鳳雛・巣を出ず
一
いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし――とひそかに自負している曹操である。一片の書簡を見るにも実に緻密冷静だった。蔡和、蔡仲はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れておいたものであるが、疑いないその二人から来た書面に対してすら慎重な検討を怠らず、群臣をあつめて、内容の是非を評議にかけた。
「……蔡兄弟からも、さきに呉へ帰った闞沢からも、かように申し越してきたが、ちと、はなしが巧過ぎるきらいもある。さて、これへの対策は、どうしたものか」
彼の諮問に答えて、諸大将からもそれぞれ意見が出たが、その中で、例の蒋幹がすすんで云った。
「面を冒して、もう一度おねがい申します。不肖、さきに御命をうけて、呉へ使いし、周瑜を説いて降さんと、種々肝胆をくだきましたが、ことごとく、失敗に終り、なんの功もなく立ち帰り、内心、甚だ羞じておる次第でありますが――いまふたたび一命をなげうつ気で、呉へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申し越しが、真実か否かを、たしかめて参るならば、いささか前の罪を償うことができるように存じられます。もしまた、今度も何の功も立てずに戻ったら、軍法のお示しを受けるとも決してお恨みには思いません」
曹操はいずれにせよ、にわかに決定できない大事と、深く要心していたので、
「それも一策だ」と、蒋幹の乞いを容れた。
蒋幹は、小舟に乗って、以前のごとく、飄々たる一道士を装い、呉へ上陸った。
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでいた。
襄陽の名士龐徳公の甥で、龐統という人物である。
龐徳公といえば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生司馬徽ですら、その門には師礼をとっていた。
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、臥龍・鳳雛ということをよくいっていたが、その臥龍とは、孔明をさし、鳳雛とは、龐徳公の甥の――龐統をさすものであることは、知る人ぞ知る、一部人士のあいだでは隠れもないことだった。
それほどに、司馬徽が人物を見こんでいた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思われていた。
きょう、呉の中軍に、ぶらりと来ていた客は、その龐統だった。龐統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かった。
「先生には近頃、つい、この近くの山にお住いだそうですな」
「荊州、襄陽の滅びて後、しばし山林に一庵をむすんでいます」
「呉にお力をかし賜わらんか、幕賓として、粗略にはしませんが」
「もとより曹軍は荊州の故国を蹂躙した敵。あなたからお頼みなくとも呉を助けずにおられません」
「百万のお味方と感謝します。――が、いかにせん味方は寡兵、どうしたら彼の大軍を撃破できましょうか」
「火計一策です」
「えっ、火攻め。先生もそうお考えになられますか」
「ただし渺々たる大江の上、一艘の船に火がかからば、残余の船はたちまち四方に散開する。――ゆえに、火攻めの計を用うるには、まずその前に方術をめぐらし、曹軍の兵船をのこらず一つ所にあつめて、鎖をもってこれを封縛せしめる必要がある」
「ははあ、そんな方術がありましょうか」
「連環の計といいます」
「曹操とても、兵学に通じておるもの。いかでさような計略におちいろう。お考えは至妙なりといえど、おそらく鳥網精緻にして一鳥かからず、獲物のほうでその策には乗りますまい」
――こう話しているところへ、江北の蒋幹が、また訪ねてきたと、部下の者が取次いできたのだった。
二
それを機に、龐統は暇をつげて帰った。
周瑜は、それを送って、ふたたび営中にもどると、天地を拝礼して、喜びながら、
「われにわが大事を成さしむるものは、いまわれを訪う者である」と、いった。
やがて、蒋幹は、案内されて、ここへ通ってきた。――この前のときと違って、出迎えもしてくれず、周瑜は、上座についたまま、傲然と自分を睥睨している様子に、内心、気味わるく思いながらも、
「やあ、いつぞやは……」と、さりげなく、親友ぶりを寄せて行った。
すると周瑜は、きっと、眼にかど立てて、
「蒋幹。また貴公は、おれを騙そうと思ってきたな」
「えっ……騙そうとして? ……あははは、冗談じゃない。旧交の深い君に対してなんで僕がそんな悪辣なことをやるもんか。……それどころではない。吾輩は、実は先日の好誼にむくいるため、ふたたび来て、君のために一大事を教えたいと思っておるのに」
「やめたがいい」
周瑜は噛んで吐き出すように、
「――汝の肚の底は、見えすいている。この周瑜に、降参をすすめる気だろう」
「どうして君としたことが、今日はそんなに怒りッぽいのだ。激気大事を誤る。――まあ、昔がたりでもしながら、親しくまた一献酌み交わそう。そのうえでとっくり話したいこともある」
「厚顔なる哉。これほどいっておるのにまだ分らんか。汝、――いかほど、弁をふるい、智をもてあそぶとも、なんでこの周瑜を変心させることができよう。海に潮が枯れ、山に石が爛れきる日が来ろうとも断じて、曹操如きに降るこの方ではない。――先頃はつい、旧交の情にほだされ、思わず酒宴に心を寛うして、同じ寝床で夢を共にしたりなどしたが、不覚や、あとになって見れば、予の寝房から軍の機密が失われている。大事な書簡をぬすんで貴様は逃げ出したであろうが」
「なに、軍機の書簡を……冗談じゃない、戯れもほどほどにしてくれ。何でそんなものを吾輩が」
「やかましいっ」
と、大喝をかぶせて、
「――そのため、折角、呉に内通していた張允、蔡瑁のふたりを、まだ内応の計を起さぬうちに、曹操の手で成敗されてしまった。明らかに、それは汝が曹操へ密報した結果にちがいない。――それさえあるに、又候、のめのめとこれへ来たのは、近頃、魏を脱陣して、この周瑜の麾下へ投降してきておる蔡和、蔡仲に対して、何か策を打とうという肚ぐみであろう。その手は喰わん」
「どうしてそう……一体このわしを頭から疑われるのか」
「まだいうか。蔡和、蔡仲は、まったく呉に降って、かたく予に忠節を誓いおるもの。豈、汝らの妨げに遭って、ふたたび魏の軍へかえろうか」
「そ、そんな」
「だまれ、だまれっ。本来は一刀両断に斬って捨てるところだが、旧交の誼みに、生命だけは助けてくれる。わが呉の軍勢が、曹操を撃破するのも、ここわずか両三日のあいだだ。そのあいだ、この辺につないでおくのも足手まとい。誰かある! こやつを西山の山小舎へでもほうりこんでおけ。曹操を破って後、鞭の百打を喰らわせて、江北へ追っ放してくれるから」
と、蒋幹を睨みつけ、左右の武将に向って、虎のごとく云いつけた。
武士たちは、言下に、
「おうっ」
と、ばかり蒋幹を取り囲んで、有無をいわさず営外へ引っ立てて行った。そして、一頭の裸馬の背に掻き乗せ、厳しく前後を警固して西山の奥へ追い上げた。
山中に一軒の小舎があった。おそらく物見小舎であろう。蒋幹をそこへほうり込むと、番の兵は、昼夜、四方に立って見張っていた。
三
蒋幹は、日々煩悶して、寝食もよくとれなかったが、或る夜、番兵に隙があったので、ふらふらと小舎から脱け出した。
「逃げたいものだが?」
山中の闇をさまよいながら、しきりと苦慮してみたが、麓へ降りれば、すべて呉の陣に満ちているし、仰げば峨々たる西山の嶮峰のみである。折角、小舎は出てきたものの、
「どうしたものぞ」と、悄然、行き暮れていた。
すると彼方の林の中にチラと燈火が見えた。近づいてみると、家があるらしい。林間の細道をなお進んでゆくと、朗々読書の声がする。
「はて? ……こんな山中に」
柴の戸を排して、庵の中をうかがってみるに、まだ三十前後の一処士、ただひとり浄几の前に、燈火をかかげ、剣をかたわらにかけて、兵書に眼をさらしている様子である。
「……あ。襄陽の鳳雛、龐統らしいが」
思わず呟いていると、気配に耳をすましながら庵の中から、
「誰だ」と、その人物が咎めた。
蒋幹は、駈け寄るなり、廂下に拝をして、
「先日、群英の会で、よそながらお姿を拝していました。大人は鳳雛先生ではありませんか」
「や。そういわるるなら、貴公はあの折の蒋幹か」
「そうです」
「あれ以来、まだ、呉の陣中に、滞留しておられたか」
「いやいやそれどころではありません。一度帰ってまた来たために、周都督からとんだ嫌疑をかけられて」
と、山小舎に監禁された始末を物語ると、龐統は笑って、
「その程度でおすみなら万々僥倖ではないか。拙者が周瑜なら、決して、生かしてはおかない」
「えっ……」
「ははは。冗談だ。まあお上がりなさい」
――と、龐統は席を頒けて燭を剪った。
だんだん話しこんでみると、龐統はなかなか大志を抱いている。その人物はかねて世上に定評のあるものだし、今、この境遇を見れば、呉から扶持されている様子もないので、蒋幹はそっと捜りを入れてみた。
「あなた程の才略をもちながら、どうしてこんな山中に身を屈しているんですか。ここは呉の勢力下ですのに、呉に仕えているご様子もなし……。おそらく、魏の曹丞相のような、士を愛する名君が知ったら、決して捨ててはおかないでしょうに」
「曹操が士を愛する大将であるということは、夙に聞いておるが……」
「なぜ、それでは、呉を去って、曹操のところへ行かないので?」
「でも、何分、危険だからな。――かりそめにも、呉にいた者とあれば、いかに士を愛する曹操でも、無条件には用いまい」
「そんなことはありません」
「どうして」
「かくいう蒋幹が、ご案内申してゆけば」
「何。貴公が」
「されば、私は、曹操の命をうけて、周瑜に降伏をすすめに来たものです」
「ではやはり魏の廻し者か」
「廻し者ではありません。説客として参ったものです」
「同じことだ。……が偶然、わしが先にいった冗談はあたっていたな」
「ですから、ぎょっとしました」
「いや、それがしは何も、呉から禄も恩爵もうけている者ではない。安心なさるがいい」
「どうですか、ここを去って、魏へ奔りませんか」
「勃々と、志は燃えるが」
「曹丞相へのおとりなしは、かならず蒋幹が保証します。曹操にも活眼ありです、何で先生を疑いましょう」
「では、行くか」
「ご決意がつけば、こよいにも」
「もとより早いがいい」
二人は、完全に、一致した。その夜のうち、庵を捨て、龐統は彼と共に、呉を脱した。
道は、蒋幹よりも、ここに住んでいる龐統のほうが詳しい。谷間づたいに、樵夫道をさがして、やがて大江の岸辺へ出た。
四
舟を拾って、二人は江北へ急いだ。やがて魏軍の要塞に着いてからは、一切、蒋幹の斡旋に依った。
有名なる襄陽の鳳雛――龐統来れり、と聞いて、曹操のよろこび方は一通りではなかった。
まず、賓主の座をわけて、
「珍客には、どうして急に、予の陣をお訪ね下されたか」
と、曹操は下へも置かなかった。龐統も、この対面を衷心から歓んで見せながら、
「私をして、ここに到らしめたものは、私の意志というよりは、丞相が私を引きつけ給うたものです。よく士を敬い、賢言を用い、稀代の名将と、多年ご高名を慕うのみでしたが、今日、幹兄のお導きによって、拝顔の栄を得たことは、生涯忘れ得ない歓びです」
曹操は、すっかり打ち解けて、蒋幹のてがらを賞し、酒宴に明けた翌る日、共に馬をひかせて、一丘へ登って行った。
けだし曹操の心は、龐統の口から自己の布陣について、忌憚なき批評を聞こうというところにあったらしい。
だが、龐統は、
「――沿岸百里の陣、山にそい、林に拠り、大江をひかえてよく水利を生かし、陣々、相顧み相固め、出入自ら門あり、進退曲折の妙、古の孫子呉子が出てきても、これ以上の布陣はできますまい」と、激賞してばかりいるので、曹操はかえって物足らなく思い、
「どうか先生の含蓄をもって、不備な点は、遠慮なく指摘してもらいたい」
と、いったが、龐統は、かぶりを振って、
「決して、美辞甘言を呈し、詐って褒めるわけではありません。いかなる兵家の蘊奥を傾けても、この江岸一帯の陣容から欠点を捜し出すことはできないでしょう」
曹操はことごとくよろこんで、さらに、彼を誘って、丘を降り、今度は諸所の水寨港門や大小の舟行など見せて歩いた。
そして、江上に浮かぶ艨艟の戦艦二十四座の船陣を、誇らしげに指さして、
「どうですか、わが水上の城郭は」と、意見を求めた。
ああ――と龐統は感極まったもののごとく、思わず掌を打って、
「丞相がよく兵を用いられるということは、夙に隠れないことですが、水軍の配備にかけても、かくまでとは、夢想もしていませんでした。――憐むべし、周瑜は、江上の戦いこそ、われ以外に人なしと慢心していますから、ついに滅亡する日までは、あの驕慢な妄想は醒めますまい」
やがて立ち帰ると、曹操は営中の善美を凝らして、ふたたび歓待の宴に彼をとらえた。そして夜もすがら孫呉の兵略を談じ、また古今の史に照らして諸家の陣法を評したりなど、興つきず夜の更くるも知らなかった。
「……ちょっと失礼します」
龐統はその間に、ちょいちょい中座して室外に出ては、また帰って席につき、話しつづけていた。
「……ちと、お顔色がわるいようだが? どうかなされたか」
「何。大したことはありません」
「でも、どこやら勝れぬように見うけらるるが」
「舟旅の疲れです。それがしなど生来水に弱いので四、五日も江上をゆられてくると、いつも後で甚だしく疲労します。……いまも実はちと嘔吐を催してきましたので」
「それはいかん、医者を呼ぶから診せたがいい」
「ご陣中には、名医がたくさんおられるでしょう。おねがいします」
「医者が多くいるだろうとは、どうしてお察しになったか」
「丞相の将兵は、大半以上、北国の産。大江の水土や船上の生活に馴れないものばかりでしょう。それをあのようになすっておいては、この龐統同様、奇病にかかって、身心ともにつかれ果て、いざ合戦の際にも、その全能力をふるい出すことができますまい」
五
龐統の言は、たしかに曹操の胸中の秘を射たものであった。
病人の続出は、いま曹操の悩みであった。その対策、原因について軍中やかましい問題となっている。
「どうしたらよいでしょう。また、何かよい方法はありませんか。願わくはご教示ありたいが」
曹操は初め、驚きもし、狼狽気味でもあったが、ついに打ち割ってこういった。
龐統は、さもあらんと、うなずき顔に、
「布陣兵法の妙は、水も洩らさぬご配備ですが、惜しいかな、ただ一つ欠けていることがある。原因はそれです」
「布陣と病人の続出とに、何か関聯がありますか」
「あります。大いにあります。その一短を除きさえすればおそらく一兵たりとも病人はなくなるでしょう」
「謹んでお教えに従おう。多くの医者も、薬は投じてもその原因に至っては、ただ風土の異なるためというのみで、とんと分らない」
「北兵中国の兵は、みな水に馴れず、いま大江に船を浮かべ、久しく土を踏まず、風浪雨荒のたびごとに、気を労い身を疲らす。ために食すすまず、血環ること遅、凝って病となる。――これを治すには、兵をことごとく上げて土になずますに如くはありませんが、軍船一日も人を欠くべからずです。ゆえに、一策をほどこし、布陣をあらためるの要ありというものです。まず大小の船をのこらず風浪少なき湾口のうちに集結させ、船体の巨きさに準じて、これを縦横に組み、大艦三十列、中船五十列、小船はその便に応じ、船と船との首尾には、鉄の鎖をもって、固くこれをつなぎ、環をもって連ね、また太綱をもって扶けなどして、交互に渡り橋を架けわたし、その上を自由に往来なせば、諸船の人々、馬をすら、平地を行くが如く意のままに歩けましょう。しかも大風搏浪の荒日でも、諸船の動揺は至って少なく、また軍務は平易に運び、兵気は軽快に働けますから、自然、病に臥すものはなくなりましょう」
「なるほど、先生の大説、思いあたることすくなくありません」
と、曹操は、席を下って謝した。龐統は、さり気なく、
「いや、それも私だけの浅見かもしれません。よく原因を探究し、さらに賢考なされたがよい。お味方に病者の多いなどは、まず以て、呉のほうではさとらぬこと。少しも早く適当なご処置をとりおかれたら、かならず他日呉を打ち敗ることができましょう」
「そうだ、このことが敵へもれては……」と、曹操も、急を要すと思ったか、たちまち彼の言を容れて、次の日、自身中軍から埠頭へ出ると、諸将を呼んで、多くの鍛冶をあつめ、連環の鎖、大釘など、夜を日についで無数につくらせた。
龐統は、悠々客となりながら、その様子をうかがって、内心ほくそ笑んでいたが、一日、曹操と打ち解けて、また軍事を談じたとき、あらためてこういった。
「多年の宿志を達して、いまこそ私は名君にめぐり会ったここちがしています。粉骨砕身、この上にも不才を傾けて忠節を誓っております。ひそかに思うに、呉の諸将は、みな周瑜に心から服しているのは少ないかに考えられます。周都督をうらんで、機もあればと、反り忠をもくろむもの、主なる大将だけでも、五指に余ります。それがしが参って三寸不爛の舌をふるい、彼らを説かば、たちまち、旗を反して、丞相の下へ降って来ましょう。しかる後、周瑜を生け捕り、次いで玄徳を平げることが急務です。――呉も呉ですが、玄徳こそは侮れない敵とお考えにはなりませんか」
そのことばは、大いに曹操の肯綮にあたったらしい。彼は、龐統がそう云い出したのを幸いに、
「いちど呉へかえって、同志を語らい、ひそかに計をほどこして給わらぬか。もし成功なせば、貴下を三公に封ずるであろう」と、いった。