れて行った。
 また、それらの人々も、今はまったく曹操の羽振りに慴伏して、いかなる政事も、まず曹操に告げてから、後に、天子へ奏するという風に慣わされて来た。
「ああ。――一人除けばまた一人が興る。漢家のご運もはや西に入る陽か」
 嘆く者も、それを声には出さないのである。――ただ無力なにぶい瞳のうちに哭いて、木像のごとく帝の側に佇立しているだけだった。
      ×     ×     ×
 軍師、謀士。
 そのほか、錚々たる幕僚の将たちが、痛烈に会飲していた。
 真ン中に、曹操がいた。面上、虹のごとき気宇を立って、大いに天下を談じていたが、たまたま劉備玄徳のうわさが出た。
「あれも、いつのまにか、徐州の太守となりすましているが、聞くところによると、呂布小沛に置いて扶持しているそうだ。――呂布の勇と、玄徳の器量が、結びついているのは、ちと将来の憂いかと思う。もし両人が一致して、力を此方へ集中して来ると、今でもちとうるさいことになる。――なにか、未然にそれを防止する策はないか」
 曹操がいうと、
「いと易いこと。それがしに精兵五万をおさずけ下さい。呂布の首と、玄徳の首を、鞍の両側に吊るし帰って来ます」と、許褚がいった。
 すると、誰か笑った。
「ははははは。酒瓶ではあるまいし……」
 荀彧である。
 笑った唇へ、酒を運びながら、謀士らしい細い眼の隅から、許褚をながめて云ったのである。

 荀彧に嗤われて、許褚は口をつぐんでしまった。彼は自分がまだ、智者の間に伍しては、一野人にすぎないことを知っていた。
「だめでしょうか、私の策は」
「君のいうことは、策でもなんでもない。ただ、勇気を口にあらわしただけのものだ。玄徳、呂布などという敵へ、そういう浅慮な観察で当るのは危険至極というものだ」
 曹操は、面を向けかえて、
荀彧。――ではそちの考えを聞こうじゃないか。なにか名案があるか」
「ないこともありません」
 荀彧は、胸を正した。
「今のところ――ここしばらくは、私は不戦論者です。なぜなら、遷都のあと、宮門そのほか、容はやっと整えましたが、莫大な建築、兵備施設などに、多くを費やしたばかりのところですから」
「む、む……して」
「ですから、玄徳、呂布に対しては、どこまでも外交的な手腕をもって、彼らを自滅に導くをもって上策とします」
「それは同感だ。――偽って彼らと交友を結べというか」
「そんな常套手段では、むしろ玄徳に利せられるおそれがあります。それがしの考えているのは、二虎競の計という策略です」
「二虎競の計とは」
「たとえば、ここに二匹の猛虎が、おのおの、山月にうそぶいて風雲を待っていると仮定しましょう。二虎、ともに飢えています。よって、これにほかから香ばしい餌を投げ与えてごらんなさい。二虎は猛然、本性をあらわして咬みあいましょう。必ず一虎は仆れ、一虎は勝てりといえども満身痍だらけになります。――かくて二虎の皮を獲ることはきわめて容易となるではございませんか」
「むむ。いかにも」
「――で、劉玄徳は、今徐州を領しているものの、まだ正式に、詔勅をもってゆるされてはおりません、それを餌として、この際、彼に勅を下し、あわせて、密旨を添えて、呂布を殺せと命じるのです」
「あ。なるほど」
「それが、玄徳の手によって完全になされれば、彼は自分の手で、自分の片腕を断ち切ることになり――万一、失敗して、手を焼けば、呂布は怒って、必ずあの暴勇をふるい、玄徳を生かしてはおかないでしょう」
「うむ!」
 曹操は、大きくうなずいたのみで、後の談話はもうそのことに触れなかった。
 が、彼の肚はきまっていたのである。それから数日の後には、帝の詔勅を乞うて、勅使が、徐州へ向って立った。同時に、その使者が曹操の密書をもあわせて携えて行ったことは想像に難くない。
 徐州城に、勅使を迎えた劉玄徳は、勅拝の式がすむと、使者を別室にねぎらって、自身は静かに、平常の閣へもどってきた。
「なんであろうか」
 玄徳は、使者からそっと渡された曹操の私書を、早速、そこでひらいて見た。
「……呂布を?」
 彼は眼をみはった。
 何度も、繰返し繰返し読み直していると、後ろに立っていた張飛関羽のふたりが、
「何事を曹操からいってよこしたのですか」と、訊ねた。
「まあ、これを見るがいい」
呂布を殺せという密命ですな」
「そうじゃ」
呂布は、兇勇のみで、もともと義も欠けている人間ですから、曹操のさしずをよい機として、この際、殺してしまうがよいでしょう」
「いや、彼はたのむ所がなくて、わが懐に投じてきた窮鳥だ。それを殺すは、飼禽を縊るようなもの。玄徳こそ、義のない人間といわれよう」
「――が、不義の漢を生かしておけば、ろくなことはしませんぞ。国に及ぼす害は、誰が責めを負いますか」
「次第に、義に富む人間となるように、温情をもって導いてゆく」
「そうやすやす、善人になれるものですか」
 張飛は、あくまでも、呂布討つべしと主張したが、玄徳は、従う色もなかった。
 すると翌日、その呂布が、小沛から出てきて登城した。

 呂布は、なにも知らない様子であった。
 彼はただその日、劉備玄徳に勅使が下って、正式に徐州の牧の印綬を拝したと聞いたので、その祝辞をのべるために、玄徳に会いに来たのである。
 で――しばらく玄徳とはなしていたが、やがて辞して、長い廊を悠然と退がって来ると、
「待てっ。呂布」と、物陰で待ちかまえていた張飛が、その前へ躍り立って、
「一命は貰ったッ」
 と、いうや否、大剣を抜き払って、呂布の長躯をも、真二つの勢いで斬りつけて来た。
「あっ」
 呂布の沓は、敷き詰めてある廊の瓦床を、ぱっと蹴った。さすがに油断はなかった。七尺近い大きな体躯も、軽々と、後ろに跳びかわしていた。
「貴様は張飛だなっ」
「見たら分ろう」
「なんで俺を殺そうとするか」
「世の中の害物を除くのだ」
「どうして、俺が世のなかの、害物か」
「義なく、節なく、離反常なく、そのくせ、生半可な武力のある奴。――ゆく末、国家のためにならぬから、殺してくれと、家兄玄徳のところへ、曹操から依頼がきている。それでなくても平常から汝はこの張飛から見ると、傲慢不遜で気にくわぬところだ。覚悟をしちまえ」
「ふざけるなっ。貴様ごときに俺が、この首を授けてたまるか」
「あきらめの悪いやつが」
「待てっ、張飛
「待たん!」
 戛然と、二度目の剣が、空間に鳴った。
 斬り損ねたのである。
 誰か、うしろから張飛の肱を抑えて、抱きとめた者があったからである。
「ええいッ、誰だっ。邪魔するな」
「これっ、鎮まらぬかっ。愚者めが」
「あっ。家兄か」
 玄徳は、声を励まして、
「誰が、いつ、そちに向って、呂布どのを殺せといいつけたか。呂兄はこの玄徳にとっては、大切な客分である。わが家の客に対して、剣を用いるのは、玄徳に対して戟を向けるも同じであるぞ」と、叱りつけた。
「ちぇっ。こんな性根の悪い食客を、兄貴は一体、なんの弱味があってそうまで大事がるのか料簡がわからない」
「だまれ、無礼な」
「誰にですか」
呂布どのに対して」
「なにをっ……ばかな」
 張飛は横へ唾を吐いた。しかし玄徳に対しては、絶対に弟であり目下であるということを忘れない彼である。――じっと家兄に睨みつけられると、不平満々ながら、やがて沓音を鳴らして立去ってしまった。
「おゆるし下さい。……あの通りな駄々ッ児です。まるで子どものように単純な漢ですから」
 張飛の乱暴を詫び入りながら、玄徳はもう一度、自分の室へ呂布を迎え直して、
「今、張飛が申したことばの中、曹操から貴君を刺せと密命があったということだけはほんとです。――が、私にはそんな意志がないし、また、要らざることを、貴君の耳へ入れてもと考えて、黙殺していたわけですが、お耳に入ったからには、明らかにしておきましょう」
 と、曹操から来た密書を、呂布に見せて、疑いを解いた。
 呂布も、彼の誠意に感じたと見えて、
「いやよく分った。察するところ、曹操は、あなたと自分との仲を裂こうと謀ったのでしょう」
「その通りです」
呂布を信じて下さい。誓って呂布は、不義をしません」
 呂布は却って感激して退がった。――その様子を、ひそかにうかがっていた曹操の使者は、
「失敗だ。これでは、二虎競の計もなんの意味もない」
 と、苦々しげに呟いていた。

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