周瑜・気死す
一
孔明の従えてきた荊州の舟手の兵は、みな商人に姿を変えていた。玄徳と夫人、また随員五百を各〻の舟に収容すると、たちまち、櫓櫂をあやつり、帆を揚げて、入江の湾口を離れた。
「やあ、その舟返せ」
呉の追手は、遅ればせに来て、あとの岸にひしめき合っていた。
孔明は一舟の上からそれを指さして、
「すでにわが荊州は一国たり。一国が一国を謀るもよし攻めるもよいが、美人をもって人を釣るような下策は余りにも拙劣極まる。汝ら、呉へ帰ったら周瑜へ告げよ。ふたたびかかる錯誤はするなと」
と、岸へ向って云った。
多くの舟から、どっと嘲笑があがった。
それに答えて岸からは、雨のように矢が飛んできたが、みな江波に落ちて藁のように流されてしまった。
しかし、江上を数里進んで、ふと下流を望むと、追風に満帆を張った兵船が百艘ばかり見えた。中央に「帥」の字の旗をたてて、明らかにそれには大都督周瑜が坐乗しているらしい。そして左には黄蓋の旗じるしが見え、右には韓当の船が並び、その陣形は、あたかも鳳翼を開くように迫ってきた。
「おおっ、呉の大船隊が」
と、玄徳をはじめ人々がみな色を失うと、孔明は、舟手の者にすぐ進路を指揮し、
「かねて予測されていたこと。お愕きには及びません」
と、速やかに岸へ寄せ、そこからは陸地を取って逃げ奔った。
当然、呉の水軍も、船をすてて陸地へ駈け上がってきた。黄蓋、韓当、徐盛など、皆飛ぶが如く馬を早めて来る。
周瑜もその中にあって、
「ここはどの辺だ?」と、諸将にたずねていた。
「黄州の境にあたります」
徐盛が答えた時である。忽然、鼓の声が、四沢の静寂を破った。
一彪の軍馬が、それと共に、山の陰から奔進してくる。見れば玄徳の義弟関羽である。たちまち、八十二斤の青龍刀は周瑜の身に迫ってきた。
「すわ。敵に何か、備えがあるらしいぞ」
急に、退きかけると、
「われこそ、黄忠」
「魏延を知らずや」
左の沢からも、右手なる峰からも、待ちかまえていた猛兵が、乱れ立った彼の虚を衝いていよいよ駈け散らした。
呉の将士は、存分な戦いもせずに、続々、討死を遂げた。周瑜は、上陸したもとの所まで、馬に鞭打って逃げのび、あわてて船へ身を移すと、その時、もう遠い先へ行っているはずの孔明が、忽然と、一隊の兵を率いて、江岸に姿を現わし、大音にいった。
周郎ノ妙計ハ天下ニ高シ
夫人ヲ添エ了ッテ
マタ、兵ヲ折ク
それを二度もくり返して、一斉にどっと笑い囃したので、周瑜は、勃然と怒って、
「おのれ。その儀なれば、陸へ戻って、もう一戦せん。諸葛亮、そこをうごくな」
と、地だんだ踏みながら、船を岸へ寄せろと呶鳴ったが、黄蓋、韓当などは、味方はあらまし討たれ、残る士卒も戦意をうしなっているのを見て、
「ここが我慢のしどころです」と、もがく周瑜を抱き止めながら、船手の者に、
「帆を張りあげろ。早く船を中流へ出せ」と、命じた。
周瑜はなお、眦に血涙をたたえて、
「無念。実に無念。かかる恥をうけ、かかる結末をもって、なんで、大都督周瑜たるものが、再び呉国へ帰れよう。おめおめと呉侯にお目にかかれよう。――おれは恥を知っている!」
と、叫びながら、歯をギリギリ咬み鳴らしたと思うと、その口からかっと真っ赤な血を吐いて、朽木仆れに船底へ仆れてしまった。
二
「都督っ。周都督」
「お気をたしかに持って下さい」
呉の諸将は、周瑜の体を抱き起し、左右から悲痛な声をふり絞った。
しばらくして、周瑜はようやく、うす目をひらいた。
「……船を。船を呉へ向けてくれ」
かすかな声でいった。
蒋欽と周泰は、病都督の身を守って、柴桑まで帰った。
周瑜は恨みをのみながら、ふたたび病牀に親しむのほかなかった。
けれど、やがてこの始末を知った呉侯孫権の鬱憤はやりばもなく、日夜、
「どうしてこの報復を」と、玄徳を憎んでいた。
ところへまた、病中の周瑜から、長文な書簡がきた。
――君。一日も早く、兵馬を強大にし、荊州を討ち懲らし給え。と、ある。
さらぬだに若い孫権、そう励まされなくても、鬱心勃々であった孫権。忽ち、その気になって、軍議を会そうとした。
「急に、何のご軍議ですか」
重臣張昭は、それと聞くや、すぐ彼の前に出て諫めた。
彼は、最初からの平和論者――というよりも自重主義の文治派であった。
「いま、赤壁の恥をそそがんと、曹操が日夜再軍備にかかっていることをお忘れですか。曹操がすぐにも大兵の再編成をして来ないのは、力がないからではありません。また、呉を怖れているからでもありません。呉と玄徳との聯合を怖れているのです。それを今もし呉が玄徳を攻め、両者の間に完全な戦争を生じれば、曹操は時機到来と、魏の全軍をあげて襲来しましょう」
「では、どうしたらいいか」
「それを如何にするかという問題より前に、しておかなければならない懸案があります」
「それは?」
「玄徳が曹操と和を結ばないように、処置を講じておくことです」
孫権はちょっと色を変えた。
「玄徳が――曹操と結ぶだろうか?」
「当然、ありうることでしょう。ありえないこととこちらが多寡を括っていればなおさら、その可能性は濃くなります」
「それは未然に警戒を要する」
「ですから――何よりもそれが当面の急です。てまえが思うには、この呉にも、曹操の隠密がかなり入りこんでいますから、すでにわが君が玄徳と面白からぬ感情にあることは、はや許都の曹操にも知れておりましょう。曹操は機を知ること誰よりも敏ですから、或いはもう使いを出して玄徳へ水を向けているかもしれません。早くなければなりません――この対策は」
「むむ。一朝、玄徳が魏と同盟するとなると、これは呉にとって、重大な脅威になる。――それをどう防ぐかだが、なんぞ、良策があるか」
「すぐにも都へ使いを上せ、朝廷へ表をささげて、玄徳を荊州の太守に封じるのが何よりと思いますが」
「…………」
孫権はおもしろくない顔をした。
張昭はたたみかけて、若い主君を喩した。
「すべて外交の計は苦節です隠忍です。玄徳に出世を与える。勿論、お嫌でたまらないでしょうが、その効果は大きい。何となればそれによって曹操は、呉と玄徳との間に破綻を見出すことができません。玄徳もまたそれに感じて呉を恨む念を忘れましょう。……かかる状態に一応現状を訂正しておいてから、呉としては、間諜を用いて徐々に曹操と玄徳との抗争をさそい、玄徳のそれに疲弊してきた頃を計って荊州を奪り上げてしまえばよいのです」
「敵地へ行って、そういう遠謀を巧みに植えつけるような間諜が、さし当って、おるだろうか」
「おります。平原の人で華欽、字を子魚という者。もと曹操に愛せられた男ですが、これを用いれば適役でしょう」
「呼べ。早速」
孫権は、その気になった。