諸葛氏一家
一
孔明の家、諸葛氏の子弟や一族は、のちに三国の蜀、呉、魏――それぞれの国にわかれて、おのおの重要な地位をしめ、また時代の一方をうごかしている関係上、ここでまず諸葛家の人々と、孔明そのものの為人を知っておくのも、決してむだではなかろうと思う。
が、何ぶんにも、千七百余年も前のことである。孔明の家系やその周囲については、正確にわからない点も多分にある。
ほぼ明瞭なのは、さきに徐庶が玄徳へも告げているように、その祖先に、諸葛豊という人があったということ。
また、その諸葛豊は、前漢の元帝の頃、時の司隷校尉の役にあり、非常に剛直な性で、法律にしたがわない輩は、どんな特権階級でも、容赦しなかった警視総監らしい。
それを証するに足るこんなはなしがある。
元帝の外戚にあたる者で、許章という寵臣があった。これが国法の外の振舞いをしてしかたがない。諸葛豊は、その不法行為をにらんで、
「いつかは」と、法の威厳を示すべく誓っていたところ、或る折、またまた、国法をみだして、恬としてかえりみないような一事件があった。
「断じて、縛る」と、警視総監みずから、部下をひきつれて捕縛に向った。ちょうど許章は宮門から出てきたところだったが、豊総監のすがたを見て、あわてて禁門の中へかくれこんでしまった。
そして、彼は、天子の寵をたのみ、袞龍の袖にかくれて哀訴した。しかも、豊は国法の曲ぐべからざることを説いてゆるさなかったので、天子はかえって彼を憎み、彼の官職をとり上げて、城門の校尉という一警手に左遷してしまった。
それでも、彼はなお、しばしば怪しからぬ大官の罪をただして仮借しなかったため、ついにそういう大官連から排撃されて、やがて免職をいい渡され、ぜひなく郷土に老骨をさげて、一庶民に帰してしまった人だとある。
その祖先の帰郷した地が、瑯琊であったかどうか明瞭でないが――孔明の父、諸葛珪のいた頃は、正しく今の山東省――瑯琊郡の諸城県から陽都(沂水の南)に移って一家をかためていた。
諸葛という姓は初めは「葛」という一字姓だったかも知れない。諸国を通じての漢人中にも、二字姓は至ってまれである。
もとは単に「葛氏」であったが、諸城県から陽都へ家を移した時、陽都の城中にはばかる同姓の家がらがあったので、前の住地の諸城県の諸をかぶせ、以来「諸葛」という二字姓に改めたという説などもある。
孔明の父珪は、泰山の郡丞をつとめ、叔父の玄は、予章の太守であった。まずその頃も、家庭は相当に良かったといっていい。
兄妹は四人あった。
三人は男で、ひとりは女子である。孔明はその男のうちの二番目――次男であった。
兄の瑾は、早くから洛陽の大学へ入って、遊学していた。
そのあいだに彼の生母はこの世を去った。父には後妻がきた。
ところが、その後妻をのこして、こんどは彼らの父の珪が死去したのである。孔明はまだ十四歳になるかならない頃であった。
「どうしよう?」
腹ちがいの子三人の幼い者を擁して、後妻の章氏も途方にくれていた。
ところへ、大学をほぼ卒業した長男の瑾が、洛陽から帰ってきた。
そして洛陽の大乱を告げた。
「これから先、世の中はまだまだどんなに混乱するかわかりません。黄巾の乱は諸州の乱となり、とうとう洛陽まで火は移ってきました。この北支の天地も、やがて戦乱の巷でしょう。ひとまず南のほうへ逃げましょう。江東(揚子江流域、上海、南京地方)の叔父さんを頼って行きましょう」
瑾は義母を励ました。
この長男も世の秀才型に似あわず至って謹直で、よく継母に仕えその孝養ぶりは、生みの母に仕えるのと少しも変りはないと、世間の褒められ者であった。
二
戦乱があれば、戦乱のない地方へ、洪水や飢饉があれば、災害のなかった地方へ――大陸の広さにまかせて、大陸の民は、流離漂泊に馴れている。
「南へ行きましょう」と、諸葛氏の一家が、北支から避難したときも、黄巾の乱後の社会混乱が、どこまでつづくか見通しもつかなかった頃なので、
「南へ」
「南の国へ」と、北支や山東の農民は、水の低きへつくように、各〻、世帯道具や足弱を負って、江東地方(揚子江の下流域、南京、上海)へ逃散して行くものが大変な数にのぼっていた。
まだ十三、四歳でしかない孔明の眼にも、このあわれな流離の群れ、飢民の群れの生活が、ふかく少年の清純なたましいに、
(――あわれな人々)として烙きついていたにちがいない。
(どうして、人間の群れは、こんなにみじめなのか。苦しむために生れたのか。……もっと、生を楽しめないのか)
そんなことも考えたであろう。
いや、もう十三、四歳といえば、史書、経書も読んでいたであろうから、
(こんなはずではない。この世の中のうえに、ひとりの偉人が出れば、この無数の民は、こんなおどおどした眼や、痩せこけた顔を持たないでもいいのだ。――天に日月があるように、人の中にも日月がなければならないのに、そういう大きな人があらわれないから、小人同士が、人間の悪い性質ばかり出しあって、世の中を混乱させているのだ。――かわいそうなのは、何も知らないで果てなく大陸をうろうろしている何億という百姓だ)
と、いう程度の考えは、もう少年孔明の胸に、人知れず醗酵していたにちがいない。
なぜならば、彼の一家も、大学を卒業したばかりの兄の瑾ひとりを杖とも柱とも頼み、家財道具と継母とを車に乗せて、孔明の弟の均や妹たちを励ましながら――わずかな奴僕らに守られつつ、それらの飢民の群れにまじって、毎日毎日曠野や河ばかりの果てなき旅をつづけている境遇にあったからである。
旅は苦しい。つらい。
いやしばしば生命の危険すらあった。また大自然の暴威――大陸の砂塵や豪雨や炎熱にも虐げられ、野獣、毒虫の恐怖にも襲われた。
二十歳だいの長男。まだ十三、四歳の孔明。その下の弟妹たちは、このあいだにこそ、たしかに大きな「生きぬく力」を学んだにちがいない。
それは、流離の土民の子も、同じように通ってきた錬成の道場だったが、出す素質がなければ艱難はただ意味なき艱難でしかない。――幸いにも、諸葛家の子たちには、天与の艱難を後に生かす質があった。
――かくて、ようやく。
叔父の諸葛玄を頼って、そこへたどりついたのが、初平四年の秋――ちょうど長安の都で、董卓が殺された大乱の翌年であった。
そこへ、半年ほどいるうち、叔父の玄は、劉表の縁故があるので、荊州へゆくことになった。
孔明と、弟の均とは、叔父の家族とともに、荊州へ移住したが――それを機に、長男瑾は別れを告げて、
「わたくしも何か、一家の計を立てますから」
と、継母の章氏を伴って、暮帆遠く、江を南に下って、呉の地方へ、志を求めて行った。
三
当時すでに、想いを将来に馳する若人にも、南方支那の開発こそ、好個の題目として、理想の瞳に燃え映っていたにちがいない。
北支の戦禍を避けて、南へ南へ移住してくる漢民族は、その天産と広い沃地へわかれて、たちまち新しい営みをし始めていた。
流民の大部分は、もとより奴婢土民が主であったが、その中には、諸葛氏一家のような士大夫や学者などの知識階級もたくさんいた。彼らは、おのおの、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行った。
その分布は。
南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。
継母をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下ったのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といっていい。
そして、やがてそれから七年目。
呉の孫策が没した年、継いで呉主として立った孫権に見出されて、それに仕える身となったことはさきに書いたとおりである。
けれど一方――叔父の玄やその家族につれられて荊州へ移った孔明と末弟の均の方は、そのときこそ、保護者の手で安全な方向を選ばれたかのように思われたが、以後の運命は、兄の瑾と相反していた。世路の波瀾は、はやくも少年孔明を鍛えるべく、試すべくあらゆる形で襲ってきた。
「荊州は、大きな都だよ。おまえたちの見たこともない物がたくさんにある。叔父さまは荊州の劉表さまとお友だちで、ぜひ来てくれとお招きをうけて今度行くんだから、都の中に、お城のようなお住居を持つんだよ。おまえ達も、大勢の家来から、若さまといわれるのだから、品行をよくしなければいけませんよ」
叔母や叔父の身寄りから、そんな前ぶれを聞かされて、少年孔明の胸はどんなにおどったことだろう。
そして、荊州の文化に、如何に眼をみはったことか。
ところが、居ることわずか一年足らずで、叔父の玄はまた、劉表の命で、
「予章を治めてくれ。いままでやっておった周術が病死したから」
と、その後任に、転任をいい渡された。
こんどは、太守の格である。栄転にはちがいないが、任地の南昌へ行ってみると、ずっと文化は低いし、土地には、新任の太守に服さない勢力が交錯しているし――もっと困った問題は、
「彼は、漢の朝廷から任命された太守ではないんだ。われわれはそういう朦朧地方官に服する理由をもたない」と、弾劾する声の日にまして高くなってきたことである。事実、中央からは、漢朝の辞令をおびた朱皓というものが、公然任地へ向ってきたが、もう先に、べつな太守がきて坐っているため、城内へ入ることができなかった。
当然、戦争になった。
(おれが予章の大守だ)
(いや、おれのほうこそ正当な太守だ)
という変った戦いである。
朱皓のほうには、窄融だの劉繇などという豪族が尻押しについたので、玄はたちまち敗戦に陥り、南昌の城から追いだされてしまった。
少年の孔明や弟の均は、このとき初めて、戦争を身に知った。
叔父の一家とともに、乱軍のなかを落ちて、城外遠くに屯して、再起を計っていたが、或る夜、土民の反乱に襲われて、叔父の玄は、武運つたなく、土民たちの手にかかって首を取られてしまった。
孔明は、弟の均を励ましつつ、みじめな敗兵と一緒に逃げあるいた。――叔母も身寄りもみな殺されて知らない顔の兵ばかりだった。
四
その頃、潁川の大儒石韜は、諸州を遊歴して荊州にきていた。
由来、荊州襄陽の地には、好学の風が高く、古い儒学に対して、新しい解義が追求され、現下の軍事、法律、文化などの政治上に学説の実現を計ろうとする意図が旺であった。
林泉あるところ百禽集まるで、自然、この地方に風を慕ってくる学徒や名士が多かった。潁上の徐庶、汝南の孟建なども、その輩だった。
叔父の玄を亡い、頼る者とてなく、年少早くも世路の辛酸をなめつつあった孔明が初めて、石韜の門をくぐって、
「学僕にして下さい」と、訪れたのは、彼が十七の頃だった。
石韜は翌年、近国へ遊学にあるいた。その時、師に従って行った弟子のなかに、白面十八の孔明があり、一剣天下を治むの概をもつ徐庶があり、また温厚篤学な孟建がいた。
だから孟建や徐庶は、孔明より年もずっと上だし、学問の上でも先輩であったが、ふたりとも決して、孔明をあなどらなかった。
「あれは将来、ひとかどになる秀才だ」
と、早くも属目していたのである。ところがそれは二人の大きな認識不足だった。
なぜならば、その後の孔明というものは、ひとかどどころではなかった。石韜をめぐる多くの学徒の中にあって、断然群を抜いていたし、その人物も、年とるほど、天質をあらわして、いわゆる世間なみの秀才などとは、まったく型がちがっていた。
だが彼は、二十歳を出るか出ないうちに、もう学府を去っていた。学問のためにのみ学問する学徒の無能や、論議のために論議のみして日を暮している曲学阿世の仲間から逃げたのである。
では、それからの彼は、どうしていたかというと、襄陽の西郊にかくれて、弟の均と共に、半農半学者的な生活に入ってしまったのだった。
晴耕雨読――その文字どおりに。
「いやに、老成ぶったやつではないか」
「いまから隠棲生活を気どるなんて」
「彼は、形式主義者だ」
「衒いに過ぎん」
学友はみな嘲笑した。多少彼を認め彼を尊敬していた者まで、月日とともにことごとく彼を離れた。
ただ、その後も相かわらず、彼の草廬へよく往来していたのは、徐庶、孟建ぐらいなものだった。
襄陽の市街から孔明の家のある隆中へ行くには、郊外の道をわずか二十里(わが二里)ぐらいしかない。
隆中は山紫水明の別天地といっていい。遠く湖北省の高地からくる漢水の流れが、桐柏山脈に折れ、※水に合し、中部支那の平原をうねって、名も沔水と変ってくると、その西南の岸に、襄陽を中心とした古い都市がある。
孔明の家から、晴れた日は、その流れ、その市街がひと目に見えた。彼の宅地は隆中の小高い丘陵の中腹にあり、家のうしろには、楽山とよぶ山があった。
――歩みて斉の城門を出づ
遥かにのぞむ蕩陰里
里中、三墳、塁として相似たり
問うこれ、誰が家の塚ぞ
田疆・古冶氏
力はよく南山を排し
文はよく地紀を絶つ
畑の中で、真昼、よくこんな歌が聞える。
歌はこの辺の民謡でなく、山東地方の古い昔語りをうたうものだった。
孔明の故郷――斉国の史歌である。
声の主は、鍬をもって畑を打つ孔明か、豆を苅って、莢を莚に叩く弟の均であった。
五
隆中の彼の住居へ、或る日、友人の孟建が、ぶらりと訪ねてきて云った。
「近日、故郷へ帰ろうと思う。きょうはお別れにやって来た」
孔明は、そういう先輩の面を、しばらく無言で見まもっていたが、
「なぜ帰るのです?」と、さも不審そうに訊いた。
「なぜということもないが、襄陽はあまりに平和すぎて、名門名族の士が、学問に遊んだり政治批評を楽しんで生活しておるにはいいかも知れんが、われわれ書生には適さない所だ。そのせいか、近頃しきりと故郷の汝南が恋しくなった。退屈病を癒しに帰ろうと思うのさ」
聞くと、孔明は、静かに顔を横に振って、
「こんな短い人生を、まだ半途も歩まないうちに、君はもう退屈しているのか。襄陽は平和すぎるといわれるが、いったいこの無事が百年も続くと思っているのかしら? ――ことに、君の郷里たる中国(北支)こそ、旧来の門閥は多いし、官吏士大夫の候補者はうようよしているから、何の背景もない新人を容れる余地は少ない。むしろ南方の新天地に悠々時を待つべきではないかな」
と、いって止めた。
孟建は孔明よりも年上だし、学問の先輩でもあったが大いに啓蒙されて、
「いや、思い止まろう。なるほど君のいう通りだ。人間はすぐ眼前の状態だけにとらわれるからいかんな。――閑に居て動を観、無事に居て変に備えるのは難かしいね」と、述懐して帰った。
孟建などが噂するせいか、襄陽の名士のあいだには、いつか、孔明の存在とその人物は、無言のうちに認められていた。
いわゆる襄陽名士なる知識階級の一群には、崔州平、司馬徽、龐徳公などという大先輩がいたし、中でも河南の名士黄承彦はすっかり孔明を見込んで、
「自分にも娘があるが、もし自分が女だったら隆中の一青年に嫁ぐだろう」とまでいっていた。
するとまた、ぜひ媒酌しようという者が出てきて、黄承彦のことばは、ついに実現した。――といっても、勿論、黄承彦が嫁入りするわけはない。孔明へ嫁いだのは、その娘である。
ところが花嫁は、父の黄承彦の顔を、もう少し可愛らしくした程度の不美人であった。貞淑温雅で、名門の子女としての教養は申し分なくあるが、天質の容姿は至って恵まれていなかった。
「瓜田の変屈子には、お似合いの花嫁さま――」
と、孔明を無能の青年としか見ていない仲間は、ひどく興がってよろこんだ。
しかし、孔明とその新妻とは、実にぴったりしていた。相性というか、琴瑟相和してという文字どおり仲がよい。
かくて彼の隆中における生活もここ数年を実に平和に過してきた。
六
彼の身丈は、人なみすぐれていた。肉はうすく、漢人特有な白皙長身であった。
その長い膝を抱えて、居眠るごとく、或る日、孔明は友達の中にいた。
彼をめぐる道友たちは、各〻、時局を談じ、将来の志を語りあっていた。
孔明は、微笑しながら、黙々とそれを聞いていたが、
「そうだ、君がたが、こぞって官界へ出て行けば、きっと刺史(州の知事)か郡守(郡の長官、即ち太守)ぐらいには登れるだろう」と、いった。
友の一名が、すぐ反問した。
「じゃあ、君は。――君はどんなところまでなれるつもりか」
「僕か」
笑而不答――孔明はにやにやしていたきりであった。
彼の志は、そんな所にあるのではなかった。官吏、学者、栄達の門、みな彼の志を入れるにはせまかった。
春秋の宰相管仲、戦国の名将軍楽毅、こうふたりを心に併せ持って、ひそかに、
(わが文武の才幹は、まさにこの二人に比すべし)
と、独り矜持を高くもっていたのである。
楽毅は春秋戦国の世に、燕の昭王をたすけて、五国の兵馬を指揮し、斉の七十余城を陥したという武人。――また管仲は、斉の桓公を輔佐して、富国強兵政策をとり、春秋列国のなかに、ついに覇を称えしめて、その主君桓公から、一にも仲父(管仲の称)二にも仲父とたのまれたほどな大政治家である。
いまは、時あたかも、春秋戦国の頃にも劣らぬ乱世ではないか。
若い孔明は、そう観ている。
管仲、楽毅、いま何処にありや! と。
また彼は想う。
「自分をおいてはない。不敏といえども、それに比すものは自分以外の誰がいよう」
不断の修養を怠らなかった。
世を愛するために、身を愛した。世を思うために、自分を励ました。
口にこそ出さないが、膝を抱えて、黙然、うそぶいている若い孔明の眸にはそういう気概が、ひそんでいた。
時にまた、彼は、家の裏の楽山へ登って行って、渺々際涯なき大陸を終日ながめていた。
すでに、兄の瑾は呉に仕え、その呉主孫権の勢いは、南方に赫々たるものがある。
北雲の天は、相かわらず晦い。袁紹は死し、曹操の威は震雷している。――が、果たして、旧土の亡民は、心からその威に服しているかどうか。
益州――巴蜀の奥地は、なおまだ颱風の圏外にあるかのごとく、茫々の密雲にとざされているが、長江の水は、そこから流れてくるものである。
水源、いつまで、無事でいよう。かならずや、群魚の銀鱗が、そこへさかのぼる日の近いことは、分りきっている。
「ああ、こう観ていると、自分のいる位置は、まさに呉、蜀、魏の三つに分れた地線の交叉している真ん中にいる。荊州はまさに大陸の中央である……が、ここにいま誰が時代の中枢をつかんでいるか。劉表はすでに、次代の人物ではないし、学林官海、ともに大器と見ゆるひともない。……突としてここに宇宙からおり立つ神人はないか。忽として、地から湧いて立つ英傑はないか」
やがて、日が暮れると、若い孔明は、梁父の歌を微吟しながら、わが家の灯を見ながら山をおりて行く――。
歳月のながれは早い。いつか建安十二年、孔明は二十七歳となっていた。
劉備玄徳が、徐庶から彼のうわさを聞いて、その草廬を訪う日を心がけていたのは、実に、この年の秋もはや暮れなんとしている頃であったのである。