野に真人あり
一
亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。
審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。
「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」
冀州の城北に、墳を建て、彼は手厚く祠られた。
建安九年の秋七月、さしもの強大な河北もここに亡んだ。冀州の本城には、曹操の軍馬が充満した。
曹操の嫡子曹丕は、この時年十八で、父の戦に参加していたが、敵の本城が陥るとすぐ随身の兵をつれて城門の内へ入ろうとした。
当然、落城の直後とて、そこは遮断されている。番の兵卒が、
「待てっ、どこへ行くか。――丞相のご命令だ。まだ何者でも、ここを通ってはならん」
と、さえぎった。
すると曹丕の随臣は、「御曹司のお顔を知らんか」と、あべこべに叱りとばした。
城内はまだ余燼濛々と煙っている。曹丕は万一、残兵でも飛びだしたらと、剣を払って、片手にひっさげながら、物珍しげに、諸所くまなく見て歩いていた。
すると、後堂のほの暗い片隅に、一夫人がその娘らしい者を抱いてすくんでいた。紅の光が眼をかすめた。珠や金釵が泣きふるえているのである。
「――誰だっ?」
曹丕も足をすくめた。
かすかな声で、
「妾は、袁紹の後室劉夫人です。むすめは、次男の袁煕の妻……」
と、眸に、憐れを乞うように告げた。
なお問うと、袁煕は遠くへ逃げたという。――曹丕はつと寄って、むすめの前髪をあげて見た。そして自分の錦袍の袖で、娘の容顔をふいてやった。
「ああ! これは夜光の珠だ」
曹丕は、剣を拾いとって、舞わんばかりに狂喜した。そして自分は曹操の嫡男であると二女に明かして、
「助けてやる! きっと一命は守ってやる! もう慄えなくともいい」と云いわたした。
その時、父の曹操は、威武堂々、ここへ入城にかかっていた。すると、彼の郷里の旧友で、黄河の戦いから寝返りしてついていた例の許攸が、いきなり前列へ躍りだして、
「いかに阿瞞。もしこの許攸が、黄河で計を授けなかったら、いくら君でも、今日この入城はできなかっただろう」
と、鼻高々、鞭をあげて、いいつけられもしないのに一鼓六足の指揮をした。
曹操は非常に笑って、
「そうだそうだ。君のいう通りである」と、彼の得意をなお煽った。
城門からやがて府門へ通るとき、曹操は何かで知ったとみえ、番兵に詰問した。
「予の前に、ここを通過した者は誰だ! 何奴か!」
番の将士は戦慄して、
「世子でいらせられます」
と、ありのまま答えると、曹操は激色すさまじく、
「わが世子たりとも軍法をみだすにおいては、断乎免じ難い。荀攸、郭嘉、其方どもはすぐ曹丕を召捕ってこい。斬らねばならん」
郭嘉は諫めて、世子でなくて誰がよく城中を踏み鎮めましょうといった。曹操は救われたように、
「むむ、それも一理ある」
と不問に付して馬をおり、階を鳴らして閣内へ通った。
劉夫人は、彼の脚下に拝して、曹丕の温情を嬉し泣きしながら告げた。曹操はふと、娘の甄氏を見て、その天麗の美質に愕きながら、
「なに。曹丕が。そんな優しい情を示したというか。それは怖らくこの娘が嫁に欲しいからだ。曹丕の恩賞には、これ一つで足りよう。他愛のないやつではある」
粋な父の丞相は、冀州陣の行賞として、甄氏を彼に賜わった。
二
冀州攻略もひとまず片づくと、曹操は第一着手に、袁紹と袁家累代の墳墓を祠った。
その時、彼は亡家の墓に焚香しながら、
「むかし洛陽で、共に快談をまじえた頃、袁紹は河北の富強に拠って、大いに南を図らんといい、自分は徒手空拳をもって、天下の新人を糾合し、時代の革新を策さんといい、大いに笑ったこともあったが、それも今は昔語りとなってしまった……」と述懐して涙を流した。
勝者の手向けた一掬の涙は、またよく敵国の人心を収攬した。人民にはその年の年貢をゆるし、旧藩の文官や賢才は余さずこれを自己の陣営に用い、土木農田の復興に力をそそがせた。
府堂の出入りは日ごと頻繁を加えた。一日、許褚は馬に乗って東門から入ろうとした。すると例の許攸がそこに立っていて、
「おい、許褚。ばかに大きな面をして通るじゃないか。はばかりながらかくいう許攸がいなかったら、君らがこの城門を往来する日はなかったのだぜ。おれの姿を見たら礼儀ぐらいして通ったらどうだ」と、広言を吐いた。
いつぞや曹操が入城する時も、同様な高慢を云いちらして、諸将が顰蹙していたのを思い出して、許褚はぐっと持ち前の癇癪を面上にみなぎらせた。
「匹夫っ。わきへ寄れ!」
「なに。おれを匹夫だと」
「小人の小功に誇るほど、小耳にうるさいものはない。往来の妨げなすと蹴ころすぞ」
「蹴ころしてみろ」
「造作もないことだ」
まさかとたかをくくっていると、許褚はほんとに馬の蹄をあげて、許攸の上へのしかかってきた。
それのみか、とっさに剣を抜いて、許攸の首を斬り飛ばし、すぐ府堂へ行って、この由を曹操へ訴えた。
曹操は、聞くと、瞑目して、しばらく黙っていたが、
「彼は、馭しがたい小人にはちがいないが、自分とは幼少からの朋友だ。しかもたしかに功はある者。それを私憤にまかせてみだりに斬り殺したのは怪しからん」
と、許褚を叱って、七日の間、謹慎すべしと命じた。
許褚が退くと、入れ代りに、一名の高士が、礼篤く案内されてきた。河東武城の隠士、崔琰であった。
先頃から家へ使いを派して、曹操は再三この人を迎えていたのである。なぜならば、冀州国中の民数戸籍を正すには、どうしても崔琰に諮問しなければ整理ができなかったからである。
崔琰は乱雑な民簿をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資に供えた。
曹操は、彼を別駕従事の官職に封じ、一面、袁紹の子息や冀州の残党が落ちのびて行った先の消息も怠らず探らせていた。
その後、長男の袁譚は、甘陵、安平、渤海、河間(河北省)などの諸地方を荒らして、追々、兵力をあつめ、三男袁尚が中山(河北省・保定)にいたのを攻めて、これを奪った。
袁尚は中山から逃げて、幽州へ去った。ここに二男袁煕がいたので、二弟合流して長兄を防ぐ一面、
「亡父の領地を奪りかえさねば」と、弓矢を研いで、冀州の曹操を遠くうかがっていた。
曹操は、それを知って、試みに袁譚を招いた。袁譚は気味悪がって、再三の招きにもかかわらず出向かずにいた。
口実ができた。――曹操はすぐ断交の書を送って、大軍をさし向けた。袁譚は怖れて、たちまち中山も捨て平原も捨て、ついに劉表へ使いを送って、
「急を救い給われ」と、彼の義心を仰いだ。
劉表は、使いを返してから、玄徳にこれを計った。玄徳は、袁兄弟がみな、日ならずして曹操に征伐される運命にある旨を予言して、
「まあ、見て見ぬ振りしておいでなさい。他人事よりは、ご自身の国防は大丈夫ですか」
と、注意をうながした。
三
荊州へ頼ろうとしたが、劉表から態よく拒否された袁譚は、ぜひなく南皮(河北省南皮)へ落ちて行った。
建安十年の正月。曹操の大軍は氷河雪原を越えて、ここに迫った。
南皮城の八門をとざし、壁上に弩弓を植え並べ、濠には逆茂木を結って、城兵の守りはすこぶる堅かったが、襲せては返し、襲せては返し、昼夜新手を変えて猛攻する曹軍の根気よさに、袁譚は夜も眠られず、心身ともに疲れてしまった。
その上、大将彭安が討たれたので、辛評を使いとして、降伏を申し出た。
曹操は、降使へいった。
「其方は、早くから予に仕えておる辛毘の兄ではないか。予の陣中に留まって、弟と共に勲しを立て、将来、大いに家名をあげたらどうだ」
「古語にいう。――主貴ケレバ臣栄エ、主憂ウル時ハ臣辱メラルと。弟には弟の主君あり、私には私の主君がありますから」
辛評は空しく帰った。降をゆるすとも許さぬとも、曹操はそれに触れないのだ。いうまでもなく、曹操はすでに冀州を奪ったので、袁譚を生かしておくことは好まないのである。
「和議は望めません。所詮、決戦のほかございますまい」
ありのままを、辛評が告げると、袁譚は彼の使いに不満を示して、
「ああそうか。そちの弟は、すでに曹操の身内だからな。その兄を講和の使いにやったのはわしのあやまりだったよ」
と、ひがみッぽく云った。
「こは、心外なおことばを!」
一声、気を激して、恨めしげに叫ぶと、辛評は、地に仆れて昏絶したまま、息が絶えてしまった。
袁譚はひどく後侮して、郭図に善後策をはかった。郭図は強気で、
「なんの、彭安が討たれても、なお名を惜しむ大将は数名います。それと南皮の百姓をすべて徴兵し、死物狂いとなって、防ぎ戦えば、敵は極寒の天地にさらされている遠征の窮兵、勝てぬということがあるものですか」と、励まして、大決戦の用意にかかった。
突如、城の全兵力は、四方を開いて攻勢に出てきた。雪にうずもれた曹軍の陣所を猛襲したのである。そして民家を焼き、柵門を焼き立て、あらゆる手段で、曹軍を掻きみだした。
飛雪を浴びて、駆けちがう万騎の蹄、弩弓のうなり、鉄箭のさけび、戛々と鳴る戟、鏘々火を降らしあう剣また剣、槍はくだけ、旗は裂け、人畜一つ喚きの中に、屍は山をなし、血は雪を割って河となした。
一時、曹軍はまったく潰乱に墜ちたが、曹洪、楽進などがよく戦って喰い止め、ついに大勢をもり返して、城兵をひた押しに濠ぎわまで追いつめた。
曹洪は、雑兵には目もくれず、乱軍を疾駆して、ひたすら袁譚の姿をさがしていたが、とうとう目的の一騎を見つけ、名乗りかけて、馬上のまま、重ね打ちに斬り下げた。
「袁譚の首を挙げたぞ。曹洪、袁譚の首を打ったり」
という声が、飈々、吹雪のように駆けめぐると、城兵はわっと戦意を失って、城門の橋を逃げ争って駆けこんだ。
その中に、郭図の姿があった。曹軍の楽進は、
「あれをこそ!」
と、目をつけ、近々、追いかけて呼びとめたが、雪崩れ打つ敵味方の兵にさえぎられて寄りつけないので、腰の鉄弓をといて、やにわに一矢をつがえ、人波の上からぴゅっと弦を切った。
矢は、郭図の首すじをつらぬき、鞍の上からもんどり打って、五体は、濠の中へ落ち込んで行った。楽進は首を取って、槍先にかざし、
「郭図亡し、袁譚亡し、城兵ども、何をあてに戦うか」と声かぎりに叫んだ。
南皮一城もここに滅ぶと、やがて附近にある黒山の強盗張燕だとか、冀州の旧臣の焦触、張南などという輩も、それぞれ五千、一万と手下を連れて、続々、降伏を誓いに出てくる者が、毎日ひきもきらぬほどだった。
四
楽進、李典の二手に、降将の張燕を加えて、新たに十万騎の大隊が編制されると、
「并州へ入って、高幹に止めを刺せ」と、曹操はそれに命令を下した。
そして自身はなお幽州へ進攻して、袁煕、袁尚のふたりを誅伐すべく準備に怠りなかったが、その間にまず袁譚の首を、城の北門に梟けて、
「これを見て歎く者があれば、その三族を罰すであろう」と、郡県にあまねく布令た。
ところが或る日、布冠をいただいて、黒い喪服を着た一処士が番の兵に捕まって、府堂へ引っ立てられてきた。
「丞相のお布令にもかかわらず、こやつは袁譚の首を拝し、獄門の下で慟哭しておりました」というのである。
人品の常ならぬのを見て、曹操は自身で糺した。
「汝はどこの何者か」
「北海営陵(山東省・濰県)の生れ王修、字を叔治という者です」
「郡県の高札を見ていないのか」
「眼は病んでおりません」
「しからば、自身のみならず、罪三族に及ぶことも承知だろうな」
「歓びを歓び、悲しみを悲しむ、これ人間の自然で、どうにもなりません」
「汝の前身、何していたか」
「青州の別駕を務め、故袁紹の大恩をうけた者です」
「わが前で口をはばからぬ奴。小気味のいい云い方だ。しかしその大恩をうけた袁紹となぜ離れていたか」
「諫言をすすめて、主君に容れられず、政務に忠ならんとして、朋人に讒せられ、職を退いて、野に流れ住むこと三年になるが、何とて、故主の恩を忘れ得ましょうや。いま国亡んで、嫡子の御首を市に見、哭くまいとしても、哭かずにはいられません。――もしこの上、あの首を私に賜わり、篤く葬ることをお許し下さるなら、身の一命はおろか、三族を罪せられようとも、お恨みはつかまつりません」
王修ははばかる色なくそういった。
どんなに怒るかと思いのほか、曹操は堂中の諸士をかえりみて、嘆久しゅうした。
「この河北には、どうして、かくも忠義な士が多いのか。思うに袁紹は、こういう真人を用いず、可惜、野へ追いやって、ついに国を失ってしまったのだ」
即ち、彼は王修の乞いを許し、その上、司金中郎将に封じて、上賓の礼を与えた。
幽州(冀東)の方面では、早くも、曹軍の襲来を伝えて、大混乱を起していた。
所詮、かなわぬ敵と怖れて、袁尚はいち早く、遼西(熱河地方)へさして逃げのび、州の別駕、韓珩一族は、城を開いて、曹操に降った。
曹操は、降を容れ、韓珩を鎮北将軍に任じて、さらに、并州面の戦況を案じ、みずから大兵を率いて、楽進、李典などの加勢におもむいた。
袁紹の甥高幹は、并州の壺関(河北省境)を死守して、なお陥ちずにあった。
すると、わずか数十騎をつれた二人の大将が、城門まぢかまで来て、
「高君、高君。開け給え」と、救いを呼んでいた。
高幹が櫓から見おろすと、旧友の呂曠と呂翔だった。
ふたりが大声でいうには、
「一度は故主にそむいて、曹操に降ったが、やはり降人あつかいされて、ろくな待遇はしてくれない。もと木に勝るうら木なしだ。今後は協力して曹操に当らん。旧誼を思い出し給え」
高幹は、なお疑って、兵は門外にとどめ、二人だけを城中に迎え入れた。
「曹操はたったいま幽州から着いたばかりだ。今夜、討って出ればまだ陣容もととのわず遠路の疲れもある。きっと勝てる」
浅慮にも、高幹は、二人の策に乗ってしまった。堅城壺関も、その夜ついに陥落し、高幹は命からがら北狄の境をこえて、胡の左賢王を頼って行ったが、途中家来の者に刺し殺されてしまった。