この一戦

 その後、蜀の大軍は、白帝城もあふるるばかり駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練って、ひたすら南方と江北の動静をうかがっていた。
 ときに諜報があって、
「呉は魏へ急遽援軍を求めたらしいが、魏はただ呉王の位を孫権へ贈ったのみで、曹丕の態度は依然、中立を固持しています」と、伝えてきた。
「朕の予測に過たず、曹丕は漁夫の利を獲んとするのであろう。よし、さらば立て」
 帝玄徳は、断乎として、ここに初めて、帷幕から令を降した。
 ところへ、南蛮の沙摩柯が、蛮土の猛兵数万をしたがえて参加するし、洞渓の大将杜路、劉寧のふたりも手勢を挙げて加わったので、全軍の戦気すでに呉を呑み、水路の軍船は巫口(四川省・巫山)へ、陸路の軍は秭帰(湖北省・秭帰)あたりまで進出した。
 逆まく長江の波、頻々、伝わる上流の戦雲に対し、呉は、
 ――国難来る。
 と、異常な緊迫感に襲われつつも、一方、魏のうごきと睨み合せる心理を多分に持っていた。
 この際、他を恃むことの、いかに危険でまた愚かなことかを、孫権はすぐ覚った。魏は依然兵を出さない。
 ――で孫権はいよいよ一国対一国の大勝負を決意し、群臣にこれを諮ったが、閣議は粛然と無言の緊張を持つのみで、たれひとり自らこの一戦に当らんと意気を昂げる者もなかった。
 すると、一隅から起って、慨然とさけんだ者がある。
「君が千日兵を養い給うのは、ただ一日の用に備えんためである。僕はまだまだ黄口の若年ですが、こんな時こそ、日頃の机上の兵学を、この敵愾心と誠忠の心を以て、君に酬わんと思う者であります。どうか小生をまっ先に派遣してください」
 誰かと見れば、孫権の甥にあたる武衛都尉の孫桓だった。年歯わずか二十五歳の青年である。
「おお、わが甥か」
 孫権は眼ざしを注いで、いかにもよろこばしげに、彼の願いを許容した。
「そちの家には、李異と謝旌という万夫不当な勇将も二人養っているそうだ。大いによかろう、征って来い、なお副将には、老練な虎威将軍朱然をつけてやる」
 かくて呉軍五万は、宜都湖北省・宜都)までいそいだ。朱然は右都督、孫桓は左都督として、各〻二万五千を両翼に分って、蜀に対峙した。
 白帝城を出、秭帰を経、この宜都までのあいだ、蜀軍は進むところを席巻して、地方地方の帰降兵を収容し、ほとんど、颱風の前に草木もないような勢いだった。
「聞くならく呉の孫桓もまだ青眉の若武者だそうです。この第一陣には、それがしを出して、彼と戦わせて下さい」
 帝玄徳が敵をながめている日、関興はこう願い出た。
 さきに先陣を争って、喧嘩になりかけた例があるので、帝玄徳は、
「義弟の張苞もつれて行け」と、条件付きでゆるした。
 関羽の子、張飛の子、ふたりは勇躍して、手勢をわけ、まるで黒旋風の如く、呉軍のなかへ駈け入った。
 玄徳はすぐ馮習、張南の二大将を呼び、
「心もとない。いずれもかかる大戦に臨むのは初めての若者輩だ。すぐ強兵をすぐって彼らの後につづけ」
 と、命じた。
 結果は、実に蜀の大勝利となった。呉の大将孫桓も若いし初陣でもあったので、関興、張苞に完膚なきまで全陣地を蹂躙された。しかも左右の旗本とたのんでいた謝旌は張苞に討たれてしまうし、李異は矢にあたって逃げるところを、うしろから迫った関興のために、その大青龍刀で真っ二つにされてしまうという惨敗を蒙ったのであった。
 ただ、張苞はあまり深入りしたので、気がついて、引っ返そうとすると、関興の姿が見えない。もしやと、さらに敵中へ駈け入って、
「義兄。義兄よ」
 と声かぎり探していた。父関羽も父張飛も、ふたりの勇とこの情誼に、霊あらば地下で哭いていただろう。

 曠野に陽も落ちて、あたりが真っ暗になっても、まだ張苞は帰らない。関興も帰ってこない。
「きょうの戦は、味方の大捷」
 と、続々引き揚げてくる将士の声をきいても、帝玄徳はさらに歓ばない容子で、
「ふたりはどうしたか」と、野辺の陣に立って、ひたすら待ちこがれていた。
 ようやく、その二人は、馬を並べて引き揚げてきた。見れば一人の敵将を捕虜として連れている。呉でも有名な譚雄という猛者だった。これを追って生捕るために、関興は味方を遠く離れてしまい、やっと張苞に会って共に帰ってきたのだと、帝へ語った。
「どっちも、父の名を辱めない者だ」
 帝玄徳は二つの手で、二人の肩をたたいて賞めた。そして譚雄の首を刎ね、篝火を焚いて、人馬の魂魄をまつり、一同へ酒を賜った。
 序戦に大敗を喫したのみか、三人の大将まで討たれ、呉の孫桓は慚愧した。とりあえず陣を一歩退いて、
「この辱を雪がずんば」と、備えを立て直し、兵は多く損じても、戦意はいやが上にも熾烈だった。
 蜀軍は、徐々と次の戦機をうかがいながらも、
「あの意気では、ふたたび同じ戦法で行っても、先頃のような快勝はつかめまい」
 馮習、張南、張苞、関興、すべて同意見だったので、一計をめぐらし、ひそかに手配にかかった。
 呉の左翼たる陸軍は破れても、近き江岸にある右翼の水軍はまだ無傷だった。その江岸の哨戒隊がある日、蜀の一兵を捕えて、水軍の都督部へ引っぱって来た。
「どうして捕まったか」
「道に迷いましたので」
「何で味方の陣を離れてこんな所へ迷ってきたのだ」
「主人馮習の密命で、今夜、孫桓の陣へ火を放って、夜討ちをかけるから、昼の間に、附近へひそんでいろと、五十人ばかり出てきましたが、後から油を運んでくるあいだに、部隊の者とはぐれてしまったのです」
 この調べを、都督の朱然が聞いて、手を打ってよろこんだ。
「兵を陸へ揚げて、蜀軍が夜討ちに進む退路を断ち、逆に孫桓としめし合せて挟み撃ちにしてやろう」
 すぐ書簡をしたためて、使いを孫桓の陣へやった。
 ところが、その使いは、途中で待ち伏せしていた蜀の兵に斬られてしまった。これはまったく馮習や張南のめぐらした計略なので、未然に、使いの通るのを察していたためである。
 とも知らず、その夕方、朱然は大軍を船から上げて、すでに進もうとした。しかし大将崔禹は、
「どうも、少しおかしい。一士卒のことばを盲信して、これだけの行動を起すのは、ちと軽率です。都督にはやはり水軍を守ってここにいてください。それがしが行きますから」と注意した。
 朱然も、げにもと思い直し、自身は水軍にひかえて、崔禹に計をまかせ、一万足らずの兵をあずけた。
 案の如く、二更の頃、孫桓の陣に、猛烈な火の手が揚がった。火攻めのあることは、昼のうちに朱然から通じてあるものとしていたが、その使いが、その途中で斬られていることまでは崔禹も思い到らなかった。
「それ援けに行け」と、にわかに急ぐと、途中の森林や低地から待っていたとばかり伏兵が起った。張苞、関興ふた手の軍勢だった。
 崔禹は生捕られ、部下は大打撃をうけて、なだれ帰ってきた。朱然は周章して、その晩のうちに船手の総勢を、五、六十里ほど下へさげてしまった。
 一度ならず二度まで敗北した孫桓は、陣営ことごとく敵に焼かれて、無念のまなじりをあげながらやむなく夷陵の城(湖北省・宜都宜昌東北)へ退却した。
 蜀は仮借なくこれを追い込み、崔禹の首を刎ねて、いよいよ威を示した。そして序戦二回の大敗報は、やがて呉の建業城中を暗澹とさせた。
「王、さまで御心をいためることはありません。呉建国以来の名将はすでに世を辞して幾人もありませんが、なお用うべき良将は十余人ありましょう。まず甘寧をお招きなさい」
 宿老張昭は励ました。

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