司馬仲達計らる
一
蜀の諸葛亮孔明と、魏の司馬懿仲達とが、堂々と正面切って対峙するの壮観を展開したのは、実にこの建興七年四月の、祁山夏の陣をもって最初とする。
それまでの戦いでは仲達はもっぱら洛陽にあって陣頭に立たなかったといってよい。序戦の街亭の役には、自身陽平関にまで迫ったが、孔明は楼上に琴を弾じて、彼の疑い退くを見るや、風の如く漢中へ去ってしまい、両々相布陣して、乾坤一擲に勝敗を決せんとするような大戦的構想は、遂にその折には実現されずにしまった。
孔明も仲達の非凡を知り、仲達ももとより孔明の大器はよくわきまえている。
――その上での対陣である。しかも司馬懿軍十万余騎は、まだ傷つかざる魏の新鋭であるし、その先鋒の張郃も百戦を経た雄将だった。
「一望するところ、孔明は祁山の三ヵ所に陣を構え、旗旛整々たるものが見えるが、貴公たちは、彼がここへ出て以来、幾度かその戦意を試みていたか」
祁山に着いた日、仲達は、郭淮と孫礼のふたりにこう質問した。
「いや、ご下向を待って、親しくご指揮を仰いだ上でと考えて、まだ一度も戦っておりません」
「孔明としては、必ず速戦即決を希望しているだろうに、敵も悠々とあるは、何か大なる計があるものと観ねばならぬ。――隴西の諸郡からは、何の情報もないか」
「諸所みな守り努めているようです。ただ武都、陰平の二郡へやった連絡の者だけ、今もって帰ってきません」
「さてこそ。孔明はその二郡を攻めようとしているのだ。貴公らは、間道からすぐ二郡へ救援に行け。そして守備を固めた後、祁山のうしろへ出よ」
郭淮と孫礼は、即夜、数千の兵をひきいて、隴西の小道を迂回した。
途中ふたりは、馬上で語り合った。
「貴公は、孔明と仲達と、いずれが優れた英才と思うか」
「さあ? どちらともいえないが、敵ながら孔明が少しすぐれておりはせぬかな?」
「しかし、こんどの作戦などは、孔明より仲達のほうが、鋭い所を観ているようだ。祁山のうしろへ出られたら、孔明とて狼狽するだろう」
すると夜の明けがた頃。
先頭の兵馬が急に騒ぎだしたので、何事かと見ると、一山の松林の中に、「漢の丞相諸葛亮」としるした大旗がひるがえり、霧か軍馬か濛々たるものが山上からなだれて来る。
「や。おかしいぞ」
云っているまに、一発の山砲が轟いた。それを合図に、四山金鼓の声をあげ、郭淮、孫礼の四、五千人は、完全に包囲された形となった。
「夜来の旅人。もはや先へ行くは無用。隴西の二郡はすでに陥ちてわが手にあり、汝らも無益な戦いやめて、わが前に盔を投げよ」
孔明は四輪車のうえから呼ばわりつつ、むらがる敵を前後の旗本に討たせながら、郭淮、孫礼のほうへそれを押しすすめて来た。
「よし、この眼に孔明を見たからには、討ちもらしてなるものか」
二将は喚き合って血の中へ挺身してきたが、王平、姜維の二軍に阻まれ、かつ手勢を討ち減らされて、
「いまは、ぜひなし」と、無我夢中、逃げ出した。
「待てっ。なおここに、蜀の張苞あるを知らないか。張飛の子、張苞に面識をとげて行かぬは、冥加でないぞ」
追いかけた者は、名乗るが如き張苞だった。しかし、敵の逃げるのも盲滅法だったし、彼の急追も余りに無茶だったので、松山の近い岩角に、その乗っていた馬がつまずいたとたん、馬もろとも、張苞は谷の底へころげ落ちてしまった。
あとに続いていた蜀兵は、それを見ると、
「やや。張将軍が谷へ落ちた――」と、逃げる敵もさておいて、みな谷底へおりて行った。あわれ張苞、岩角に頭を打ちつけたため重傷を負い、流れのそばに昏絶していた。
二
郭淮と孫礼が惨たる姿で逃げ帰ってきたのを見ると、仲達は慙愧して、かえって、ふたりへ詫びた。
「この失敗はまったく貴公の罪ではない。孔明の智謀がわれに超えていたからだ。しかし、この仲達にもなおべつに勝算がないでもない。貴公たちは雍・郿の二城へわかれて堅く守っておれ」
司馬懿は一日沈思していたが、やがて張郃と戴陵を招いて、
「武都・陰平の二城を取った孔明は、さしずめ戦後の経策と撫民のため、そのほうへ出向いているにちがいない。祁山の本陣には依然、孔明がいるような族旗が望まれるが、おそらく擬勢であろう。汝らはおのおの一万騎をつれて、今夜、側面から祁山の本陣へかかれ。儂は正面から当って、一挙に彼の中核をつき崩さん」と、云った。
張郃はかねて調べておいた間道を縫い、夜の二更から三更にかけて、馬は枚をふくみ、兵は軽装捷駆して、祁山の側面へ迂回しにかかった。
途中は峨々たる岩山のせまい道ばかりだった。行くこと半途にして、その道も重畳たる柴や木材や車の山で塞がっていた。敵が作っておいた防塞だろうが、これしきの妨げは、物ともするな、踏みこえて進めと張郃が励ましていると、たちまち、四方から火が揚がって、魏兵の進路を危うくした。
「愚や、愚や。司馬懿の浅慮者が、前にも懲りず、ふたたび同じ敗戦を部下にくり返させている。――見ずや、孔明は武、陰にあらず、ここに在るぞ」
山の上で高らかに云っているのは、まぎれもない孔明の声である。張郃は、怒って、
「わが大国を恐れず、度々境を侵す山野の匹夫。そこを動くな」
と、ほとんど胸衝きにひとしい嶮路へ、無理に馬を立てて馳け上がろうとすると、山上にもう一声、呵々と大笑する孔明の声がひびいて、
「匹夫の勇とは、それ汝自身の今の姿だ。求むるはこれか」と、左右に下知すると、同時に、巨木大石が流れを下るごとく落ちてきた。
張郃の馬は脚を挫いて仆れた。彼は乗り換え馬を拾って麓へ逃げ退いたが、友軍の戴陵が、敵の重囲に落ちているのを知ると、ふたたび取って返して戴陵を救い出し、ついにもとの道へ引っ返した様子である。
孔明は、あとで云った。
「むかし当陽の激戦で、わが張飛とかの張郃とが、いずれ劣らぬ善戦をなしたので、当時、魏に張郃ありと、大いに聞えたものだが、その理由なきに非ざるものを、今夜の彼の態度にも見た。やがて彼は蜀にとって油断のならぬ存在になろう。折あらば、かならず討ってしまわねばならない害敵の一人だ」
一方、魏の本陣では、この惨退を知った司馬懿仲達が、手を額にあて、色を失って、
「またわが考えの先を越されていたか。――孔明の用兵は、まさに神通のものだ。凡慮を超えている」と、その敵たることを忘れて、ただただ嘆じていたということである。いわゆる肚の底から「負けた」という感じを抱いたものだった。
「――さもあらばあれ、彼も人なり、我も人なり、司馬懿仲達ともあるものが、いかでこれしきの敗れに屈せんや」と、彼は自らの気を振って、さらに心を落着け、昼夜、肝胆を練りくだいて、次の作戦を案じていた。
序戦二度の大捷に、蜀軍は大いに士気を昂げたばかりでなく、魏軍の豊かな装備や馬匹武具などの戦利品も多く獲た。けれど、司馬懿の軍は、それきり容易にうごかなかった。
孔明もやむなく滞陣のまま半月の余を過した。孔明は託ち顔に、
「うごく敵は計り易いが、全くうごかぬ敵には施す手がない。かかるうち味方は運送に、兵糧の枯渇に当面しては、自然、形勢は逆転せざるを得まい。はて、何とすべきだろうか」
幕々の諸将と評議していると、そこへ成都から費褘が勅使として下ってきた。