歩く木獣
一
隣国へ使いに行った帯来が帰ってきて告げた。
「われわれの申入れを承知して、数日の間に、木鹿王は自国の軍を率いて来ましょう。木鹿軍が来れば、蜀軍などは木っ端微塵です」
彼の姉祝融夫人も、その良人孟獲も、今はそれだけを一縷の希望につないでいたところである。やがて八納洞の木鹿が数万の兵をつれて、市門へ着くと聞くや、夫妻は王宮の門を出て迎えた。
「やあ、お揃いで出迎えとはおそれ入るな」
木鹿大王は白象に騎ってきた。象の頸には金鈴をかけ七宝の鞍をすえている。また身には銀襴の戦袈裟をかけ、金珠の首環、黄金の足環、腰には瓔珞を垂れて、大剣二振りを佩いていた。
「安心するがよいよ。孟獲も、奥さんも」
白象から降りると、木鹿王はそう語りながら、蛮旗の林の中を、悠々、王宮の奥ふかく案内されて行った。
彼の連れてきた三万の軍隊の中には、千頭に近い猛獣がまじっていた。獅子、虎、大象、黒豹、狼など、その吠ゆる声もすさまじい程である。
王宮の奥では深更まで歓迎の大宴が開かれたものらしく、終夜たいへんな篝火と蛮楽がさわいでいた。
孟獲夫妻は善を尽し美を尽して三日間の饗宴を続け、あらゆる媚態と条件を附して、木鹿の歓心を得るに努めた。大王のご機嫌は斜めならず、ようやく着城四日目に、
「どれ、明日はひとつ、蜀軍を蹴ちらしてご覧に入れるかな」と、軍備を命じ出した。
何としたことか、その前夜から朝にかけては、猛獣部隊の猛獣が、終夜空を望んで咆哮していた。聞けば、戦に臨む前は一切餌断ちをして、猛獣群の腹を乾しておくのだとある。
翌日、大王はいよいよ陣頭に出た。例の白象に騎り、二振りの宝剣を横たえ、手に蔕のある鐘を持っていた。
蜀軍は愕いた。
「何だあれは?」
戦わぬうちから怯み立って見えたので、趙雲、魏延などが、井楼の上に昇ってみると、なるほど、兵の怯むのも無理はない。木鹿軍の兵は、その顔も皮膚も真っ黒で、まるで漆塗りの悪鬼羅刹に異ならない。しかも大王のうしろには、つながれた猛獣の群れが、尾を振り、雲を望んで咆えていた。
「魏延魏延、この年まで、おれはまだ、こんな敵に出会ったことがない。どういうことになるのだろう」
「いやそれがしも、初めてだ。ふしぎな軍隊もあるものだ」
さすがの二将も怪しみおそれて、にわかに、策も作戦も下し得ずにいるうち、白象の鞍上高々と見えた木鹿大王は、たちまち手の蔕鐘を打ち鳴らして、まず前列の鑓隊を突っ込み、両軍乱れ合うと見るやさらに烈しく鐘を乱打した。
機を計っていた猛獣隊は、一度に鎖を解き、或いは檻を開いた。と共に木鹿大王は、口の内に呪を念じ、なにか祷るような恰好をしだした。獅子、虎、豹、毒蛇、悪蝎などの群れが、とたんに土煙を捲き、草を這い、或いは宙を飛ぶように、蜀軍の中へ襲いかかった。彼らの腹はみんな背中へつくほど細く捲き上がっていた。いわゆる餓虎餓狼ばかりである。牙を張り風を舞わし、血に飽かない姿である。
逃げる逃げる、逃げ崩れる。蜀兵の足はいかに叱咤しようが止まらなかった。とうとう三江の堺まで総なだれに退いてしまった。蛮軍は面白いほど勝ち抜いて、これまた、猛獣以上の猛勇をふるって逃げおくれた蜀兵を殺しまわった。
異様な妖鐘が再びじゃんじゃん鳴りひびいた。木鹿王の白象の周りへ満腹した猛獣群が尾を振り勇んで帰ってくる。それを再び檻に入れ或いは鎖に繋ぎ、鼓角を鳴らして、王宮へ引き揚げて行った。
趙雲、魏延の二将から、この日の敗戦を聞いて、孔明は笑った。
「書物はやはり嘘を書いていないものだ。むかし若年の頃、自分が草廬のうちで読んだ兵書に、南蛮国には豺狼虎豹を駆使する陣法ありと見えたが、きょうのは即ちそれであろう。幸い、蜀を立つ時から万一のためその備えはして来ておるから、決して愕き騒ぐには当らない」
彼はすぐ兵一隊に命じて例の車輛をこれへ曳いてこいと命じた。
二
一個一個、被布をかけて、軍中深く秘されて来た二十余輛の車がある。兵はやがてそれらを残らず押してきた。
「被布をとれ」
孔明は命じた。
まるで一軒の小屋ほどもある箱がどれにも載っていた。なにが現われるかと、人々が好奇の眼をみはっていると、取り除かれた被布の下から大きな櫃が見えた。
十余輛の車は、黒塗りの櫃を載せ、あとの十余輛には、紅の櫃が載せてある。
孔明は鍵を持って、自身、紅い櫃だけをことごとく解体した。驚くべき巨大な木彫の怪獣が、車を脚として、立ち並んだ。獅子の如き木獣、虎の如き木獣、角のある犀の如き木獣など、どれもこれも怖ろしく大きくて魁偉である。
「どうなさるのです、一体これを?」
「はるばる、成都から押させてきた二十余輛の車は、これであったのですか」
諸将は孔明の意中を怪訝った。
次の日、蜀陣は洞口の道に当って、重厚なる五段の備えを立てた。
孟獲は前日の勝ちに驕って気負いきっていた。木鹿王と共に陣頭に現われて、
「あれ、あれに見ゆる四輪車の上なる者が、蜀の孔明という曲者です。大王、願わくは昨日の如く、快き大勝を示し給え」
指さして教えた。木鹿は大きくうなずいて、例の如く蔕鐘を打ち鳴らし黒風を呼んで、後なる猛獣群を敵軍へけしかけた。
凄じい百獣の咆哮に、砂は飛び猛風は捲く。孔明の四輪車は、たちまち、梶をめぐらして、二段の陣へ隠れかけた。
大象に鞭をくれて、馳け寄った木鹿王は、その高い鞍の上から宝刀を振りかざして、
「孔明。今日こそ、その命を貰ったぞ」と、斬り下ろした。
刃は四輪車の一柱を仆した。木鹿はさらに一閃、また一閃、呪を念じながら斬りつけたが、三度とも切ッ先は届かない。そしてかえって後ろへ廻った二人の徒歩の槍手に、大象の腹を突き立てられた。
が、槍は象の腹にとおらなかった。一槍は折れ、一槍はそれた。
孔明は、羽扇をあげて、
「関索、なぜ人を突かぬ」
と、叫びながらまた、
「木鹿王死せりッ」と、叱咤した。
「何を」
四度目の太刀を振りかざしたとき、ぴゅんと、一箭は唸って、木鹿の喉に立った。同時に、下から突き上げた関索の槍もその頤を突きぬいていた。
木鹿は地響きして落ちた。きょう孔明の四輪車を押していた徒歩武者は、関索以下、ことごとく蜀の錚々たる旗本だったのである。木鹿はみずから好んで蜀軍中の一番強いところへ当って落命したものであった。
なお全面的に観れば、前日の百獣突貫も、この日はまるで用をなさなかった。なぜなれば、蜀の陣にも、木獣の備えがあったからである。この木製の大怪物は、脚に車を穿き、口から火煙を噴き、異様な咆哮すら発して、前へ進み、横へまわり、縦横無碍に馳け廻って、生ける虎、豹、狼などをも、その魁偉な姿に驚殺を喫せしめたのであった。
種を明かせば、木獣の中には、十人の兵が入っていた。火煙を吐くのも、咆哮するのも、また進退するも、すべて内部に仕掛けてある硝薬と機械の働きだった。もちろん前代未聞の新兵器で、孔明の考案によるものである。
蛮人も驚いたが、本物の虎や獅子もぎょっとした。生ける猛獣隊は俄然尾を垂れて潰乱した。蜀の鼓角は、天地をゆりうごかし、逃げ崩るる蛮軍を追って、ついに銀坑山の王宮を占領した。
孟獲、その妻の祝融、帯来、ほか一族などみな、家宅を捨てて逃げ出す途中を待って、蜀軍は一網打尽にこれを捕えた。けれど孔明は、孟獲以下、一家眷族を、すべて解いて、
「巣なき鳥、家なき人間が、どう生きてゆくか。いわんや、王風にそむいたところで、どれほどの力があろう。振舞えるかぎり振舞うてみよ」と、またも放してやった。
今は大言毒舌を吐く気力もなく、孟獲は鼠の如く、頭を抱えて逃げ失せた。それを王と仰ぎ家長と慕う眷族たちの意気地なさはいうまでもない。