毒と毒

 一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪れば、英雄と称せられる。
 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀誉褒貶もまたおかしなものである。
 曹操は、自分の根城だった兗州を失地し、その上、いなご飢饉の厄にも遭いなどして、ぜひなく汝南潁川方面まで遠征して地方の草賊を相手に、いわゆる伐り奪り横行をやって苦境をしのいでいたが、その由、長安の都へ聞えると、朝廷から、
(乱賊を鎮定して、地方の平穏につくした功によって、建徳将軍費亭侯に封じ給う)
 と、嘉賞の沙汰を賜わった。
 で、曹操は、またも地方に勢威をもりかえして、その名、いよいよ中外に聞えていたが、そうした中央の政廟には、相かわらず、その日暮しな政策しか行われていなかった。
 長安の大都は、先年革命の兵火に、その大半を焼き払われ、当年の暴宰相董卓は殺され、まったく面目を一新するかと思われたが、その後には李傕郭汜などという人物が立って、依然政事を私し、私慾を肥やし、悪政ばかり濫発して、すこしも自粛するところがなかったため、民衆は怨嗟を放って、「一人の董卓が死んだと思ったら、いつのまにか、二人の董卓が朝廷にできてしまった」と、いった。
 けれど誰も、それを大声でいう者はない。司馬李傕大将軍郭汜の権力というものは、百官を圧伏せしめて、絶対的なものとなっている。
 ここに太尉楊彪という者があった。或る時朱雋と共に、そっと献帝に近づいて奏上した。
「このままでは、国家の将来は実に思いやられます。聞説、曹操は今、地方にあって二十余万の兵を擁し、その幕下には、星のごとく、良い武将と謀臣をかかえているそうです。ひとつ、彼を用いて、社稷に巣くう奸党を剿滅なされたら如何なものでしょう。……われわれ憂いを抱く朝臣はもとより、万民みな、現状の悪政を嘆いておりますが」
 暗に、二奸の誅戮を帝にすすめたのであった。
 献帝は落涙され、
「おまえたちがいうまでもない。朕が、彼ら二賊のために、苦しめられていることは、実に久しいものだ。日々、朕は、我慢と忍辱の日を送っている。……もし、あの二賊を討つことができるものなら、天下の人民と共に朕の胸中もどんなに晴々するかと思う。けれど悲しいかな、そんな策はあり得まい」
「いや、ないことはありません。帝の御心さえ決するなれば」
「どうして討つか」
「かねて、臣の胸に、ひとつの策が蓄えてあります。郭汜李傕とは、互に並び立っていますから計略をもって、二賊を咬み合わせ、相叛くようにして、しかる後、曹操に密詔を下して、誅滅させるのです」
「そう行くかの」
「自信があります。その策というのは、郭汜の妻は、有名な嫉妬やきですから、その心理を用いて、彼の家庭からまず、反間の計を施すつもりです。おそらく失敗はあるまいと思います」
 帝の内意をたしかめると、楊彪は秘策を胸にねりながら、わが邸へ帰って行った。帰るとすぐ、彼は妻の室へはいって、
「どうだな。この頃は、郭汜の令夫人とも、時々お目にかかるかね。……おまえたち奥さん連ばかりで、よく色々な会があるとのことだが」
 と、両手を妻の肩にのせながら、いつになく優しい良人になって云った。

 楊彪の妻は怪しんで、良人を揶揄した。
「あなた。どうしたんですか、いったい今日は」
「なにが?」
「だって、常には、私に対して、こんなに機嫌をとるあなたではありませんもの」
「あははは」
「かえって、気味が悪い」
「そうかい」
「なにかわたしに、お頼みごとでもあるんでしょ、きっと」
「さすがは、おれの妻だ。実はその通り、おまえの力を借りたいことがあるのだが」
「どんなことですか」
郭汜の夫人は、おまえに負けない嫉妬やきだというはなしだが」
「あら、いつ私が、嫉妬なんぞやきましたか」
「だからさ、おまえのことじゃないよ。郭汜夫人が――といっているじゃないか」
「あんな嫉妬深い奥さんと一緒にされてはたまりませんからね」
「おまえは良妻だ。わしは常に感謝している」
「嘘ばかり仰っしゃい」
「冗談は止めて。――時に、郭汜の夫人を訪問して、ひとつ、おまえの口先であの人の嫉妬をうんと焚きつけてくれないか」
「それがなんの為になるんですか。他家の奥さんを悋気させることが」
「国家のためになるのだ」
「また、ご冗談を」
「ほんとにだ。――ひいては漢室のお為となり、小さくは、おまえの良人楊彪の為にもなることなのだから」
「分りません。どうしてそんなつまらないことが、朝廷や良人の為になりますか」
「……耳をお貸し」
 楊彪は、声をひそめて、君前の密議と、意中の秘策を妻に打明けた。
 楊彪の妻は、眼をまろくして、初めのうちは、ためらっていたが良人の眼を仰ぐと、くわっと、恐ろしい決意を示しているので、
「ええ。やってみます」と、答えた。
 楊彪は、圧しかぶせて、
「やってみるなんて、生ぬるい肚ではだめだ。やり損じたら、わが一族の破滅にもなること。毒婦になったつもりで、巧くやり終せてこい」と、云い含めた。
 翌る日。
 彼の妻は、盛装をこらし、美々しい輿に乗って、大将軍郭汜夫人を訪問に出かけた。
「まあ、いつもお珍しい贈り物をいただいて」と、郭汜夫人は、まず珍貴な音物の礼をいって、
「よいお召服ですこと」と、客の着物や、化粧ぶりを褒めた。
「いいえ、わたくしの主人なんかちっとも衣裳などには構ってくれませんの。それよりも、令夫人のお髪は、お手入れがよいとみえて、ほんとにお綺麗ですこと。いつお目にかかっても、心からお美しいと思うお方は、世辞ではございませんが、そうたんとはございません。……それなのに、男というものは」
「オヤ、あなたは、わたくしの顔を見ながらなんで涙ぐむのですか」
「いいえ、べつに……」
「でも、おかしいではございませんか、なにか理があるのでしょう。隠さないで、はなして下さい。私にいえないことですか」
「……つい、涙などこぼして、夫人様おゆるし下さいませ」
「どうしたんです、一体」
「では、おはなし申しますが、ほんとに、誰にも秘密にして下さらないと」
「ええ、誰にも洩らしはしません」
「実はあの……夫人様のお顔を見ているうちに、なにもご存じないのかと、お可哀そうになって来て」
「え。わたしが、可哀そうになってですって。――可哀そうとは、一体、どういうわけで。……え? え?」
 郭夫人は、もう躍起になって、楊彪の妻に、次のことばをせがみたてた。

 楊彪の妻は、わざと同情にたえない顔をして見せながら、
「ほんとに夫人様は、なにもご存じないんですか」
 と、空おそろしいことでも語るように声をひそめた。
 郭汜の夫人は、もう彼女の唇の罠にかかっていた。
「なにも知りません。……なにかあの、宅の主人に関わることではありませんか」
「え、そうなんですの……奥さま、どうか、あなたのお胸にだけたたんでおいて下さいませ。あの、お綺麗なんで有名な李司馬のお若い奥様をご存じでいらっしゃいましょ」
李傕様と良人とは、刎頸の友ですから、私も、あの夫人とは親しくしておりますが」
「だから夫人様は、ほんとにお人が好すぎるって、世間でも口惜しがるんでございましょうね。あの李夫人と、お宅の郭将軍とは、もう疾うからあの……とても……何なんですって」
「えっ。主人と、李夫人が?」
 郭汜の妻は、さっと、顔いろを変えて、
「ほ、ほんとですか」と、わなないた。
 楊彪の妻は、「奥さま。男って、みんなそうなんですから、決して、ご主人をお怨みなさらないがようございますよ。ただ私は、李夫人が、憎らしゅうございますわ。あなたという者があるのを知っていながら、何ていうお方だろうと思って――」と、すり寄って、抱かないばかりに慰めると、郭夫人は、
「道理でこの頃、良人の容子が変だと思いました。夜もたびたび遅く帰るし、私には、不機嫌ですし……」と、さめざめと泣いた。
 楊彪の妻が、帰ってゆくと、彼女は病人のように、室へ籠ってしまった。その夜も、折悪しく、彼女の良人は夜更けてから、微酔をおびて帰って来た。
「どうしたのかね。おい、真っ蒼な顔しておるじゃないか」
「知りません! うっちゃッておいて下さい」
「また、持病か。ははは」
「…………」
 夫人は、背を向けて、しくしく泣いてばかりいた。
 四、五日すると、李傕司馬の邸から、招待があった。郭夫人は、良人の出先に立ちふさがって、
「およしなさい。あんな所へ行くのは」と、血相を変えて止めた。
「いいじゃないか。親しい友の酒宴に行くのが、なぜ悪いのか」
「李司馬だって、あなたを心で怨んでいるにちがいありません」
「なぜ」
「なぜでも」
「分らんやつじゃな」
「今に分りましょう。古人も訓えております。両雄ならび立たずです。その上、個人的にも、面白くないことが肚にあるんですもの。――もしあなたが、酒宴の席で、毒害でもされたら私たちはどうなりましょう」
「はははは。なにかおまえは、勘ちがいしてるんじゃろ」
「なんでもようございますから、今夜は行かないで下さい。ね、あなた、お願いですから」
 果ては、胸にすがって、泣かれたりしたので、郭汜も、振りもぎっても行かれず、遂に、その夜の招宴には、欠席してしまった。
 ――と、次の日李傕の邸からわざわざ料理や引出物を、使いに持たせて贈って来た。厨房を通して受け取った郭汜の妻は、わざとその一品の中に、毒を入れて良人の前へ持って来た。
 郭汜は何気なく、
「美味そうだな」と、箸を取りかけると、夫人はその手を振りのけて、
「大事なお体なのに、他家から来た喰べ物を、毒味もせずに召上がるなんて、飛んでもない」
 と、その箸をもって、料理の一品をはさんで、庭面へ投げやると、そこにいた飼犬が、とびついて喰べてしまった。
「……やっ?」
 郭汜は驚いた。見ているまに、犬は独楽のごとく廻って、一声絶叫すると、血を吐いて死んでしまった。

「おお! 怖ろしい」
 郭夫人は、良人にしがみつきながら、大仰に、身をふるわせて云った。
「ごらんなさい。妾がいわないことではないでしょう。この通り、李司馬から届けてよこした料理には毒が入っているではありませんか。人の心だって、これと同じようなものです」
「ウむむ……」と、郭汜もうめいたきり、目前の事実に、ただ茫然としていた。
 こんなこともあってから、郭汜の心には、ようやく李傕に対しての疑いが、芽を伸ばしていた。
「はてな、あの漢?」と、視る眼を、前とちがって、事ごとに歪んで視るようになった。
 それから一ヵ月ほど後、朝廷から退出して帰ろうとする折を、李傕に強って誘われて、郭汜はぜひなく彼の邸へ立ち寄った。
「きょうは、少し心祝いのある日だから、充分に飲んでくれ給え」
 例によって、李司馬は、豪奢な卓に、美姫をはべらせて、彼をもてなした。
 郭汜はつい帯紐解いて、泥酔して家に帰った。
 だが、帰る途中で、彼はすこし酔がさめかけた。――というのは生酔本性にたがわずで、なにかのはずみにふと、神経を起して、
「まさか、今夜の馳走には、毒は入っていなかったろうな?」
 と、いつぞや毒にあたって死んだ犬の断末魔の啼き声を思い出してきたからであった。
「……大丈夫かしら?」
 そう神経が手伝いだすと、なんとはなく胸がむかついて来た。急に鳩尾のあたりへそれが衝きあげてくる。
「あ。これはいかん」
 彼は、額の汗を指で撫でた。そして車の者に、
「急げ、急げ」と、命じた。
 邸へ戻るなり、彼は、あわてて妻を呼び、
「なにか、毒を解す薬はないか」
 と、牀へ仰向けに仆れながら云った。
 夫人は、理を聞くと、この時とばかり、薬の代りに糞汁をのませて、良人の背をなでていた。さらぬだに、神経を起していた郭汜はあわてて異様なものを嚥みくだしたので、とたんに、牀の下へ、腹中のものをみな吐き出してしまった。
「オオ。いい塩梅に、すぐ薬が効きました。これでさっぱりしたでしょう」
「ああ、苦しかった」
「もうお生命は大丈夫です」
「……ひどい目に遭った」
「あなたもあなたです。いくら妾がご注意しても、李司馬を信じきっているから、こんなことになるんです」
「もう分った。われながら、おれはあまり愚直すぎた。よろしい、李司馬がその気なら、おれにも俺の考えがある」
 蒼白になった額を、自分の拳で、二つ三つ叩いていたが、やにわに室を躍りだしたと思うと、郭汜は、その夜のうちに、兵を集め、李司馬の邸へ夜討をかけた。
 李傕の方にも、いちはやく、そのことを知らせた者があるので、
「さては、此方を除いて、おのれ一人、権を握らんとする所存だな。いざ来い、その儀ならば」
 と、すでに彼のほうにも、充分な備えがあったので、両軍、巷を挟んで、翌日もその翌日も、修羅の巷を作って、血みどろな戦闘を繰返すばかりだった。
 一日ごとに、両軍の兵は殖え、長安の城下にふたたび大乱状態が起った。――その混乱の中に、李司馬の甥の李暹という男は、
「そうだ。……天子をこっちへ」
 と、気づいて、いちはやく龍座へせまって、天子と皇后を無理無態に輦へうつし、謀臣の賈詡、武将左霊のふたりを監視につけ、泣きさけび、追い慕う内侍や宮内官などに眼もくれず、後宰門から乱箭の巷へと、がらがら曳きだして行った。

「李司馬の甥が、天子を御輦にのせて、どこかへ誘拐して行きます」
 部下の急報を聞いて、郭汜は非常に狼狽した。
「ああ、抜かった。天子を奪われては、一大事だ。それっ、やるな!」
 にわかに、後宰門外へ、兵を走らせたが、もう間にあわなかった。
 奔馬と狂兵にひかれてゆく龍車は、黄塵をあげて、郿塢街道のほうへ急いでいた。
「あれだあれだ」
 郭汜の兵は、騒ぎながら、ワラワラと追矢を射かけた。しかし、敵の殿軍に射返されて、却っておびただしい負傷者を求めてしまった。
「出し抜かれたか。くそいまいましいことではある」
 郭汜は、自分の不覚の鬱憤ばらしに兵を率いて、禁闕へ侵入し、日頃気にくわない朝臣を斬り殺したり、また、後宮の美姫や女官を捕虜として、自分の陣地へ引っ立てた。
 そればかりか、すでに帝もおわさず、政事もそこにはない宮殿へ無用な火を放って、
「この上は、あくまで戦うぞ」と、その炎を見て、いたずらに快哉をさけんだ。
 一方――
 帝と皇后の御輦は、李暹のために、李司馬の軍営へと、遮二無二、曳きこまれて来たが、そこへお置きするのはさすがに不安なので李傕、李暹の叔父甥は、相談のうえ、以前、董相国の別荘でありまた、堅城でもある郿塢の城内へ、遷し奉ることとした。
 以来、献帝並びに皇后は、郿塢城の幽室に監禁されたまま、十数日を過しておられた。帝のご意志はもとよりのこと、一歩の自由もゆるされなかった。
 供御の物なども、実にひどいもので、膳がくれば、必ず腐臭がともなっていた。
 帝は、箸をお取りにならない。侍臣たちは、強いて口へ入れてみたが、みな嘔吐をこらえながら、ただ、涙をうかべあうだけだった。
「侍従どもが、餓鬼のごとく痩せてゆくのは、見ている身が辛い。願わくは、朕へ徳をほどこす心をもて、彼らに愍れみを与えよ」
 献帝は、そう仰っしゃって、李司馬の許へ使いを立て、一嚢の米と、一股の牛肉を要求された。すると、李傕がやって来て、
「今は、闕下に大乱の起っている非常時だ。朝夕の供御は、兵卒から上げてあるのに、この上、なにを贅沢なご託をならべるのかっ」
 と、帝へ向って、臣下にあるまじき悪口をほざいた。そして、なにか傍らから云った侍従をも撲りつけて立ち去ったが、さすがに後では、少し寝ざめが悪かったものとみえ、その日の夕餉には若干の米と、腐った牛肉の幾片かが皿に盛られてあった。
「ああ。これが彼の良心か」
 侍従たちは、その腐った物の臭気に面をそむけた。
 帝は、いたく憤られて、
「豎子、かくも朕を、ないがしろに振舞うか」
 と、袞龍の袖をお眼にあてたまい身をふるわせてお嘆きになった。
 侍臣のうちに、楊彪もひかえていた。――
 彼は、断腸の思いがした。
 自分の妻に、反間の計をふくめて、今日の乱を作った者は、誰でもない楊彪である。
 計略図にあたって、郭汜李傕とが互に猜疑しあって、血みどろな角逐を演じ出したのは、まさに、彼の思うつぼであったが、帝と皇后の御身に、こんな辛酸が下ろうとは、夢にも思わなかったところである。
「陛下。おゆるし下さい。そして李傕の残忍を、もうしばらく、お忍び下さい。そのうちに、きっと……」
 云いかけた時、幽室の外を、どやどやと兵の馳ける跫音が流れて行った。そして城内一度に、何事か、わあっと鬨の声に揺れかえった。

 折も折である。
 帝は、容色を変えて、
「何事か?」と、左右をかえりみられた。
「見て参りましょう」
 侍臣の一人があわてて出て行った。そして、すぐ帰って来ると、
「たいへんです。郭汜の軍勢が城門に押しよせ、帝の玉体を渡せと、喊のこえをあげ、鼓を鳴らして、ひしめいておりまする」と、奉答した。
 帝は、喪心せんばかり驚いて、
「前門には虎、後門には狼。両賊は朕の身を物として、爪牙を研ぎあっている。出ずるも修羅、止まるも地獄、朕はそもそも、いずこに身を置いていいのか」と、慟哭された。
 侍中郎の楊琦は、共に涙をふきながら、帝を慰め奉った。
李傕は、元来が辺土の夷そだちで最前のように、礼をわきまえず、言語も粗野な漢ですが、あの後で、心に悔いる色が見えないでもありませんでした。そのうちに、不忠の罪を慚じて、玉座の安泰をはかりましょう。ともあれ、ここは静かに、成行きをご覧あそばしませ」
 そのうちに、城門外では、ひと合戦終ったか、矢叫びや喊声がやんだと思うと、寄手の内から一人の大将が、馬を乗出して、大音声にどなっていた。
「逆賊李傕にいう。――天子は天下の天子なり、何故なれば、私に、帝をおびやかし奉り、玉座を勝手にこれへ遷しまいらせたか。――郭汜、万民に代って汝の罪を問う、返答やあるっ!」
 すると、城内の陰から李傕、さっさっと駒をすすめて、
「笑うべきたわ言かな。汝ら乱賊の難を避けて帝おん自らこれへ龍駕を奔らせ給うによって、李傕御座を守護してこれにあるのだ。――汝らなお、龍駕をおうて天子に弓をひくかっ」
「だまれっ。守護し奉るに非ず、天子を押しこめ奉る大逆、かくれないことだ。速やかに、帝の御身を渡さぬにおいては、立ちどころに、その素っ首を百尺の宙へ刎ねとばすぞ」
「なにをっ、小ざかしい」
「帝を渡すか、生命を捨てるか」
「問答無用っ」
 李傕は、槍を振って、りゅうりゅうと突っかけてきた。
 郭汜は、大剣をふりかざし、おのれと、唇をかみ、眦を裂いた。双方の駒は泡を噛んで、いななき立ち、一上一下、剣閃槍光のはためく下に、駒の八蹄は砂塵を蹴上げ、鞍上の人は雷喝を発し、勝負は容易につきそうもなかった。
「待ち給え。両将、しばらく待ち給え!」
 ところへ。
 城中から馳せ出して、双方を引分けた者は、つい今し方、帝のお傍から見えなくなっていた太尉楊彪だった。
 楊彪は、身を挺してふたりに向って、懸河の弁をふるい、
「ひとまず、ここは戦をやめて、双方、一応陣を退きなさい。帝の御命でござる。御命に背く者こそ、逆賊といわれても申し訳あるまい」と、いった。
 その一言に、双方、兵を収めてついに引退いた。
 楊彪は、翌日、朝廷の大臣以下、諸官の群臣六十余名を誘って、郭汜の陣中におもむいた。そして一日もはやく李傕と和睦してはどうかとすすめてみた。
 誰もまだ気づかないが、もともとこの戦乱の火元は楊彪なのである。ちと薬が効きすぎたと彼もあわてだしたのだろうか。それともわざと仲裁役を買ってことさら、仮面の上に仮面をかむって来たのだろうか。彼もまた複雑な人間の一人ではある。

底本:「三国志(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2009(平成21)年2月2日第62刷発行
   「三国志(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2008(平成20)年12月22日第53刷発行
※副題には底本では、「群星の巻」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

前の章 群星の巻 第23章 次の章
Last updated 1 day ago