禁酒砕杯の約

 張飛は、不平でたまらなかった。――呂布が帰るに際して、玄徳が自身、城門外まで送りに出た姿を見かけたので、なおさらのこと、
「ごていねいにも程がある」と、業腹が煮えてきたのであった。
「家兄。お人よしも、度が過ぎると、馬鹿の代名詞になりますぞ」
 その戻るところをつかまえて、張飛は、さっき貰った叱言へ熨斗をつけて云い返した。
「ほう、張飛か。なにをいつまで怒っているのか」
「なにをッて、あまりといえば、歯がゆくて、馬鹿馬鹿しくて、腹を立てる張りあいもない」
「ならば、そちのいう通り、呂布を殺したらなんの益がある」
「後の患いを断つ」
「それは、目先の考えというものだ。――曹操の欲するところは、呂布と我とが血みどろの争いをするにある。両雄並び立たず――という陳腐な計りごとを仕掛けてきたのじゃ。それくらいなことがわからぬか」
 側にいた関羽が、
「ああ。ご明察……」
 と、手を打って賞めてしまったので、張飛はまたも云い返すことばに窮してしまった。
 玄徳はまた、その翌る日、勅使の泊っている駅館へ答礼に出向いて、
呂布についてのご内命は、事にわかには参りかねます。いずれ機を図って命を果たす日もありましょうが、今しばらくは」と、仔細は書面にしたためて、謝恩の表と共に、使者へ託した。
 使者は、許都へ帰った。そしてありのまま復命した。
 曹操荀彧をよんで、
「どうしたものだろう。さすがは劉玄徳、うまくかわして、そちの策には懸からぬが」
「では、第二段の計を巡らしてごらんなさい」
「どうするのか」
袁術へ、使いを馳せて、こういわせます。――玄徳、近ごろ天子に奏請して、南陽を攻め取らんと願い出ていると」
「むム」
「また、一方、玄徳が方へも、再度の勅使を立て――袁術、朝廷に対して、違勅の科あり、早々、兵を向けて南陽を討つべしと、詔を以て、命じます。正直真っ法の玄徳、天子の命とあっては、違背することはできますまい」
「そして?」
「豹へ向って、虎をけしかけ、虎の穴を留守とさせます。――留守の餌をねらう狼が何者か、すぐお察しがつきましょう」
呂布か! なるほど、あの漢には狼性がある」
「駆虎呑狼の計です」
「この計ははずれまい」
「十中八九までは大丈夫です。――なぜならば、玄徳の性質の弱点をついておりますからな」
「うム。……天子の御命をもってすれば、身うごきのつかない漢だ。さっそく運ぶがいい」
 南陽へ、急使が飛んだ。
 一方、それよりも急速に、二度目の勅使が、徐州城へ勅命をもたらした。玄徳は、城を出て迎え、詔を拝して、後に、諸臣に諮った。
「また、曹操の策略です。決してその手に乗ってはいけません」
 糜竺は、諫めた。
 玄徳は沈湎と考えこんでいたが、やがて面を上げると、
「いや、たとえ計りごとであっても、勅命とあっては、違背はならぬ。すぐ南陽進軍しよう」
 弱点か、美点か。
 果たして彼は、敵にも見抜かれていた通り、勅の一語に、身うごきがつかなかった。

 玄徳の決意は固い。
 糜竺をはじめ諸臣は、皆それを知ったので口をつぐんだ。
 孫乾が云い出した。
「どうしても、勅を奉じて、南陽へご出陣あるならば、第一に、後の用心が肝要でありましょう。誰に徐州の留守をおあずけなさいますか」
「それがだ」と玄徳も熟考して、
関羽張飛のうちのいずれか一名を残して行かねばなるまい」
 関羽は、進み出て、
「願わくは、それがしに仰せつけ下さい。後顧の憂いなきよう必ず留守しておりまする」
 と、自薦して出た。
「いやいや、其方なら安心だが、其方は、朝夕事を議すにも、また何かにつけても、玄徳の側になくてはならぬ者。……はて、誰に命じたものか?」
 と、玄徳が沈思していると、つと、張飛は一歩進み出して、例のように快然と云った。
「家兄。この徐州城に人もなきように、なにをご思案あるか。不肖、張飛もこれに在る。それがしここに留まって死守いたそう。安んじてご出馬ねがいたい」
「いや、其方にはたのみがたい」
「なぜでござるか」
「そちの性は、進んで破るにはよいが、守るには適しない」
「そんな筈はござらん。張飛のどこが悪いと仰せあるか」
「生来、酒を好み、酔えば、みだりに士卒を打擲し、すべてに軽率である。もっとも悪いのは、そうなると、人の諫めも聞かぬことだ。――其方を留めておいては、玄徳もかえって、心がかりでならん。この役は、ほかの者に申しつけよう」
「あいや、家兄。そのご意見は胆に銘じ、自分も平素から反省しているところでござる。……そうだ、こういう折こそいい時ではある。今度のご出馬を機会として、張飛は断じて酒をやめます。――杯を砕いて禁酒する!」
 彼は常に所持している白玉の杯を、一同の見ている前で、床に投げつけて打ち砕いた。
 その杯は、どこかの戦場で、張飛が分捕った物である。敵の大将でも落して行ったものか、夜光の名玉を磨いたような馬上杯で、(これ、天より張飛に賜うところの、一城にも優る恩賞なり)といって、常に肌身はなさず持って、酒席とあれば、それを取出して、愛用していた。
 酒を解さない者には、一箇の器物でしかないが、張飛にとっては、わが子にも等しい愛着であろう。その上に、禁酒の約を誓言したのである。その熾烈な心情に打たれ、玄徳はついにこういって彼を許した。
「よくぞ申した。そちが自己の非を知って改めるからには、なんで玄徳も患をいだこう。留守の役は、そちに頼む」
「ありがたく存じます。以後はきっと、酒を断ち、士卒を憐み、よく人の諫めに従って、粗暴なきようにいたしまする」
 情に感じ易い張飛は、玄徳の恩を謝して、心からそう答えた。すると糜竺が、
「そうはいうが、張飛の酒狂いは、二つの耳の如く、生れた時から持っている性質、すこし危ないものだな」と、冷やかした。
 張飛は怒って、
「何をいう。いつ俺が、俺の家兄に、信を裏切ったことがあるか」と、もう喧嘩腰になりかけた。
 玄徳はなだめて、留守中は何事も堪忍を旨とせよと訓え、また、陳登を軍師として、
「万事、よく陳登と談合して事を処するように」
 と云いのこし、やがて自身は、三万余騎を率いて、南陽へ攻めて行った。

 今、河南の地、南陽にあって、勢い日増しに盛大な袁術は、かつて、この地方に黄巾賊の大乱が蜂起した折の軍司令官、袁紹の弟にあたり、名門袁一族中では、最も豪放粗剛なので、閥族のうちでも恐れられていた。
許都曹操から急使が参りました」
「書面か」
「はっ」
「使者をねぎらってやれ」
「はっ」
「書面をこれへ」
 袁術は、ひらいて見ていたが、
「近習の者」
「はい」
「即時、城中の紫水閣へ、諸将に集まれと伝えろ」
 袁術は気色を変えていた。
 城内の武臣文官は、
「何事やらん?」と、ばかりに、蒼惶として、閣に詰め合った。
 袁術は、曹操からきた書面を、一名の近習に読み上げさせた。

劉玄徳、天子に奏し
年来の野望を遂げんと
南陽侵略の許しを朝に請う
君と予とは
また、年来の心友
何ぞ黙視し得ん
ひそかに、急を告ぐ
乞う
油断あるなかれ

「聴かれたか。一同」と、次に袁術は声を大にし、面に朱をそそいで罵った。
「玄徳とは何者だっ。つい数年前まで、履を編み蓆を売っていた匹夫ではないか。先頃、みだりに徐州を領して、ひそかに太守と名のり、諸侯と列を同じゅうするさえ奇怪至極と思うていたに、今また、身のほどもわきまえず、この南陽を攻めんと企ておるとか。――天下の見せしめに、すぐ兵を向けて踏みつぶしてしまえ」
 令が下ると、
「行けや、徐州へ」と、十万余騎は、その日に南陽の地を立った。
 大将は、紀霊将軍だった。
 一方、南下して来た玄徳の軍も、道を急いで来たので、両軍は臨淮郡の盱眙安徽省・鳳陽県東方)というところで、果然、衝突した。
 紀霊は、山東の人で、力衆にすぐれ、三尖の大刀をよく使うので勇名がある。
「匹夫玄徳、なにとて、わが大国を侵すか。身のほどをわきまえよ」
 と、陣頭へ出て呼ばわると、
「勅命、わが上にあり。汝ら好んで逆賊の名を求めるか」
 と、玄徳も云い返した。
 紀霊の配下に荀正という部将がある。馬を駆って、躍り出し、
「玄徳が首、わが手にあり」
 と、喚きかかった。
 横合から、関羽が、
「うぬっ、わが君へ近づいたら眼がくらむぞ」と、八十二斤の青龍刀を舞わしてさえぎった。
「下郎っ、退けっ」
「汝ごときを、相手になされるわが君ではない。いざ来い」
「何を」
 荀正は、関羽につりこまれて、つい玄徳を逃がしてしまったばかりでなく、勇奮猛闘、汗みどろにかかっても、遂に、関羽へかすり傷一つ負わせることができなかった。
 戦い戦い浅い河の中ほどまで二騎はもつれ合って来た。関羽は、面倒くさくなったように、
「うおうーッ」
 と獅子吼一番して、青龍刀を高く振りかぶると、ざぶんと、水しぶき血しぶき一つの中に、荀正を真二つに斬り捨てていた。
 荀正が討たれ、紀霊も追われて、南陽の全軍は潰走しだした。淮陰のあたりまで退いて、陣容を立て直したが、玄徳あなどり難しと思ったか、それから矢戦にのみ日を送って、にわかに、押してくる様子も見えない。

 さてまた。
 留守城の徐州では、
「者ども、警備を怠るな」と、張飛は張切って、日夜、望楼に立ち、家兄玄徳の軍旅の苦労をしのんで、自分も軍衣を解いて牀に長々と寝るということもなかった。
「さすがは張将軍である」と、留守の将士も服していた。彼の一手一足に軍律は守られていた。
 きょうも彼は、城内の防塁を見廻った。皆、よくやっている。城中でありながら士卒も部将も、野営同様に、土に臥し、粗に甘んじている。
「感心感心」
 彼は、士卒の中を、賞め歩いていた。――が、その感賞を、張飛は、言葉だけで、世辞のように振りまいて歩いているのは、なんだか気がすまなかった。
「弓も弦を懸けたままにしておいては、ゆるんでしまう。たまには、弦をはずして、暢びるのもよいことだ。――その代り、いざとなったら直ぐピンと張れよ」
 こういって、彼は、封印しておいた酒蔵から、大きな酒瓶を一箇、士卒に担わせて来て、大勢の真ん中へ置いた。
「さあ飲め、毎日、ご苦労であるぞ。――これは其方どもの忠勤に対する褒美だ。仲よく汲みわけて、今日は一献ずつ飲め」
「将軍、よろしいのですか」
 部将は、怪しみ、かつ、おそれた。
「よいよい、おれが許すのだ。さあ卒ども、ここへ来て飲め」
 もとより士卒たちは、雀躍してみなそこに集まった。――だが、それを眺めて、少しぼんやりしている張飛の顔を見ると、何か悪い気がして、
「将軍は、お飲りにならないのですか」と、訊ねた。
 張飛は、首を振って、
「おれは飲まん、おれは杯を砕いておる」と、立ち去った。
 しかし、他の屯へ行くと、そこにも不眠不休の士卒が、大勢、城壁を守っているので、
「ここへも一瓶持ってこい」
 また、酒蔵から運ばせた。
 彼方の兵へも、此方の兵へも、張飛は、平等に飲ませてやりたくなった。酒蔵の番をしている役人は、
「もう十七瓶も出したから、これ以上はおひかえ下さい」と、扉に封をしてしまった。
 城中は、酒のにおいと、士卒たちの歓声に賑わった。どこへ行ってもふんぷんと匂う。張飛は、身の置き所がなくなった。
「お一杯くらいはよいでしょう」
 士卒のすすめたのを、つい手にして舌へ流しこむと、もうたまらなくなったものか、
「こらこらっ。その柄杓で、それがしにも一杯よこせ」
 と、渇いている喉へ水でも流しこむように、がぶがぶ、立て続けに二、三杯飲んでしまった。
「なに、酒蔵役人がもう渡さんと。――ふ、ふ、不埓なことを申すやつだ。張飛の命令であるといって持ってこい。もし、嫌の応のといったら、一小隊で押しよせて、酒蔵を占領してしまえ。……あはははは」
 幾つかの酒瓶を転がして、自分の肚も酒瓶のようになると、彼はしきりと、
「わははは。いや愉快愉快、誰か勇壮な歌でも唄え。其方どもがやったら俺もやるぞ」
 酒蔵役人の注進で、曹豹が、びっくりして駆けつけて来た。見ればこの態たらくである。――唖然として呆れ顔していると、
「やあ、曹豹か。どうだ、君も一杯やらんか」
 張飛が酒柄杓をつきつけた。
 曹豹は、振り払って、
「これ! 貴公はもう忘れていたのか。あれほど広言した誓約を」
「なにをぶつぶついう。まあ一杯やり給え」
「馬鹿なっ」
「なに。馬鹿なとはなんだっ。この芋虫めッ」
 いきなり酒柄杓で、曹豹の顔を撲りつけ、あッと驚くまに、足を上げて蹴倒した。

 曹豹は、勃然と怒って、
「おのれ、なにとて我れを辱めるか。よくも衆の前で蹴ったな」
 起き直って、つめ寄った。
 張飛は、その顔へ、虹のような酒の息を吐きかけて、
「蹴倒したが悪いか。汝は文官だろう。文官のくせに、大将たる俺に向って、猪口才なことを申すからこらしめたまでだ」
「友の忠言を」
「貴様のような奴はわが友ではない。酒も飲めぬくせに」
 とまた、鉄拳をふり上げて、曹豹の顔をはりとばした。
 見るに見かねて、兵卒たちが、張飛の腕につかまったり腰にたかったりして止めようとしたが、
「ええい、うるさい」と、ひとゆすり体を振ると、みな振り飛ばされてしまった。
「わははははは、逃げやがった。見ろ、見ろ、曹豹のやつが、俺に撲られた顔を抱えて逃げてゆく態を。ああ愉快、あいつの顔はきっと、樽のようにふくれあがって、今夜一晩じゅううなって寝るにちがいない」
 張飛は、手をたたいた。
 そして兵隊を相手に、角力を取ろうと云いだしたが、誰も寄りつかないので、
「こいつら、俺を嫌うのか」と、大手をひろげて、逃げ廻る兵を追いかけまわした。まるで、鬼と子供の遊戯の図でも見るように。
 一方の曹豹は、熱をもった顔を抱えて、どこやらへ姿を隠してしまったが、「……ウウム、無念だ」と、顔のずきずき痛むたびに、張飛に対する恨みが骨髄にまで沁みてきた。
「どうしてやろう?」
 ふと、彼は怖ろしい一策を思いついた。早速、密書をしたためて、それを自分の小臣に持たせて、ひそかに、小沛の県城へ走らせた。
 小沛までは、幾らの道のりもない。徒歩で走れば二刻、馬で飛ばせば一刻ともかからない。およそ四十五里(支那里)の距離であった。
 ちょうど、呂布は眠りについたばかりのところだった。
 そこへ腹心の陳宮曹豹の小臣から事情を聞きとって、密書を手に、入って来た。
「将軍、お起きなさい。――将軍将軍、天来の吉報ですぞ」
「誰だ。……眠い。そうゆり起すな」
「寝ている場合ではありません。蹶起すべき時です」
「なんだ……陳宮か」
「まあ、この書面をご一読なさい」
「どれ……」と、ようやく身を起して、曹豹の密書を見ると、いま徐州の城は張飛一人が守っているが、その張飛も今日はしたたかに酒に酔い、城兵もことごとく酔い乱れている。明日を待たず兵を催して、この授け物を受けに参られよ。曹豹、城内より門を開いて呼応仕らん――とある。
「天の与えとはこのことです。将軍、すぐお支度なさい」
 陳宮がせきたてると、
「待て待て。いぶかしいな。張飛はこの呂布を目の敵にしている漢だ。俺に対して油断するわけはないが」
「何を迷うておられるのです。こんな機会を逸したら、二度と、風雲に乗ずる時はありません」
「大丈夫かな?」
「常のあなたにも似合わぬことだ。張飛の勇は恐るべきものだが、彼の持ち前の酒狂は、以て此方の乗ずべき間隙です。こんな機会をつかめぬ大将なら、私は涙をふるってあなたの側から去るでしょう」
 呂布もついに意を決した。
 赤兎馬は、久しぶりに、鎧甲大剣の主人を乗せて、月下の四十五里を、尾をひいて奔った。
 呂布につづいて、呂布が手飼いの兵およそ、八、九百人、馬やら徒歩やら、押っとる得物も思い思いに我れおくれじと徐州城へ向って馳けた。

「開門! 開門っ」
 呂布は、城門の下に立つと、大声でどなった。
「戦場の劉使君より火急の事あって、それがしへ使いを馳せ給う。その儀について、張将軍に計ることあり。ここを開けられよ」と、打ち叩いた。
 城門の兵は、楼からのぞいたが、なにやら様子がおかしいので、
「一応、張大将に伺ってみた上でお開け申す、しばらくそれにてお控えあれ」
 と、答えておいて、五、六人の兵が、奥へ告げに行ったが、張飛の姿が見あたらない。
 その間に、城中の一部から、思いもよらぬ喊の声が起った。曹豹が、裏切りをはじめたのである。
 城門は、内部から開かれた。
「――それっ」とばかり呂布の勢は、潮のごとく入って来た。
 張飛は、あれからもだいぶ飲んだとみえて、城郭の西園へ行って酔いつぶれ、折ふし夕方から宵月もすばらしく冴えていたので、
 ――ああいい月だ!
 と、一言、独り語を空へ吐いたまま前後不覚に眠っていたのであった。
 だから幾ら望楼の上だの、彼の牀のある閣などを兵が探しまわっても、姿が見えないはずだった。
 そのうちに、
「……やっ?」
 喊の声に、眼がさめた。――剣の音、戟のひびきに、愕然と突っ立ち上がった。
「しまッた!」
 猛然と、彼は、城内の方へ馳けだして行った。
 が、時すでに遅し――
 城内は、上を下への混乱に陥っている。足につまずく死骸を見れば、みな城中の兵だった。
「うぬ、呂布だなっ」
 気がついて、駒にとび乗り、丈八の大矛をひッさげて広場へ出てみると、そこには曹豹に従う裏切者が呂布の軍勢と協力して、魔風の如く働いていた。
「目にもの見せん」と、張飛は、血しおをかぶって、薙ぎまわったが、いかんせん、まだ酒が醒めきっていない。大地の兵が、天空に見えたり、天空の月が、三ツにも四ツにも見えたりする。
 いわんや、総軍のまとまりはつかない。城兵は支離滅裂となった。討たれる者より、討たれぬ前に手をあげて敵へ降服してしまう者のほうが多かった。
「逃げ給え」
「ともあれ一時ここを遁れて――」と、張飛を取り囲んだ味方の部将十八騎が、無理やりに彼を混乱の中から退かせ、東門の一ヵ所をぶち破って、城外へ逃げ走って来た。
「どこへ行くのだっ。――どこへ連れて行くのだ」
 張飛は、喚いていた。
 まだ酒の気が残っていて、夢でも見ているような心地がしているものとみえる。
 すると、後ろから、
「やあ、卑怯だぞ張飛、返せ返せっ」と、百余騎ばかりを従えて、追いかけて来る将があった。
 前の恨みをそそがんと、腕ききの兵ばかりを選りすぐって、追いつつみに来た曹豹であった。
「何を」
 張飛は、引っ返すや否、その百余騎を枯葉のごとく蹴ちらして、逃げる曹豹を、真二つに斬りさげてしまった。
 血は七尺も噴騰して月を黒い霧にかすめた。満身の汗となって、一斗の酒も発散してしまったであろう張飛は、ほっとわが姿を見まわして、
「ああ!」
 急に泣きだしたいような顔をした。

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