南方指掌図

 益州の平定によって、蜀蛮の境をみだしていた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶った。
 従って、孔明の来るまで、叛賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けて、太守王伉は、
冬将軍が去って、久しぶりに春の天日を仰ぐような心地です」
 と、感涙に顔を濡らしながら城門をひらいて、孔明の軍を迎え入れた。
 孔明は、城に入ると、王伉の孤忠をたたえて、同時にこうたずねた。
「ご辺には良い家臣がおると思われる。そも、誰がもっぱら力になって、ご辺にこの小城をよく守らせたのであるか」
「それは呂凱という者です。おゆるしがあれば、すぐこれへ呼びますが」
「招いてくれ」
 呂凱、字は季平。やがて孔明の前に拝伏した。
 孔明は、高士として、彼を迎え、後、蛮国征伐について彼の意見をたたいた。
 呂凱は携えてきた一巻の絵図を、それへひらいて云った。
「愚見を申し上げるよりも、これをお手もとにお納め置き下されば、迂生の万言にも勝るかとぞんじます」
「これはいずこの絵図か」
「名づけて、平蛮討治図とも、南方指掌図ともいっております。南方蛮界の黒奴は、王化を知らず、文明になじまず、しかも自分たちの蛮勇と野性とその風習に驕り恃むこと強く、これを帰服させるには一朝のことには参りません。――で、迂生は多年の間、ひそかに蛮地へ人を遣って、その風俗習性や武器戦法を調べおき、かたがた、南蛮国の地理をつぶさに考察して、遂にこの一図を成したものにござります。図中、細々と書き入れてある註がいま申し上げた蛮地の事情やら気象風土などであります」
 孔明は感心して、
「平時にこういう備えを黙々としてきた者の功を戦時にも忘れてはならない」
 と三嘆し、あらためて彼を征蛮行軍教授の要職に推した。
 かくて、永昌の城に在るうちに、充分な装備と、蛮地の研究をして後、孔明はやがてその大軍をいよいよ南へ進めた。
 日々百里、また数百里と、行軍の輸車労牛は、炎日の下を、蜿蜒と続いてゆく。孔明は一隊ごとに、軍医を配し、糧飲料のことから、夜営の害虫や風土病などについて、全軍の兵のうえに細心な注意をそそいだ。
「天子のお使いが見えられました」
 部将の言葉に、孔明は、
「なに、勅使とか」
 自身、出迎えて、中軍へ請じた。
 見ると、その使いに来たのは、馬謖だった。
 孔明は彼のすがたを見たとたんにはっとしたらしい。なぜならば馬謖は無色の素袍を着し、白革の胸当をつけ、いわゆる喪服していたからである。
 敏にして賢い馬謖は、孔明の顔にうごいた微かなそれをも見のがさなかった。――で、言葉を急いで、
「ご陣中へ、喪服して臨み、失礼はおゆるし下さい。実は、出立の前に、兄の馬良が亡くなりましたので――」と、逆さまながら私事を先にのべて、まず孔明の心をなだめてから、
「天子が、それがしを、ご陣中へお遣わしなされたのは、何の異変も都にあるわけでなく、夷蛮の熱地を征く将士の労をおしのび遊ばされ、成都の佳酒百駄を軍へご下賜あらせられました。――荷駄はやがて後より着きましょう。右までをお伝えいたします」
 と、使いの要旨を述べた。
 その夕、下賜の酒が着いた。孔明はこれを諸軍に頒って、星夜の野営に、蛮土の涼を共に楽しみながら、また馬謖と対して、彼も一杯を酌んだ。
 四方山のはなしの末に、彼は馬謖へ向って試みにたずねた。
「いま蛮国を討治するに当って、ひとつ君の高見を訊きたいものだ。忌憚のないところをいってくれ」
 馬謖は、黙然としていたが、やがて、
「それは実に難しいことですね。功を立てることは易しいが、実果を収めるのは難中の難事です」
 と、若者らしく率直な言葉でいった。

「難しいとは、どう難しいのか」
 孔明が、鸚鵡返しに訊くと、馬謖は、
「古来、南蛮を討つに、成功した例はありません」と、冒頭して、
「――しかし、丞相のことですから、今大軍を率いて、それに向われる以上、必ず大功を収めて、征伐を果されるでしょう。けれどまた、ひとたび都へかえる時は、たちまちもとの状態に戻って、蛮族どもは、乱を思い、虚をうかがい、決して王化に服しきるものではありません」
 と、はばかりなく断言した。
 孔明はうなずいて見せながら、
「しかもなお、そういう未開の夷族をして、王化の徳を知らしめ、心から畏服せしめるには、如何にせばよいと思う?」
「難中の難事たる所以は実にそこにあります。兵を用いるの道は、心を攻むるを以て上とし、武力に終るは下なりと承っています。ねがわくは丞相の軍が、よく彼を帰服せしめて、恩を感じ、徳になつき、蜀軍が都へ引き揚げた後も、永劫に王化はあとに遺って、二度と背くことのないようにありたいものと存じます」
 孔明は長嘆して、君の高論はまさに自分の思うところと一致したものだと云い、斜めならず彼の才志を愛でた。で、朝廷へは使いを派して、馬謖はそのまま陣中に留め、参軍の一将として常に自分の側においた。
 馬謖の才は、夙に彼も認めているものであるが、彼のような若輩に対しても、南方経略の要諦を諮問しているところに、宰相孔明がみずから率いて向った今度の南蛮征討に、いかに彼が腐心しているかをうかがうことができる。
 五十万という大軍の運命をその指揮に担っている重任はいうまでもない。かつはまた、従来の戦場とちがって、風土気候も悪いし、輸送の不便は甚だしいし、嶮山密林、ほとんど人跡未踏の地が多い。
 ひとたび敗れんか、魏や呉は、手を打って、奔河の堤を切るように蜀へなだれ込むだろう。帝はまだ幼くして、蜀都を守るには余りにまだお力がない。先帝玄徳からの直臣や忠良の士もすくなくないとはいえ、遠隔の蛮地で、五十万が屍と化し、孔明すでにあらずと聞えたら、成都の危うきは、累卵のごときものがある。内に叛臣あらわれ、外に魏呉の兵を迎え、どうして亡びずにいられるものではない。前途も多難、うしろも多事。征旅の夜にも、孔明の夢は、一夕たりとも、安らかではあり得なかったのである。
 しかも、南蛮征服の軍は絶対に果しておかなければ、魏呉と対しても、たえず蜀の地は、後顧の不安を絶つことができなかった。今をおいてその国患を根絶する時はないのだ。孔明は例の四輪車に乗り、白羽扇を手に持って、日々百里、また百里、見るものみな珍しい蛮土の道を蜿蜒五十万の兵とともに、果てなく歩みつづけた。
 密林の猛獣も、嶮谷の鳥も、南へ南へと、逃げまわった。かくて蛮国の南夷には、
孔明が攻めて来た」
 ということが、天変のごとく、声から声に伝えられ、南蛮国王の孟獲は、すでに大軍を集結して、
「中国の奴輩に一泡ふかせてやる」
 と、かえって、その蛮都から遠く、出撃してきた。
 はやくも、蜀の偵察が探ってきたところによると、蛮軍の総勢は約六万とわかった。そして各二万を三手に分かち、三洞の元帥と称する者――金環結を第一に、董荼奴を第二に、阿会喃を第三に備えて、待ちかまえているという。
 それに対して、孔明は、
「王平は左軍へ、馬忠は右軍へ当れ。自分は趙雲、魏延を率いて、中央へすすむ」
 と、令した。
 この令に、趙雲や魏延はすこし不平顔だった。左右両軍は、先鋒であり、自分たちは後ろに置かれたからである。
 しかし孔明は、
「王平、馬忠はご辺たちよりも、地の理に詳しい。それに年もとっているから、奇道を行っても過ちが少ない」と、ふたりの血気を制して、両翼がふかく進んだ後から中軍は出動した。そして帷幕の諸将に囲まれた四輪車の上に、孔明は悠々と羽扇をうごかして、異境の鳥や植物の生態などを眺めていた。

 蛮軍は五渓峰の頂に防塞を築いて、三洞の兵を峰つづきに配し、ひそかに、
「中国の弱兵には、この嶮峻さえ登ってこられまい」と、驕っていた。
 月明を利してその下の渓道まで寄せてきた王平、馬忠の先手は、途中で捕えた蛮兵の斥候を道案内として、間道を伝い、道なき道を攀じ、夜半、不意に敵の幕舎を東西から襲った。
 喊の声と共に、各所から花火のような火が噴いた。流星の如く炬火が飛ぶ。蛮陣の内は上を下への大混乱を起している。
 蛮将の金環結は、手下を叱咤しながら、炎の中から衝いて出た。その影を見ると、蜀軍のうちからも、誰やら一将が現われて、猛闘血戦の末、遂にその首を取って、槍先につらぬき、
「手抗う者はみなこうだぞ」
 蛮軍の兵に振り廻して見せた。
 逃げるわ逃げるわ、土蛮の群れは、さながら枯葉を巻くように四散してゆく。そして董荼奴や阿会喃の陣へかくれこんだ。
 魏延、趙雲などの蜀の中軍は、その頃、ここを攻め喚いていた。南蛮勢は、前後に蜀軍を見て、いよいよ度を失い、谿へ飛びこんで頭を砕く者、木へよじ登って焼け死ぬ者、また討たれる者や降る者や、数知れない程だった。
 夜が明けた。蛮地の奇峰怪山のうえに、なお戦火の余燼が煙っている。孔明は快げに、朝の兵糧を喫し、さて夜来の軍功を諸将にたずねた。
「三洞の蛮兵は敗乱して、今朝すでに一個の影だに見えぬ。まことに諸公の大勇によるものであるが、敵の大将は捕え得たであろうか」
「それがしが討った首は、敵将のひとり金環結と思われます。ご実検ください」
「おお、趙雲か。いつもながらのお働き、めでたい。して、そのほかの敵将は」
「遺憾ながらみな逃げたようであります」
「いや、実はここに生擒っておる」
 と、背後の帳へ向って、曳いてこいと命じた。
 人々は信じられなかったが、やがて帳を排して、数名の武士が、阿会喃と董荼奴の縄尻をとって、これへ現れ、
「蛮族。下に居ろ」と、ひきすえた。
「や。どうして?」
 驚かぬ者はなかったが、やがて孔明の説明に依って、ようやく仔細は解けた。
 孔明はかねて帷幕のうちに伴っている呂凱についてこの辺の地形を詳細に研究していたのである。で、中軍両翼が正攻法をとって前進する三日も前に、すでに張嶷、張翼のふたりに間道潜行隊をさずけ、これを遠く敵塞の後方に迂回させ、その道路に埋伏させておいたものだという。
「兵機の妙、鬼神も測り難しというのは、このことでしょう。さてさて、おかしげなる無智の蛮将ども、並べておいてすぐ首を刎ねましょうか」
 諸将が称えいうと、孔明はその処断を制して、かえって、彼らの縄を解いてやれと命じた。そして、
「酒を与えよ」と、酒肴を出して慰め、さらに、
「これはわが成都で産する蜀錦の戦袍である。お前たちにも似合うであろう。この恩衣を纏うて、常に王化の徳を忘れるなかれ」
 と、諭して、やがて夜に入ると、小道からそっと二人を追放してやった。
 董荼奴も阿会喃も、
「ご恩は忘れません」と、涙を流して去った。
 孔明はその後で、諸人に告げた。
「見よ、明日はかならず国王孟獲が自身でこれへ攻め寄せてくるにちがいない。――おのおの手に唾して、これを生擒りにせよや」
 その折にはかくかくと孔明は計策をさずけていた。何処へ向って行くのか、趙雲、魏延は各五千騎を持ち、そのほか、王平や関索なども一手の兵をひきいて、翌朝はやく本陣から別れて行った。

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