休戦
一
曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に陥る。
いまや、濡須の流域をさかいとして、魏の四十万、呉の六十万、ひとりも戦わざるなく、全面的な大激戦を現出したが、この、天候が呉に利さなかったといえ、呉は主将孫権の軽忽なうごきによって、その軸枢をまず見失い、彼自身もまた、まんまと張遼、徐晃の二軍に待たれて、その包囲鉄環のうちに捉われてしまった。
曹操は小高い阜の上から心地よげに見ていた。
「今ぞ。孫権を擒にするのは」
それは自分を励ました声と、許褚は彼のそばを去るや否、馬をとばして、そこへ馳けつけ、叫喚一声、血漿けむる中へ躍り入った。
呉兵の死屍はいやが上にも累々と積まれて行った。ために、濡須の流れも紅になるかと怪しまれ、あまりの惨状に、主将孫権のすがたすら、どこにいるのか誰が誰なのか見分けもつかぬばかりだった。
呉の一将周泰は、その中をよく奮戦して、一方に血路をひらき、河流の岸までのがれて来たが、顧みると、主君孫権はなお囲みから出ることができず、彼方にあって揉みつつまれている様子。
「周泰はここにいますっ。周泰はこれにありっ。早く此方へ来給え」
呼ばわりつつ、周泰は敵の背後へまわって、その包囲を脅かし、一角の崩れを見ると、
「いざ、いざ、こうなっては、何事もあとに任せて」
と、孫権と駒を並べ、ほとんど、わき目もふらず、敵の矢道を走り抜けた。
そこへ折よく、呂蒙の一軍が、中軍の大敗を案じて引っ返して来た。周泰は、
「舟をっ。舟をっ」と水へ向って声を嗄らし、ともあれ孫権を、舟へ移した。
けれど、あとの戦場は、なお土煙や血煙に、濛々としている。孫権は、悲痛な声してさけんだ。
「徐盛はどうしたろう! 徐盛は……?」
「見て来ましょう」
周泰は、ふたたび戻って、むらがる魏の人馬の中へ、没していった。孫権は、思わず、ああと、嘆賞して、
「自分を救い出すため、血路をひらいては、またあとへ戻ること三度。さらにまた、徐盛を助けるために、敢然、死地へ入って行った。――天よ、わが忠勇の士に、加護をたれ給え」
眉をふさいで、祷るが如く、しばしそこに待っていた。
周泰は帰ってきた。しかも徐盛を扶けて。
けれど二人とも、満身朱にまみれ、そこの水際まで来ると、「残念」といいながら、はや歩む力もなく坐ってしまった。
呂蒙はその間に、射手百人の弓陣を布いて、追い迫ってくる敵を喰いとめ、さらに、その弓陣を、船上に移し、孫権の身を守りながら、徐々と下流へ退陣した。
ここに悲壮な討死をとげたのは、呉の陳武だった。彼は龐徳の勢につつまれて、退路を失い、次第に山間の狭隘へ追いこまれた末、ついに龐徳と闘って首をとられた。それも鎧の袖を灌木の枝にからまれて、あなやという間に、最期の善戦も充分にせず、龐徳の一撃に討たれたのであった。
曹操は、前夜、自己の中軍を攪乱された不愉快な思いを、きょうは万倍にもして取り返した。孫権がわずかな将士に守られて、濡須の下流へ落ちて行くと見るや、
「あれ見失うな」と、自身江岸に沿って、士卒を励まし、数千の射手に、絶好な的を競わせたが、この日の風浪は、この時には孫権の僥倖となって、矢はことごとく黒風白沫にもてあそばれ、ついに彼の身にまでとどく一矢もなかった。
その上、いよいよ広やかな河の合流点まで来ると、本流長江のほうから呉の兵船数百艘がさかのぼって来た。これなん一族の陸遜がひきいて来た十万の味方だった。
孫権は初めて蘇生の思いをなした。
二
十万の味方を見ても、孫権以下の諸将は、みな重軽傷を負っているので、
「きょうの戦もこれまで」
と、退くことしか考えていなかったが、陸遜は、断じて、その唸きに活を入れた。
「このまま総退軍しては、曹操は呉に対して、いよいよ必勝の信念を持つ。また味方の兵も、魏は強しと、ふかく彼を恐れ、勝ちを忘れるにいたるであろう。――退くにせよ、呉にもなお後備の実力のあることを示してからでなければならん」
陸遜は壮語して、孫権や重傷者は船中にのこし、その余の残兵にこれを守らせておき、新手の十万をすべて岸へ上げて、呉のために死せよと命令した。
まず、曹操は、この新手の堅陣が射る確かな矢風に射立てられ、
「こはそも如何に」
形勢の悪化に、狼狽せざるを得なかった。
「敵はみだれ出したぞ」
陸遜は、彼の怯み立った一刹那、総突撃を敢行した。果然、十万の兵は、背を見せる魏兵へ咬みついた。突く、蹴る、刺す、撲る、踏みつぶす、折重なる、組み合ったまま水へ溺れる。
何しても、その兵数において、その新手の精気において、陸遜軍は圧倒的にすぐれていた。打ち取った盔首だけでも七百余級、雑兵に至ってはかぞえるにもかぞえきれない。分捕りの馬匹だけでも千余頭あった。
かくて陸遜は、魏の勢を遠く追って、完全なる呉の勝利を取りかえしたばかりでなく、きょう孫権が大敗した戦場まで行って、味方の死体や旗やおびただしい陣具まできれいに収容して来た。
その結果、部下の陳武は討たれ、董襲は水中に溺れ、そのほか日頃の寵臣も無数に亡き数に入ったのを知って、孫権は声をあげて哭き、
「せめて、董襲の死骸なりともさがし求めよ」
と、水練に長じた者を入れて、その屍を求め、篤く船中に祭って、引揚げたという。
さて、濡須城に帰るや、彼はまた一日、営中に宴をもうけて、みずから盃を取り、
「周泰。汝は呉の功臣だぞ。今日以後、われは汝と栄辱を倶にし、生命のあるかぎりこの度の働きは忘れない」
と云い、その盃を彼の手に持たせた。
そしてまた、
「先頃の傷はどんなか」と、肌を脱がせて、その痕を見た。周泰は、大勢の中なのではばかったが、主命のままに肌を脱いで示した。見れば満身縦横に腫れている創口は、まだ熱と紅色をふくんで、触るるもいたましいばかりである。
「ああ、この創痕の一つ一つがみな汝の忠魂と義心を語っている。みなも見よ。武人の亀鑑を」
と、孫権は周泰の背をなでて、果てしなく彼の誠をたたえた。
彼は、周泰の功を平常にも耀かすべく、羅の青い蓋を張らせ、「陣中に用いよ」と与えた。
もちろん陸遜以下そのほかの諸将にも、各〻、恩賞は行われ、依然、濡須の堅塁を誇って、
「呉の強さはかくの如し。北国の魏賊、何かあらん」
と、全軍の末輩にいたるまで、意気いよいよ昂かった。
対陣一ヵ月の余になった。
曹操は、そのあいだみだりに動かなかったが、黙々と、戦備を充実し、兵力を加え、さらに大規模な次期の作戦をえがいているように思われた。
呉の老臣、張昭がいった。
「決して、楽観をゆるしません。何といっても、曹操は曹操です。如かず、歩のよいところで、和議をおはかりあっては」
孫権のほうから、やがて歩隲が、その使いに立った。曹操も、この辺がしおどきと考えたか、
「中央の府に対し、毎年、貢ぎを献じるというならば」と案外、受けやすい条件を出して答えたので、和睦はたちまちまとまった。
けれど、真の平和の到来でないことは、魏にも呉にも分っていた。曹操は全軍を引いて都へ帰り、孫権は秣陵へ引揚げたものの、その前線濡須の口も、魏の境界、合淝の守りも、双方ともいよいよ堅固に堅固を加え合うばかりだった。