酔県令
一
ここしばらく、孔明は荊州にいなかった。新領治下の民情を視、四郡の産物など視察して歩いていた。
彼の留守である。龐統が荊州へ来たのは。
「予に会いたいというのか」
「おそらく仕官を求めにきたものと思われますが」
「名は」
「襄陽の龐統なりと申しました」
「さては、鳳雛先生か」
玄徳は驚いて、取次の家臣へ、すぐ鄭重に案内せよと命じた。
かねて孔明からうわさを聞いていたからである。龐統はやがて導かれてきた。しかし堂に迎えられても、長揖して拝すでもなく、すこぶる無作法に佇立しているので、
「はて、このような男が、名声の高い鳳雛だろうか」と、玄徳は疑いを生じた。
のみならず、風態は卑しげだし、容は醜いときているので、玄徳もすっかり興ざめ顔に、
「遠くご辺のこれへ来られたのは、そも、いかなる御用があってのことか」
と、通り一遍の質問をした。
龐統はかねて孔明から貰ってある書状もあるし、魯粛の紹介状を携えていたが、わざとそれを出さなかった。
「されば、劉皇叔が、この地に新政を布いて弘く人材を求めらるる由をはるかに承り、もしご縁あらばと来てみたわけです」
「それはあいにくなことだ。荊州はすでに治安秩序も定まり、官職の椅子も今は欠員がない。――ただここから東北地方の田舎だが、耒陽県の県令の職がひとつ空いておる。もしそこでもと望むならば、赴任して見らるるがよい」
「田舎の県令ですか。それも暢気でいいかも知れませんな」
龐統は辞令を受けると、即日、任地へ立って行った。荊州東北、約百三十里の小都会である。
だが彼はそこの知事として着任しても、ほとんど役所の時務は何も見なかった。地方時務の多くは民の訴え事であるが、訴訟などはてんでほうりだしておくため、書類は山積して塵に埋まっている。
当然、地方民の怨嗟や糾弾の声が起った。そして中府の荊州にもこの非難が聞えてきたので、温厚な玄徳も、
「憎い腐れ儒者ではある」と、直ちに、張飛と孫乾にいいつけ、耒陽県を巡視して、もし官の不法、怠慢のかどなど発見したら、きびしく実状を糺して来いといった。
「心得ました」
二人は、数十騎の侍をつれ、吏務検察として赴いた。郡民や小吏は聞きつたえて、
「お待ちもうしておりました」とばかり、こぞって出迎えに立ったが、県令の顔は見あたらない。
「役所の者はおらんのか」
張飛がどなると、一役人が、
「これに出ておりますが」
と、恐惶頓首して答えた。
「お前たちじゃない。県令はどうしたか」
「それが、……その何とも」
「明らかにいえ。お前たちを罰しに来たのじゃない」
「何ぶんにも、県令龐統には、ご着任以来、今日のような場合に限らず、すべて公の事には、見向いたこともありませんので」
「そして、何しておるのだ。毎日……」
「たいがいは、酒ばかり飲んでいらっしゃいます」
「毎日、酒びたりか」
張飛はちょっと、羨ましいような顔したが、すぐ、
「怪しからん」と、云い放ちながら、その足で、県庁の官舎へ押しかけ、
「龐統はおらんか」と、どなった。
すると奥から衣冠もととのえぬ酔どれが、赤い蟹みたいな顔してよろよろ出てきた。そして、
「わしが龐統だが」と、昼から酒くさい息を吐いて云った。
二
「貴様か。県令の龐統とは」
「ふん。わしだよ」
「何だ。その態は」
「まあ、掛けたまえ。耳の穴へ蜂がはいったようじゃないか。君か、張飛とかいう男は」
龐統は驚かない。
自分の眼光に会ってこんなに驚かない男を張飛はあまり知らない。
「一杯参らんか」
「酒どころではない、おれは家兄玄徳の命をうけて、吏道を正しに来たものだ。赴任以来、汝はほとんど官務を見ていないというじゃないか」
「ぼつぼつやろうと思っている」
「怪しからん怠慢だ。公事訴訟も山ほどつかえているというに」
「やる気になれば造作はない。政事は事務ではないよ。簡単なるほどよろしいのだ。民の善性を昂め、邪性を圧える。圧えるではまだまずい。ほとんど、邪悪の性を忘れしめる。どうじゃ、それでよろしいのじゃろう」
「口は達者らしいな」
「飲けるほうだ」
「酒のことではないッ」と、張飛は虎が伸びするように身を起して呶鳴った。
「では、明日中に、その実をおれの眼に見せろ。その上で汝の広言に耳をかそう。しからずんば、引っくくって、汝を白洲にすえるぞ」
「よろしい」
龐統は手酌で飲んでいた。
張飛と孫乾は、わざと民家に泊った。そして翌日、庁へ行ってみると、訴訟役所から往来まで行列がつづいている。
「何事だ、いったい?」
訊いてみると、きょうは未明の頃から、県令龐統が急に裁判を白洲に聴いて、いちいち決裁を与えているのだという。
田地の争い、商品の取引違い、喧嘩、家族騒動、盗難、人事、雑多な問題を、龐統は二つの耳で訊くとすぐ、
「こういたせ」「こう仲直り」「それは甲が悪い、笞を打って放せ」「これでは乙が不愍である、丙はいくらいくらの損害をやれ」――などと、その裁決は水のながれるようで、山と積まれた訴訟も夕方までには一件も余さず片づけてしまった。その上で、
「いかがです。張飛先生」
龐統は笑って晩餐を共にとすすめた。
張飛は、床に伏して、
「まだかつて、大兄の如き名吏を見たことがない」と、先の言を深く謝した。
龐統は、張飛が帰るとき、一書を出して、
「主君に渡してくれ」と頼んだ。
魯粛から貰っていた紹介状である。玄徳は、報告を聞き、またその書簡を見て、非常にびっくりした。
「ああ、あやうく大賢人を失うところだった。人は、風貌ばかりでは分らない……」
そこへ四郡の巡視を終って孔明が帰ってきた。噂を聞いていたとみえ、
「龐統はつつがなくおりますか」
玄徳は間の悪い顔をしながら、実は耒陽県の知事にやってあるというと、孔明は、
「あのような大器を、そんな地方の小県になどやっておいたら、閑に飽いて酒ばかり飲んでおりましょう」と、いった。
「いや、その通りである」と、玄徳が実状を告げると、孔明は、
「わたくしからも君へ推挙の一筆を渡してあるのに、それは出しませんでしたか」
「見せもせぬし、語りもしなかった」
「とにかく、県令には誰か代りをやって、早くお呼び戻しになるがよいでしょう」
やがて、龐統は、荊州へ帰ってきた。
玄徳は、不明を謝し、なお、孔明と龐統のふたりに、酒を賜わって、心からいった。
「――むかし司馬徽徐庶先生が、もし伏龍鳳雛ふたりのうち一人でも味方にすることができたら、天下の事も成ろうと予にいわれたことがある。……こんな不明な玄徳に、その二人までが、ともに自分を扶けてくれようとは、ああ思えば玄徳は果報すぎる。慎まねばならん。慎まねばならん」