出廬

 十年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。
 玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。
 孔明は、やがて云った。
「もし将軍が、おことばの如く、真に私のような者の愚論でもおとがめなく、聴いて下さると仰っしゃるなら、いささか小子にも所見がないわけでもありませんが……」
「おお。ねがわくは、忌憚なく、この際の方策を披瀝したまえ」
 と、玄徳は、襟をただす。
「漢室の衰兆、蔽いがたしと見るや、姦臣輩出、内外をみだし、主上はついに、洛陽を捨て、長安をのがれ給い、玉車に塵をこうむること二度、しかもわれら、草莽の微臣どもは、憂えども力及ばず、逆徒の猖獗にまかせて現状に至る――という状態です。ただ、ただ今も失わないのは、皎々一片の赤心のみ。先生、この時代に処する計策は何としますか」
 孔明は、いう。
「されば。――董卓の変このかた、大小の豪傑は、実に数えきれぬほど、輩出しております。わけても河北袁紹などは、そのうちでも強大な最有力であったでしょう。――ところが、彼よりもはるかに実力もなければ年歯も若い曹操に倒されました」
「弱者がかえって強者を仆す。これは、天の時でしょうか。地の利にありましょうか」
「人の力――思想、経営、作戦、人望、あらゆる人の力によるところも多大です。その曹操は、いまや中原に臨んで、天子をさしはさみ、諸侯に令して、軍、政二つながら完きを得、勢い旭日のごときものがあり、これと鉾を争うことは、けだし容易ではありません。――いや。もう今日となっては、彼と争うことはできないといっても過言ではありますまい」
「……ああ。時はすでに、去ったでしょうか」
「いや。なおここで、江南から江東地方をみる要があります。ここは孫権の地で、呉主すでに三世を歴しており、国は嶮岨で、海山の産に富み、人民は悦服して、賢能の臣下多く、地盤まったく定まっております。――故に、呉の力は、それを外交的に自己の力とすることは不可能ではないにしても、これを敗って奪ることはできません」
「むむ。いかにも」
「――こうみてまいると、いまや天下は、曹操孫権とに二分されて、南北いずれへも驥足を伸ばすことができないように考えられますが……しかしです……唯ここにまだ両者の勢力のいずれにも属していない所があります。それがこの荊州です。また、益州です」
「おお」
荊州の地たるや、まことに、武を養い、文を興すに足ります。四道、交通の要衝にあたり、南方とは、貿易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いわゆる天府の地ともいいましょうか。――加うるに、今、あなたにとって、またとなき僥倖を天が授けているといえる理由は――この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子劉琦劉琮も、凡庸頼むに足りないものばかりです。――益州四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋は、至って時代にくらく、性質もよくありません。妖教跋扈し、人民は悪政にうめき、みな明君の出現を渇望しております。――さあ、ここです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有して、天下に臨まんか、初めて、曹操とも対立することができましょう。呉とも和戦両様の構えで外交することが可能です。――さらに、竿頭一歩、漢室の復興という希望も、はや、痴人の夢ではありません。その実現を期することができる……と、私は信じまする」
 孔明は、細論して余すところなかった。かくその抱負を人に語ったのは、おそらく今日が初めてであろう。

 孔明の力説するところは、平常の彼の持論たる
 =支那三分の計=であった。
 一体、わが大陸は広すぎる。故に、常にどこかで騒乱があり、一波万波をよび、全土の禍いとなる。
 これを統一するは容易でない。いわんや、今日においてはである。
 いま、北に曹操があり、南に孫権ありとするも、荊州益州の西蜀五十四州は、まだ定まっていない。
 ちと、遅まきながら、起つならば、この地方しかない。
 北に拠った曹操は、すなわち天の時を得たものであり、南の孫権は、地の利を占めているといえよう。将軍はよろしく人の和をもって、それに鼎足の象をとり、もって、天下三分の大気運を興すべきである――と、孔明は説くのであった。
 玄徳は、思わず膝を打って、
「先生の所説を伺い、何かにわかに、雲霧をひらいて、この大陸の隈なき果てまで、一望に大観されてきたような心地がします。益州の精兵を養って、秦川に出る。ああ、今までは、夢想もしていなかった……」と、その眸は、将来の希望と理想に、はや燃えるようだった。
 この時、孔明は、童子を呼んで、
「書庫にあるあの大きな軸を持ってきて、ご覧に入れよ」と、命じた。
 やがて童子は、自分の背丈よりも長い一軸を抱えてきて、壁へかけた。
 西蜀五十四州の地図である。
 それを指して、
「どうです、天地の大は」
 と、孔明は世上に血まなことなっている人々の、瞳孔の小ささをわらった。
 ――が、玄徳は、ここに唯ひとつのためらいを抱いた。それは、
荊州劉表といい、益州劉璋といい、いずれも、自分と同じ漢室の宗親ですから、その国を奪うにしのびません。いわゆる同族相せめぐの誹りも、まぬがれますまい」という点であった。
 孔明の答は、それに対して、すこぶる明確なものだった。
「ご心配には及びません」と、彼は断じるのである。
劉表の寿命は、早晩、おのずからつきるでしょう。かれの病はかなり篤いと、襄陽のさる医家から、耳にしています。痼疾がなくても、すでに年齢が年齢ではありませんか。その子たちは、これまた、いうに足りません。一方、益州劉璋は、なお健在なりとはいえ、その国政のみだれ、人民の苦しみ、誰か、それを正すを、仁義なしといいましょう。むしろ、そういう塗炭の苦しみを除いて、民土に福利と希望を与えてやるこそ、将軍のご使命ではありませんか。――然らずして、あなたが、天下に呼号し、魏・呉を向うにまわして、鼎立を計る意義がどこにありまするか」
 一言のもとに、玄徳は心服して、その蒙を謝し、
「いや、よく分りました。思うに、愚夫玄徳の考えは、事ごとに、大義と小義とを、混同しているところから起るものらしい。豁然と、いま悟られるものがあります」
「総じて、みな人のもっている弱点です。将軍のみではありません」
「ねがわくは、どうか、朝夕帷幕にあって、遠慮なく、この愚夫をお教え下さい」
「いや」と、孔明は、急にことばをかえて云った。
「今日、いささか所信を述べたのは、先頃からの失礼を詫びる寸志のみです。――朝夕お側にいるわけにはゆきません。自分はやはり分を守って、ここに晴耕雨読していたい」
「先生が起たれなければ、ついに漢の天下は絶え果てましょう。ぜひなきこと哉」
 と、玄徳は落涙した。

 至誠は人をうごかさずにおかない。玄徳は天下の為に泣くのであった。その涙は一箇のためや、小さい私情に流したものではない。
「…………」
 孔明は、沈思しているふうだったが、やがて唇を開くと、静かに、しかし力づよい語韻でいった。
「いや、お心のほどよく分りました。もし長くお見捨てなくば、不肖ながら、犬馬の労をとって、共に微力を国事に尽しましょう」
 聞くと、玄徳は、
「えっ。では、それがしの聘に応じて、ご出廬くださいますか」
「何かのご縁でしょう。将軍は私にめぐり会うべく諸州をさまよい、私は将軍のお招きを辱のうすべく今日まで田野の廬にかくれて陽の目を待っていたのかも知れません」
「余りにうれしくて、何やら夢のような心地がする」
 玄徳は、関羽張飛を呼んで仔細を語り、また供に持たせてきた金帛の礼物を、
「主従かための印ばかりに」と、孔明へ贈った。
 孔明は辞して受けなかったが、大賢を聘すには礼儀もある。自分の志ばかりの物だからといわれて、
「では、有難く頂きましょう」
 と、家弟の諸葛均にそれをおさめさせた。
 孔明は、それと共に、弟の均へ、こう云いふくめた。
「たいして才能もないこの身に対して、劉皇叔には、三顧の礼をつくし、かつ、過分な至嘱をもって、自分を聘せられた。性来の懦夫も起たざるを得ぬではないか。――兄はただ今より即ち皇叔に附随して新野の城へゆくであろう。汝は、嫂をいつくしみ、草廬をまもって、天の時をたのしむがよい。――もし幸いに、功成り名をとげる日もあれば、兄もまたここへ帰ってくるであろう」
「はい。……その日の来るのを楽しみに、留守をしております」
 均は、つつしんで、兄の旨を領諾した。
 その夜、玄徳は、ここに一泊し、翌る日、駒を並べて、草庵を立った。
 かくて岡を降ってくると――前の夜にこの趣を供の者が新野に告げに行ったとみえて、――迎えの車が村まできていた。
 玄徳は孔明とひとつ車に乗り、新野の城内へ帰る途中も、親しげに語り合っていた。
 このとき孔明は二十七歳、劉備玄徳は四十七であった。
 新野に帰ってからも、ふたりは寝るにも、室を共にし、事をするにも、卓をべつにしたことがない。
 昼夜、天下を論じ、人物を評し、史を按じ、令を工夫していた。
 孔明が、新野の兵力をみると、わずか数千の兵しかない。財力もきわめて乏しい。そこで劉備にすすめた。
荊州は、人口が少ないのでなく、実は戸籍にのっている人間が少ないのです。ですから、劉表にすすめて、戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れて、非常の際は、すぐ兵籍に加え得るようにしなければいけません」といった。
 また自分が、保券の証人となって、南陽の富豪大姓黽氏から、銭千万貫を借りうけ、これをひそかに劉備の軍資金にまわして、その内容を強化した。
 とまれ、孔明の家がらというものは、その叔父だった人といい、また現在呉に仕えている長兄の諸葛瑾といい、彼の妻黄氏の実家といい、当時の名門にちがいなかった。しかも、孔明の誠実と真摯な人格だけは、誰にも認められていたので――彼を帷幕に加えた玄徳は――同時に彼のこの大きな背景と、他方重い信用をも、あわせて味方にしたわけである。
 遠大なる「天下三分の計」なるものは、もちろん玄徳と孔明のふたりだけが胸に秘している大策で、当初はおもむろに、こうしてその内容の充実をはかりながら、北支・中支のうごき、また、江西江南の時の流れを、きわめて慎重にながめていたのであった。

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