この時の会戦では、司馬懿は全く一敗地にまみれ去ったものといえる。魏軍の損害もまたおびただしい。以来、渭水の陣営は、内に深く守って、ふたたび鳴りをひそめてしまった。
 孔明は、拠るところの祁山へ兵を収めたが、勝ち軍に驕るなかれと、かえって全軍を戒めていた。そしていよいよ初志の目標にむかい、長安洛陽へ一途進撃して、漢朝一統の大業を果さんものとかたく期していたが、ここに測らずも軍中の一些事から、やがて大きな蹉跌を来たすにいたった。
 後方の増産運輸に力を入れていた李厳が、永安城から前線へ兵糧を送らせて来た。その奉行は都尉苟安という男だったが、酒好きのため、途中でだいぶ遊興に日を怠り、日限を十日余りも遅れてやっと祁山に着いた。
「はて、なんと弁解しようか」
 当然な譴責を恐れて、苟安は途々考えてきたらしい。孔明の前に出ると白々しく云った。
渭水を挟んで大会戦が行われていると途中で聞き、万一大事な兵糧を敵方に奪われてはと存じ、わざと山中に蟄伏して、戦いのを終るのを待って再び出かけました。そんなわけでありまして」
 孔明はみなまで聞かず、叱って云った。
「兵糧は戦いの糧。運輸の役も戦いである。だのに、戦いを見て戦いを休めるというのは、すでに大なる怠りだ。しかも汝の言い訳は虚言に過ぎない。汝の皮膚は決して山野に蟄伏して雨を凌いできたものでなく、酒の脂に弛んでいる。すでに運輸に罰則あり、三日誤れば徒罪に処し、五日誤れば斬罪を加うべしとは、かねて明示してある通りだ。今さら、いかにことばを飾るも無用であろう」
 苟安の身はすぐ断刑の武士たちへ渡された。長史楊儀は、彼が斬られることになったと聞いて、大急ぎで孔明のところへ来て諫めた。
「ご立腹はもっともですが、苟安は李厳がたいへん重用している部下ですから、彼を処刑するときっと李厳がつむじを曲げましょう。いま蜀中から銭糧の資を醵出して戦力増加に当っているのは李厳その人ですから、その当事者と丞相との間に確執が生じては、戦力の上に大きな影響がないわけには参りません。どうかここは胸を撫でて苟安の死はゆるしてやっていただきたいと思いますが」
 孔明は沈黙したまま、熱い湯を呑むような顔をしていた。さきには、あれほど惜しんでいた馬謖をすら斬らせた程、軍律にはきびしい彼なのである。けれど今はそれをすら忍んだ。
「死罪はゆるす。しかし不問に付しておくわけにはゆかない。杖八十を加えて、将来を戒めておけ」
 楊儀は、彼の胸を察して、深く謝して退がった。
 苟安はそのために、八十杖のむちを打たれて、死をゆるされた。けれど彼は、楊儀の恩も、孔明の寛仁も思わなかった。反対に怒りをふくみ、深く孔明を恨んで、夜半に陣地を脱走してしまった。
 家来、五、六騎と共に、そっと渭水を越えて、魏軍へ投じてしまったのである。そして司馬懿の前にひざまずいてさんざんに孔明を悪くいった。
「至極もっともらしいが、急には信用いたし難い。なぜならばそれも孔明の計かも知れないからな」
 仲達は要心深く彼をながめて、
「もし真実、魏に仕えて、長くわが国に忠誠を誓う気なら、ひとつ大きな働きをして来給え。もしそれが成功したら我輩から魏帝へ奏して、足下自身も驚くような重職に推挙してやろうじゃないか」と云った。苟安は、再拝して、
「それはぜひやらせて下さい。こうなる上は何でもやります」と、いった。
 司馬懿は一策を彼に授けた。
 苟安は間もなく姿をかえて、蜀の成都へ入り込んだ。そして都中に諜報機関の巣をつくり、莫大な金を費って、ひたすら流言蜚語を放つことを任務としていた。この悪気流はたちまちその効をあらわし、蜀中の朝野は前線の孔明に対して、次第に正しく視る目を失ってきた。とかく邪視、疑惑で見るように傾いてきた。

 たれ云うとなく蜀宮中に、孔明はやがて漢中に一国を建て自らその主となる肚らしい、という風説が立ち始めた。
 甚だしきは、それにもっと尾鰭をつけて、
「彼の兵馬の権を以てすれば、この蜀を取ることだってできる。彼がしきりに蜀君の暗愚をなじったり怨言を撒いているのはその下心ではないか」
 などと流言してはばからぬ者すらあった。
 都下にも同じ声が行われたが、宮中の流言の出どころは内官であった。苟安に買収された徒が浅慮にも私利私慾に乗ぜられて、思うつぼへ落ちたものであった。
 この結果はやがて、蜀帝の勅使派遣となって具体化して来た。要するに帝の後主劉禅もまたついにうごかされたのである。すなわち、節を持たせて、前線に勅命を伝え、
 ――朕、大機の密あり、直々、丞相に問わん、即時、成都に還れ。
 と、召喚を発したのであった。
 命に接するや孔明は天を仰いで大いに哭き、落涙長嘆してやまなかったという。
「主上はまだ御年もいとけなくおわすがゆえ、おそらくは佞官のみだりなる言に惑わされたものであろう。いま戦況は我に有利に展開し、ようやく長安を臨む日も近からんとするときにこの事あるは、そも天意か、はた蜀の国運の未だ開けざる約束事か。――さりとて、もし勅にそむけば、佞人の輩はいよいよ我説を虚大に伝え、この身また君を欺く不忠の臣とならざるを得ない。しかも今ここを捨ててかえるときは、再びまた祁山へ出ることは難かろう。そのひまに魏の国防はいよいよ強化され、長安洛陽はついに不落のものとなるはいうまでもない」
 かく悶々たる痛涙はながしたが、大命ぜひなく、孔明は即日、大軍を引き払った。
 その際、姜維が憂えて、
司馬懿の追撃をいかにして防がれますか」と、いった。
 孔明は指令をさずけた。
「兵を五つ手に分け、それぞれ道を変えて退け。主力は、ここの陣を引くにあたり、兵一千をとどめて、二千の竃をほらせ、次の日退陣して宿る所には、また四千の竈跡を掘り残しておくがよい。かくて三日目の屯には六、七千。五日目の野営には一万と、退くに従って倍加してゆくのだ」
「むかし孫臏は、兵力を加えるたびに竈の数を減じて退却し、敵をあざむく計を用いて、龐涓を計って大勝を得たということを聞いていますが、いま丞相は反対に、兵を減じるたびに、竈の数をふやしておけと仰せあるのは、いかなるお考えですか」
孫臏の計を逆に行うに過ぎない。よく物を識っている人間を計るにはその人間の持っている知識の裏をゆくことも一策となる。――司馬懿もおそらく疑ってよく深追いをなし得ないだろう」
 かくて蜀軍は続々五路にわかれて引揚げを開始したが、孔明の予察どおり、司馬仲達は、蜀兵の埋伏をおそれて、敢然たる急追には出なかった。
 しかし、物見の報告によると、さして伏兵の計もないらしいとのことに、徐々、軍を進ませて、蜀の駐屯した後々を見てゆくと、その場所と日を重ねるに従って、竈の数が際立って増加している。竈の跡の多いのは当然、兵站の増量を示すものであるから、仲達はいちいちそれを検分して、
「さては、彼は、退くに従って殿軍の兵力を強化しているな、さまで戦意の昂い軍勢を、ただ退く敵と侮って追い討ちすれば、どんな反撃をうけるやも知れない」
 と、要心ぶかく考え、
「――苟安を成都へやって行わせた、わが計画はもう大効果を挙げている。その結果、かく孔明の召還となったものを、それ以上の慾を求むるまでもあるまい」
 と、大事をとって遂に追撃を下さずにしまった。
 ために、孔明は一騎も損じることなくこれほどの大兵の総引揚げを悠々なしとげたが、後、川口の旅人が、魏へ来て洩らした噂から、竃の数に孔明の智略があったこともやがて司馬懿の聞くところとなった。
 けれど司馬懿は悔やまなかった。
「――相手がほかの者では恥にもなるが、孔明の智略にかかるのは自分だって仕方がない。彼の智謀は元来自分などの及ぶところではないのだから」

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