一股傷折

 張郃の言葉を不服そうに聞いていた夏侯淵は、自分の決意はまげられぬというように、
「予がこの地を守り、陣をなすこと久しい。この度の決戦に、万一他の将に功を奪わるるが如きことあらば、なんの面目あって魏王に見えん。御身、よろしくこの所を守り給え、予は山を下りて、決戦せん」と云いきって、さて、
「誰ぞ、制先の勢となって、敵の様子をうかがい来れ」
 と下知すれば、夏侯尚は勇んで立ち、
「それがし、先鋒となって進みましょう」
「うむ、汝先陣となるか。されば黄忠と鋒を交え、詐り負けて退却せよ、われに深き計あれば、必ず黄忠を擒にして見せよう」と勇み励ました。
 夏侯尚は命の通り、三千余騎を率いて山を下って行った。
 その頃、黄忠は兵を従えて、法正とともに、定軍山の麓まで押し寄せ、数度となく攻め挑んだが、魏の軍は固く閉じて現れないため、直ぐにも攻め上ろうとの試みも、山道はなかなか嶮岨であるし、或いは敵に思わぬ計もあるかも知れぬと警戒して、山麓に陣を布き、随所に斥候の兵を出した。
 間もなく、その斥候から、山上より魏兵来る、と報告してきたので、黄忠はみずから出陣しようとすると、大将の陳式がこれをとどめ、
「老将軍みずから、なんで敵に当る必要がありましょう。私に千騎を任せられるならば、背後の細道より山上に向い、両方より挟みうちに致して討ち果たしましょう」
 という。黄忠は実にもと、これを許した。
 陳式は山の後ろに廻って、喊をつくってどっとばかり攻め上げれば、夏侯尚も御参なれとこれを迎えた。
 しばらくするうち、夏侯尚は計略通り、わざと負けたふりをして、逃げ上った。陳式はこれを見ていよいよ勢い立ち、逃さじと追って行った。
 黄忠はこの様子を見て、敵に計ありと気づき、陳式を救うべく軍を動かしたが、山上から大木を投げ落し、あるものは鉄砲を撃ち出したりしてきたため、進路をはばまれてしまった。
 陳式も敵の気配を感じて、途中から引返そうとしたが、この機をうかがっていた夏侯淵が猛烈に進撃をはじめ、ついに生捕られてしまった。陳式の部下も、意気地なく、魏軍に降ってしまった。
 黄忠はこれを聞いて驚愕した。早速法正と協議すると、
夏侯淵は性急で、ただ蛮勇ばかりの男です。意気を沮喪した味方の軍を、今一度励まして、急がず、次々と陣屋を造り、ゆるりと山上に押してゆけば、夏侯淵は必ず山を下って攻めて参るでしょう。これ反客為主の兵法です。およそ、居ながらにして敵をふせぐということは、はやった兵をもって、疲れた軍を討つことになり、寄手は弱く、防ぐ力は強いとされています。夏侯淵がもし参らば、必ず生捕ってみせます」
 黄忠はこの言に従って、早速諸軍に恩賞を与えて大いに励まし、みずから陣屋をつくり、数日そこに屯しては、また進んで陣屋を構築、一営一営と次第に進んで、山麓に近づいて行った。
 夏侯淵はこれを眺めて、敵の近接を知り、そのままにいることはならぬと、すぐにも出撃しようとするのを、張郃は引留め、
「これは反客為主の計に違いありません。必ず軽々しく出てはなりませぬ。出てゆけばきっと敗れましょう」といったが、夏侯淵は耳をかさず、夏侯尚を呼んで、敵にかかれと命令した。夏侯尚は直ちに数千の兵を引きつれ、夕闇をついて黄忠の陣に攻め入った。
 しかし、張郃のいった通り、まんまと敵の計にのって、夏侯尚は黄忠と一戦を交えたまま、すぐ生捕られてしまった。
 魏の兵は乱れて逃げ帰り、夏侯淵に、
「大将夏侯尚どの、敵の擒になられました」と報告した。
「しまった」と夏侯淵は顔色を失った。

 甥の夏侯尚が敵に捕えられたとあっては、夏侯淵としても放って置くこともならず、さりとて一気に攻めて、かえって夏侯尚を殺められては何にもならず、彼は夜も眠らずに、苦慮した。
 そして考えた案は、陳式と夏侯尚との俘虜交換であった。まず黄忠のもとに、
「陳式いまだ生きてわが陣にあり、願わくは夏侯尚と換えんことを」
 と申し送った。黄忠からも、
「われもまた望むところなり。すなわち明日、陣前において快くこれを交換せん」
 と返事があって、妥協は成立した。
 翌日。
 両軍ともに、山間の広き場所に出でて、それぞれ陣を張り、黄忠夏侯淵はみずから馬にまたがって出合い、
「魏の将、夏侯尚をつれ申した」
「蜀の将、陳式、虜となりしをお返し申す」
 と、問答の上、武装解除された二人を、素速く交換すると、
「やッ」
 とばかり声を合せて、自陣に引上げたが、夏侯尚がまさに、軍列に入ろうとする時、どこからか、一本の矢が飛んできて、彼の背にあたり、ばたりと地上に倒れた。
 黄忠の策で、彼の射た矢であった。
 夏侯淵は大いに怒り、黄忠めがけて馬を飛ばし、討ってかかって、十余合戦ううち、魏の陣に突如退陣の鉦が鳴り響き、一せいに兵を収めはじめた。
 何事か、と夏侯淵は驚きあわてて黄忠との刃合せの隙を見て戻ろうとすれば、黄忠は敵の動揺に感づき、勢いこめてうってかかり、魏の勢もまたさんざんに傷められて逃げ戻った。
 本陣に辛うじて着いた夏侯淵は語気も荒々しく怒り、
「ばかめ、何で鉦など鳴らしたのだ」
 と詰問した。すると、
「あの時、四方の山の間より、にわかに蜀の兵が起り、蜀の旗が無数に現れたので、おそらく伏兵であろうと思い、軍を収めたのです」
 との返事なので、怒りのやりばもなくなってしまった。
 それから、夏侯淵は固く守って、出ようともしない用心ぶりを示した。
 黄忠は、おもむろに定軍山に迫り、法正としきりに軍議を重ねた。
 きょうも、法正を伴って地形を調べていると、法正は遥かな山を指し示して、
「定軍山の西に、巍然として聳えた山がありましょう。あの山容を見ますと、四方みな嶮岨で、容易には上り得ないところと思います、もしあの山を攻め取れば、定軍山の敵陣は、一望にあり、配備、陣容は手にとるように知れましょう。さすれば、定軍山の攻略も易きことと存じます」
 という。黄忠もこれを聴きながら、その山を仰げば、相当な高さの山で、頂上はいくぶん平らかに見え、頂上附近にわずかの兵が守っているらしいのが分る。
 その夜二更、黄忠は兵を引いて、鉦を鳴らし、鼓を打ち、喊をつくって気勢をあげてこの山に攻め上った。
 この山は、魏の副将杜襲が、数百の兵をもって守っていたが、突如蜀の大軍が攻め寄せると知って、戦を交えることもなく、逃げてしまった。
 簡単に攻略を終った黄忠は、定軍山と並び占めた位置を利して、敵状偵察に余念がない。
 法正はその資料に基いて兵略を立てた。
「敵がもし攻め寄せて来ましたなら、味方の兵を制して動かず、かれが退いてゆくところを見定めて白旗をかかげ、それを合図として、将軍みずからも山を下って討ってかかり、敵の陣構えの崩れたところを攻め給わば、これ即ち、逸を以て労を待つの計となりましょう。必ず大将を討ちとることも可能です」
 黄忠もこの言にうなずいて、早速に明日を期して、まず敵軍の来襲をうながすようにと、山中の随所に旗を立てさせ、兵を動かしたりして、しきりに誘導戦法をはじめた。

 山を逃げ下った杜襲は、敗軍の状を夏侯淵に報告した。夏侯淵は、対山に敵が陣を張った以上、即刻これを攻めねば、味方の不利であると、出軍の用意を命じた。
 張郃はこれを知って諫めて云った。
「あの山を敵が攻略したのは、きっと法正が計でありましょう。将軍よ必ず出給うなかれ」
 夏侯淵はこれを駁して、
「なにを申す、黄忠いま対山の頂にあり、日々わが陣の虚実をうかがう。荏苒これを打ち破らざれば、わが軍の頽勢を如何せん」と。張郃はなおも、口を極めて諫めたが、ついに甲斐なく、夏侯淵は半数の兵を本陣に置いて守護を命じ、自らは残りの半数を率いて、黄忠の陣する山に向った。
 山麓に押し寄せ、敵陣めがけて罵声をさんざんに浴びせてみたが、黄忠の軍はひっそりと鳴りを静めて、出撃して来る気配もない。
 山上からひそかにこの様子を望み見た法正は、魏軍の疲労甚だしく、大半は馬上で居眠りなどしている様子に、折もよしと、さっと白旗をもって合図をすれば、待機の黄忠勢、山上より一度にどっと進撃を開始、鼓を鳴らし、角を吹き喊をあげ、潮の如く大挙して下って行った。
 黄忠この一戦を乾坤と思っていた。
 眦を決して陣頭に馬首を立て、奮迅の勢いをもって進めば、魏の兵、乱れて打ちかかるものもなく、大刀一閃、夏侯淵が手もとにおどりかかって、首から肩にかけて真二つに斬って落した。
 魏の勢これを見て、ますます崩れ立ち、右往左往に逃げのびてゆく。黄忠は勝ちに乗じ、さらに攻撃の手をゆるめず、定軍山に攻め上った。
 張郃は諫言の容れられなかったのを残念には思ったが、かくなる上は悔いても及ばず、兵を整えて迎え討ったが、黄忠は、陳式を背後に廻し、二手に別れて攻めまくったので遂に支えきれず、本陣に逃げ戻ろうとした。
 すると忽然として、山の傍らから、大将を先頭にした一軍の勢が現れた。驚いた張郃が先頭に掲げた大旗を見れば、趙雲と大書してある。
 趙雲がここに合して攻めてくるようでは、退路をも失うかも知れぬ。一刻も早く、定軍山の本陣へ戻って、陣容を整え、新たな作戦に出なければならぬと、別の路から退こうとした所へ、杜襲が敗軍を率いて逃げてきて、
「定軍山の本陣、ただいま蜀の大将劉封孟達どもに奪われてしまいました」と報じた。
 張郃は気を失うばかりに落胆して、これまでとばかり杜襲を伴って漢水へ命からがら逃げのびて陣を張った。
 敗将両名、見るも気の毒な姿である。
 杜襲は張郃に向い、
夏侯淵が討たれた今、この陣に大将軍なきことになります。このままでは人心も動揺する憂いがありましょう。あなたが仮に都督を名乗って、人民の心を安んじたがよろしいと思います」
 と忠言した。
 張郃もなるほどと賛成し、早速に早馬をもって、急を曹操に告げた。
 曹操は報を受けて憮然とし、夏侯淵の死を大いに哭いた。
 それにしても戦の初めに、管輅が卜を立てた詞を考えれば、
「三八縦横といったのは、すなわち建安二十四年にあたり、黄猪虎に遇うと申したのは、歳すなわち己亥にあたる。定軍の南一股を傷折せんというは、曹操夏侯淵とは兄弟の如く結ばれていたことを指したに違いない」
 曹操は深く感じ入って、
「まことに稀有の神卜であった。管輅に人を派して今一度よびよせよ」
 と彼を訪ねしめたが、すでに管輅はその地になく、行方も杳として知れぬという報告であった。

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