鶏肋

 ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。
「ここに斜谷の天嶮あり、ここに北夷を平げて、勇気凜絶の新手五万あり、加うるに、わが次男曹彰は、武力衆にすぐれ、この父の片腕というも、恥かしくない者である。こう三つの味方を得た以上は、盛りかえして、玄徳をやぶることも、掌中の卵をつぶすようなものだ。いざ斜谷に拠って、このあいだからの敗辱を一戦にそそごうではないか」
 かくて、戦の様相は、ここにまたあらたまって、両軍とも整備と休養を新たにし、第二次の対戦となった。
 玄徳は、諸将と共に、陣前に出て云った。
「おそらく曹操は、こんどの序戦に、わが子曹彰を自慢にして出すだろう。そのとき曹彰を迎えて、一撃に討ち、彼の気をくじくならば魏の雑兵何万をころすよりも、この戦局を一変し得るが……。たれが曹彰の首を完全に挙げられるだろうか」
「それがしこそ」
「いや、わたくしが」
 ひとしく進み出たのは、孟達劉封だった。
 が――孟達は、劉封も望んで出たので、ちょっと、遠慮する容子を示した。劉封は、玄徳の養子。曹彰曹操の実子。――これは劉封としてはぜひとも買って出たい名誉の一戦であろうと斟酌したからである。
 しかし玄徳は、将に対しても士に対しても、公平を期しているものの如く、劉封がわが家の養子だからといって特に彼ひとりを選ぶようなことはしなかった。
「では、二人に命じる。おのおの五千騎をひきいて、先鋒の左右にひかえ、曹彰が出てきたら思い思いに功名をせい。その働きによって恩賞するであろう」
「ありがとう存じます」
 若い二人は勇躍して、おのおの五千騎を擁して、先頭の左右両翼に陣していた。
 果たせるかな、やがて陣鼓堂々、斜谷に拠っている敵方の一軍が平野へ戦列を布いたかと思うと、ただ一騎、その陣列を離れて、
「玄徳はいるか。魏王の次男曹彰とは我である。父に代って一戦せん。玄徳、これへ出よ」
 と、大声あげて、さしまねいている若武者がある。遠目に見ても眩いばかりな扮装は、いうまでもなく曹家の御曹司曹彰にちがいはない。
 孟達は、左翼から出ようとしたが、まず養子の劉封にここは譲るべきだと思ってひかえていた。すると右陣の劉封は、父玄徳の威をうしろに負って、これも華やかな鎧甲を誇りながら、たちまち駒を飛ばして出た。
 だが、曹彰の前に近づいて、十合とも戦わないうちに、その一騎討ちは、誰の眼にも、曹彰の勝利と分った。劉封の武芸は、とうてい、曹彰の相手ではなかったのである。
 孟達は、急に駈け出して、
「封君。その敵は、それがしが引きうけた。お退きあれ」
 と、入れ代って、自身、曹彰にぶつかった。
 劉封は、一言もいわず、うしろを見せて、逃げ走っていた。曹彰は、孟達の邪魔を、振りのけながら、
「逃げるのか劉封。養父の玄徳を嘲ってやるぞ。親の顔へ泥を塗ってもいいのか」
 と辱めながら追いかけた。
 ところが、彼のひきいる魏の手勢が、うしろのほうから崩れだした。驚いて引っ返すと、蜀の呉蘭、馬超などが、いつのまにか斜谷のふもとへ出て、退路を断とうとしているらしい。
 曹彰は、父に似て、兵機をみるに敏だった。すでに多少の損害をうけたが、その禍いのまだ致命とならない間に、さっと軍をまとめ、敵将呉蘭の陣中を突風のごとく蹴ちらして、首尾よく斜谷の本陣へ引揚げてしまった。しかもその途中、道をさえぎる敵将の呉蘭を、馬上のまま一閃に薙ぎ払い、悠々迫らず帰ってきた武者ぶりは、さすが豹の子は豹の子、父曹操の若い頃を偲ばせるほどのものがあった。

 劉封は面目を失った。養父の玄徳にあわせる顔もない気がした。しかし孟達に対しては、
「自分の負けが、よけいぶざまに見えたのは、彼が横から出しゃ張って、曹彰を追いのけたせいもある」と、変な妬みを抱いた。
 以来、劉封孟達とは、なんとなく打ち解けない仲になった。劉封は武勇に乏しいのみか器量においても玄徳の養子というには多分に欠けているものがあった。
 しかし曹操のほうでも、序戦以後は、日ごとに士気が衰えて行った。一曹彰が一劉封に勝ったと一時は歓んでみても全面的には、刻々憂うべき戦況にあったのである。蜀の張飛、魏延、馬超黄忠趙雲などという名だたる将は、陣をつらねて、斜谷の下まで迫っていた。
 曹彰も、劉封には勝ったが、それ以後の合戦に出るたびごとに、蜀の猛将たちから目のかたきに追いまわされ、手も足も出せなかった。
 ここは都に遠い斜谷陝西漢中西安との中間)の地。もしこれ以上の大敗を喫して、多くの将士を失うときは、本国まで帰ることすら甚だ覚つかないことになろう。――曹操も重なる味方の敗色につつまれて、心中悶々たるものがあった。
「兵を収めて、鄴都へ帰らんか、天下のもの笑いになるであろうし、止まって、この斜谷を死守せんか、日ごとに蜀軍は勢いを加え、ついにわが死地とならんもはかり難い……」
 こよいも彼は、関城の一室に籠って、ひとり頬杖ついて考えこんでいた。
 ところへ、膳部の官人が、
「お事を……」と、畏る畏る膳を供えてさがって行った。
 曹操は思案顔のまま喰べはじめた。温かい盒の蓋をとると、彼のすきな鶏のやわらか煮が入っていた。
 喰らえども味わいを知らずであろう。彼は鶏の肋をほぐしつつ口へ入れていた。
 すると、夏侯惇が、帳を払って、うしろに立ち、
「こよいの用心布令は、何と布令ましょうか」と、たずねた。
 これは毎夕定刻に、彼の指令を仰ぐことになっている。つまり夜中の警備方針である。曹操は何の気なしに、
「鶏肋鶏肋」と、つぶやいた。
 鶏の骨をしゃぶっていたので、無意識に云い違えたものだろう。だが、夏侯惇は、曹操の言なので、何か含蓄のある命令にちがいないと呑みこんでしまい、
「はっ」と、そこを退がるや、城中の要所要所を巡って警固の大将たちへ、
「こよいの用心布令は鶏肋との仰せである。鶏肋鶏肋」
 と、布令廻った。
 諸将は怪しみ合った。鶏肋とはいったいなんのことか? 誰にも解けない。諸人は疑義まちまち、当惑するばかりだった。ときに行軍主簿の楊修だけは、部下をあつめて、
「都へ帰る用意をせい。荷駄行装をととのえて、お引揚げの命を待て」と、急にいいつけた。
 夏侯惇はおどろいた。自分が布令たことであるが、実は自分にも分っていないので、早速、楊修に向って訊いた。
「どういうわけで、貴公の隊ではにわかに引揚げの用意にかかられたか」
「されば、鶏肋というお布令を案じてのことでござる。それ鶏の肋は、これをらわんとするも肉なく、これを捨てんとするも捨て難き味あり、いま直面している戦は、あたかも肉なき鶏の肋を口にねぶるに似たりとの思し召かと拝察いたす。それにお気づきあるからには、わが魏王も益なき苦戦は捨てるに如かずと、はやご決心のついたものと存ずる」
「なるほど」
 夏侯惇は感服して、おそらく魏王の肺腑を見ぬいた言であろうと、ひそかにその旨をまた諸将へ告げた。

 その夜も曹操は、心中の煩乱に寝もやられず、深更、みずから銀斧を引っさげて、陣々の要害を見廻っていた。
夏侯惇はいないか」
 彼はもってのほか愕いた顔している。馳けつけて来た夏侯惇のすがたを見るや否やこう訊ねた。
「諸将の部下どもは、なんでにわかに引揚げの支度をしておるのか。いったい誰が、軍旅の荷駄をまとめよなどと命令したか」
「主簿の楊修が、わが君の御心を察して、かくは一同、用意にかかりました」
「なに、楊修が。――楊修をこれへ呼べ」
 斧の柄を杖に立てて、曹操はけわしい眉をしていた。楊修はやがてその前に平伏して、
「こよいの用心布令は鶏肋との仰せ出しなりと伺い、諸人お心の中を測りかねて難儀しておりましたゆえ、それがしがおことばのご意中を解いて、人々に引揚げの用意あってしかるべしと申しました」
 と、憚りなくいった。
 自分の胸奥を鏡にかけたように云いあてられて、曹操はひどく惧れた。かつ不機嫌甚だしく、
「鶏肋とは、その意味で申したのではない。慮外者め」
 と、一喝したのみか、直ちに夏侯惇をかえりみて、軍律を紊せる者、即座に首を打てと命じた。
 暁寒き陣門の柱に、楊修はすでに首となって梟けられていた。昨夜の才人も、今朝は鳥の餌に供えられている。
「ああ、儚い哉」
 さすが武骨の将たちも、慄然として、曹操の冷虐な感情におぞ毛をふるい、また楊修の才を悼んだ。
 実に、楊修の一代は、才をもって彩られていた。しかしその豊かな才も、あまりに曹操の才能をも越えて、常に曹操をして、怖れしめていたため、かえって、彼の忌み憎むところとなっていた。
 かつて、こういう事もあった。――鄴都の後宮に一園を造らせ、多くの花木を移し植えて、常春の園ができあがった。……というので曹操は、一日その花園を見に出かけた。
 曹操は、善いとも悪いともいわなかった。ただ帰る折に、筆を求めて、門の額をかける横木へ「活」の一字を書いて去った。
(どういう思し召だろう)
 造庭師も諸官の者も、ただ首を傾けて、曹操の意中を惧れあうばかりだった。
 そこへ楊修が通りかかった。人々が彼に当惑を告げると、楊修は笑って、
「何でもない事ではありませんか。魏王のお胸は、花園にしては余りにひろすぎるからもっとちんまり造り直せというご註文にちがいない――なぜかとお訊ねか。はははは。門の中に活という文字をかけば、即ち闊となるでしょう」
(なるほど)
 皆、感心してすぐ庭を造り直し、再度曹操の一遊を仰ぐと、曹操もこんどはひどく気に入ったらしく、
(たれが自分の心を酌んでこう直したのか)
 と、たずねた。――で、庭造りの役人が、
楊修にて候)
 と答えると、曹操は急に黙って、喜ぶ色を潜めてしまった。
 なぜというに、楊修の才には、曹操もほとほと感心しながら、余りに、自分の意中をよく読み知るので、その感嘆もいつか妬みに似た忌避となり、遂には彼の才能にうるさいような気持を抱くようになっていたからである。
 魏王の位についてからの曹操は当然、次の太子は誰に譲ろうかと、わが子をながめていた。ある時、彼は侍側の臣に命じて、
(明日、長男の曹丕と、三男の曹子建とを、鄴城へ招き呼ぶが、ふたりが城門へ来たら、決して通すな)といいつけておいた。
 曹丕は、門で拒まれた。兵隊たちに峻拒されて、やむなく後へ帰ってしまった。
 次に曹子建が来た。同じように関門の将士が、通過を拒むと、
(王命を奉じて通るに何人か我を拒まん。召しをうけて行くは弦を離れた箭の如きもので、再び後へかえることを知らぬ)と、云い捨てて通ってしまった。
 曹操は聞いて、さすがは我が子だと、大いに子建を賞めたが、後になって、それは子建の学問の師楊修が教えたものだとわかり、がっかりすると共に、
(よけいな智慧をつけおる)と、彼の才に、その時も眉をひそめた。

 また楊修は「答教」という一書を作って曹子建に与え、
(もし父君から何か難しいお訊ねのあったときは、これをご覧なさい)
 と、いっていた。答教のうちには、父問三十項に対する答がかいてあった。
 こういう風に、曹子建には、楊修のうしろ楯があったので長男の曹丕よりは、何事にまれ勝れて見えたが、やがて自分こそ、当然、太子たらんとしている曹丕は、心中大いに面白くなく、事ごとに楊修を父に讒していた。
(父子、世嗣の問題にまで、才気をさし挟むはいかに才ありとも、奸佞の臣たるをまぬかれぬ。いつかは、誅すべきぞ)と曹操の胸には、ひそかに誓っていたものがあったのかも知れない。何にしても、才人才に亡ぶの喩にもれず、楊修の死は、楊修の才がなした禍いであったことに間違いはない。要するに、彼の才能は惜しむべきものであったが、もう少しそれを内に包んで、どこか一面は抜けている風があってもよかったのではあるまいか。
 けれど、楊修の言は、楊修が死んでから三日とたたないうちに、そのことばの理由ある所以を現わし、魏の諸将をして、「鶏肋」の解釈をふたたび想い起させた。
 蜀軍は、その日も次の日も、斜谷の陥落もはや旦夕にありとみて、息もつかず攻めたてていたのである。
 ことに、最後の日は、両軍の接戦、惨烈を極めて、曹操自身も、乱軍の中に巻きこまれ、蜀の魏延と刃を交えているうちに、
斜谷の城中から、裏切者が火の手をあげた」
 という混乱ぶりであった。
 だが、魏の陣中からあがった火の手は、裏切りがあってのことではなく、蜀の馬超が、斜谷の嶮をよじ登って、ふいに搦手から関内へ攻めこみ、後方攪乱の策に出た結果だった。
 しかし城を出て戦っていた魏軍の狼狽はひと通りでない。
「すわ、総くずれだ」と、後方の騒動に前軍も混乱して、まったく統一を失い、収拾もつかぬ有様に、曹操は剣を抜いて味方の上に擬し、
「誰にもあれ、みだりに陣地を捨て、背を見せて退く者は、立ちどころに斬るぞ」と、督戦した。
 しかしその姿を見て、蜀の魏延、張飛などが、
「我こそ、彼の首を」と、喚きかかるし、退こうとすれば、部下を督戦して叫んでいる自己の言を裏切るものだし、曹操もまた自縄自縛に陥ってしまうような苦戦だった。
 かくと見て、曹操のそばへ、馬をとばして助けにきたのは龐徳だった。剛雄魏延を身にひきうけて、
「いざ、今のうちに、一方の血路をひらいて、早々落ちたまえ」と主の前に立ちふさがり、魏延の手勢、張飛の部下など、入れ代り立ち代り寄りたかって来る敵を、わき目もふらず防いでいた。
 すると後ろであッという声がした。まさしく曹操の発したものである。龐徳はむらがる敵を蹴ちらして、
「如何なされましたぞ」と、曹操のいるところへ駈け戻ってきた。
 曹操は落馬していた。のみならず両手をもって、口を抑えていた。
 遠矢に面を射られて、二枚の前歯を欠いたのである。ために顔半分から両の手まで鮮血にまみれていた。
「軽傷です。お気をたしかにおもちなさい」
 龐徳は、彼を馬上に抱えて、乱軍の中から落ちて行った。
 すでに斜谷関城は、全面、焔につつまれ、山々の樹木まで焼けつづけている。
 魏軍は完敗した。今さらのごとく楊修のことばを思い出し、
(あのとき引揚げていたら――)と、思うもの、ただ魏の将士のみではなかった。
 曹操の面部は腫れあがり、金瘡は甚だ重かった。彼は、その病躯を氈車のなかに横たえ、敗戦の譜いたましく、残余の兵をひいて帰った。
 その途中、
「……そうだ。楊修の屍は捨ててきたが、何か遺品はあるだろう。どこかへ篤く葬ってやりたいものだ」
 氈車の中で、うわ言のように呟いていた。
 さらに、また来ると、途中を邀して待ちかまえていた蜀軍が、曹操の首をとらんと、猛烈に包囲して来た。車はようやく京兆府まで逃げ走ったが、一時は曹操も、ここに死すかと、観念の眼をふさいでいたようであった。

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