女傑

 孔明は五度孟獲を放した。
 放つに際して、
「汝の好む土地で、汝の望む条件で、さらに一戦してやろう。しかしこんどは、汝の九族まで亡ぼすかも知れないぞ。心して戦えよ」といった。
 弟の孟優も朶思大王も、同時に免した。三名は馬を貰って、愧ずるが如く、逃げ帰った。
 そもそも、孟獲の本国、南蛮中部の蛮都は、雲南昆明)よりはもっと遥か南にあった。そして、蛮都の地名を銀坑洞とよび、沃野広く三江の交叉地に位置しているという。
 これを現今の地図で測ると、もとより千七百年前の地名は遺されていないが、南方大陸の河流から考察するに、仏領印度支那メコン河の上流、また泰国のメナム河の上流、ビルマサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょうど孔明の遠征した当時の蛮界をつらぬいているのではないかと思われる。
 それと当年の蛮都を写している原書三国志の記述を見ても――

 コノ地銀坑山ト曰ウハ、瀘水、甘南水西城水ノ三江繞リ、地平ラカニシテ北千里ガ間ハ万物ヲ多ク産シ、東三百里ニシテ塩井アリ、南三百里ニシテ梁都洞アリ、南方ハ高山ニシテ夥シク白銀ヲ産ス。
 故ニ都ヲ銀坑洞ト称シ、南蛮王ノ巣トシ、宮殿楼閣悉ク銀映緑彩、人ハミナ羅衣ニシテ烈朱臙脂濃紫黄藍を翻シ、又好ンデ、橄欖ノ実ヲ噛ミ、酒壺常ニ麦醸果酵ヲ蓄ウ。
 宮殿裡、一祖廟ヲ建テ、号シテ家鬼ト敬イ、四時牛馬ヲ屠シテ、之ヲ祭ルヲ卜鬼ト名ヅケ、年々外国人ヲ捕エテ牲エニ供ウ。採生の類略〻カクノ如シ。

 等としてある。
 要するに現今のビルマ仏印雲南省境のあたりと想像して大過なかろうかと思う。
 孟獲がその蛮都たる中部を離れて、孔明の遠征軍をわざわざ貴州広西省境あたりから迎えて、悪戦劣戦を重ねたのも、要するに彼が示唆してうごかした蜀境地方の太守や諸洞の蛮将たちに対して、自ら陣頭に立たざるを得なかった情勢に引かれたためで、本来の彼の彼たる実力の発揮は、孟獲も豪語して孔明にいった如く、ここの蛮都三江の要害に拠って戦うこそ彼の本分でもあり望みでもあったことだろう。
 今やその孟獲はついに敗れ敗れて、望むところの蛮都まで帰ってきた。
 緑沙銀壁の蛮宮には、四方の洞主や酋長が数千人集まって、まさに世界滅亡の日でも来たような異変を語っていた。ほとんど蛮土開闢以来の大評議で、日々、議を重ねていたが、ときに孟獲夫人の弟にあたる八番部長の帯来が、
「これは西南の熱国に威勢を振るっている八納洞長の木鹿王に力を借りるしかない。木鹿王はいつも大象に乗って陣頭に立ち、立つやふしぎな法力を以て、風を起し、虎豹、豺狼、毒蛇、悪蝎などの類を眷族のように従え敵陣へ進む。また手下には、三万の猛兵があって、今やこの王の武威は隣界の天竺をもおそれさせている。――で久しく、わが蛮都とは対立していたが、こちらから礼をひくうし礼物を具え、蛮界一帯の大難をつぶさに訴えれば、彼も蛮土の人、かならず加勢してくれるにちがいない」と提唱した。
 これには満堂双手を挙げて賛礼した。
「では、汝が使いに行け」と孟獲の命で、帯来は直ちに、西南の国へ使いに立った。おそらくは現今のビルマ印度地方の一勢力であったろう。
 銀坑山の蛮宮の前衛地として、三江の要地に、三江城がある。孟獲は、そこへ朶思大王を籠めて、前衛の総大将たることを命じた。

 蜀の大軍は日を経て三江に着いた。実に長途を克服して来たことは戦い以上の戦いであったろう。
 三江の城は三面江水に続き、一面は陸に続いている。孔明はまず魏延と趙雲の兵に命じて城下へ迫らせ、一当て当ててみたが、さすがに城は固く、蛮軍とはいえここの兵もまた精鋭であった。
 城壁の上には無数の弩を据えている。それは一弩に十箭を射ることができ、鏃には毒が塗ってあるので、これにあたると、負傷ということはない。みな皮肉爛れ五臓を露出して死ぬのである。
 攻撃三回に及んだが、四度目に孔明は、さっと十里ほど総陣地をひいてしまった。退くことの綺麗さと逃げることをなんとも思っていない点とは孔明の戦法の一性格といえる。
「蜀兵は毒弩を怖れて陣を退いた」
 南蛮軍は誇り驕った。
 兵法は叡智であり文化である。民度の高さもそれで分る。七日十日と日を経るに従って、彼らの単純な思い上がりは、
孔明などといっても多寡の知れたものだ」と、いよいよ敵をみくびってきた。
 孔明は天候を見ていた。いかなる場合でも彼はなんらかの自然力を味方に持つことを忘れない。
 強風の日が続いた。この砂まじりの猛風は明日もまだ続きそうである。
 孔明の名をもって、諸陣地に布告がかかげられた。文にいう。
「明夕初更までに、各隊の兵は一人も残るなく、おのおの一幅の襟(衣服)を用意せよ。怠る者は首を斬らん」
 何か分らなかったが、厳令なので隊将から歩卒に至るまで、一衣の布を持って、
「いったいどうするのだ、これは?」と怪しみながら待っていた。
 不意に出陣の令が出た。次に陣揃いだ。それがちょうど初更の時刻だった。
 孔明は将台に立って三命を発した。

一、携えたる各〻の襟(衣)に足もとの土を掻き入れて土の嚢となせ。
二、兵一名に土嚢一個の割に次々令に従って行軍せよ。
三、三江城の城壁下に至らば、土の嚢を積んで捨てよ。土嚢の山、壁の丈と等しからば、直ちに踏み越え踏み越え城内に入れよ。疾くとはやく入りたる者には重き恩賞あるぞ。

 さてはと初めてこの時にみな孔明の考えを知った。その勢二十余万、蛮土の降参兵を加うること一万余、一兵ごとに一嚢を担い、早くも三江の城壁へ迫った。
 乱箭毒弩もものかは雲霞のごとき大軍が一度に寄せたので、その勢力の千分の一も射仆すことはできなかった。見る間に土嚢の山は数ヵ所に積まれた。その土嚢の数も兵員の数と等しく二十余万個という数である。いかなる高さであろうとたちまち届かぬはない。
 魏延、関索、王平などの手勢は、先を争って、城壁の間へ飛び降りた。担ぎ上げた土嚢を投げこみ投げこみここも難なく通路となった。
 蛮軍は釜中の魚みたいに右往左往して抗戦の術を知らなかった。多くは銀坑山方面へ逃げ、或いは水門を開いて江上へ溢れだすのもあった。
 生捕りは無数といってよい。例によってこれには諭告を与え仁を施し、さて、城中の重宝を開いて、これをことごとく、三軍に頒け与えた。
 朶思大王はこの時乱軍の中で討たれたという噂がある。口ほどもない哀れな最期だった。
「なに、三江が破れた? もう孔明の軍勢が入ったと?」
 銀坑山の蛮宮では、孟獲が色を失っていた。一族を集めて評議中も、顛動惑乱、為すことも知らない有様だ。
 すると、後ろの紗の屏風の蔭で、誰かクツクツ笑った者がある。
「無礼な奴、誰だ?」と一族の者が覗いてみると、孟獲の妻の祝融夫人が、牀に倚って長々と昼寝していたのである。猫のように可愛がって、日頃夫人の部屋に飼い馴らされている牡獅子もまた、夫人の腰の辺に頤を乗せて、とろりと睡眼を半ば閉じていた。

 そのまま、ふたたび評議を続けていると、また隣室で祝融夫人がくつくつ笑った。人々が耳ざわりな顔を示したので、良人として孟獲も黙っていられず、ついに座から叱りつけた。
「妻っ、何を笑うか」
 すると夫人は、獅子と共に、がばと寝台から起ってきて、一族の者には眼もくれず、良人の孟獲へ頭から呶鳴り返した。
「なんですっ、あなたは。男と生れながら意気地もない。――蜀の勢の十万二十万蹴ちらせないで、この南蛮に王者だといっていられますか。女でこそあれ、私が行けば、孔明などにこの国を踏みにじらせてはおきません」
 この女性は上古の祝融氏の後裔だといわれる家から嫁いできて、よく馬に乗りよく騎射し、わけて短剣をつかんで飛ばせば百発百中という秘技を持っていた。
 その代りに細君天下とみえ、孟獲はそういわれると、ぺしゃんこになった顔つきで一言もない。一族も事実敗戦に敗戦を重ねているので、共に閉口沈黙していた。
「一軍をおかしなさい。私が陣頭に立って、蜀勢を片づけます。孔明などに威を振われてたまるもんですか」
 次の日、彼女は、巻毛の愛馬に乗り、髪をさばき足は素足で、絳き戦衣に、をちりばめた黄金の乳当を着け、背には七本の短剣を挟み、手に一丈余の矛をかかえ、炎の如く、戦火の中を馳け廻っていた。
 その矛に当って斃れる蜀兵はおびただしい。蜀の張嶷、それを見て、
「不思議な敵」
 と、うしろから迫った。
 すると、突如、天空から一本の短剣が飛んできた。剣は張嶷の股に立ち、馬より逆しまに転げ落ちた。
「あれを縛めよ」と手下へ云い捨てて夫人はまたも次の敵へ打ってかかっている。蜀の馬忠、またこれを追い、同じように二本の短剣を投げつけられ、一刀は馬の顔に刺さったため、彼もまた、落馬して蛮軍の手に捕虜となった。
 その日の戦況は、蛮軍が甚だしく振って、孟獲は急に、
「勝色見えたぞ」
 と、躍り立って歓びだした。
 夫人は、自分が擒人とした張嶷、馬忠のふたりを首にして、さらに士気を鼓舞しようと云ったが、良人の孟獲は、
「いやおれも五度捕われて孔明から放されている。すぐこいつらを殺すといかにも俺が小量のようだ。孔明を生捕って後、並べておいて首を斬ろう」
 と、いった。で、ふたりの虜将はこれを生かしておいて、時々見ては笑い楽しんでいた。
 孔明は二将の身を案じていた。しかしおそらくは殺すまいと彼は語っていた。その救出策を按じ、趙雲と魏延に計をさずけておいた。
 炎熱下の交戦は日々つづいている。その中に炎の飛ぶを見れば必ず祝融夫人のすがたである。趙雲は近づいて、彼女へ決戦を挑んだ。さすがに女である。この敵にはかなわぬと思うと、短剣を飛ばしてその隙にさっと逃げてしまう。
「まるで梢の鳥を追いかけているようだ。どうも捕れぬ」
 豪勇趙雲も嘆じていた。魏延は次の日、わざと陣前に出ず、雑兵を出して夫人を揶揄させた。夫人は怒って追いに追う。そして誘導しばらくして、時分はよしと躍りでた。
「駝鳥夫人待て」
 夫人は振り返って、短剣を投げ、そのまま例によって帰り去らんとした。趙雲がまた、一方から鼓を鳴らして、
「あれは駝鳥か猩々の牝か」
 と囃した。
 髪逆だてた夫人は、遂に、感情のまま蜀軍の中へ馳けこんで来た。蜀軍はわざと逃げくずれる。そして止まるとまた、悪口三昧を叩いた。
 次第に山間に誘いこんで、予定の危地を作るや、どっと八面からおおい包んで、遂に、祝融夫人を擒人とすることに成功した。
 孔明孟獲の陣へ使いをやった。
「汝のおかみさんは予の陣に来ている。張嶷、馬忠と交換せん」
 孟獲は驚いて、すぐ二将をかえしてよこした。孔明祝融夫人に酒を呑まして送り返した。彼女は少ししおれていたが、一斗の酒を呑んだあげく縄を解かれると非常にはしゃぎ出して、孟獲と似たような大言壮語を残して帰った。

前の章 出師の巻 第43章 次の章
Last updated 1 day ago