競う南風
一
さて。――日も経て。
曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。
そこは河南の陳留(開封の東南)と呼ぶ地方である。沃土は広く豊饒であった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取的であり、人は敏活で機智の眼がするどく働いている。
「どうかして下さい」
曹操は、家に帰ると、事の次第をつぶさに告げて、幼児が母に菓子でもねだるような調子でせがんだ。
「――義兵の旗挙げをする決心です。誰がなんといっても、この決心はうごきません。そこで、父上にも、ひと肌ぬいでいただきたいんですが」と、いうのである。
父の曹嵩も、
「ウーム……。偉いことをしでかして来おったな」
と、呆れ顔に、呻いてばかりいたが、元来、幼少から兄弟中でいちばん可愛がっている曹操のことなので、
「どうかしてくれって、どうすればよいのじゃ」と、叱言も出なかった。
「軍費が要り用なんです」
「軍費といったら、わしの家のこればかしな財産では、いくらの兵も養えまいが」
「ですから、父上のお顔で、富豪を紹介して下さい。曹家は、財産こそないが、遠くは夏侯氏の流れを汲み、漢の丞相曹参の末流です。この名門の名を利用して、富豪から金を出させて下さい」
「じゃあ、衛弘に話してみるさ」
「衛弘って誰ですか」
「河南でも一、二を争う財産家だがね」
「じゃあ、父上が聘んで、一日、酒宴を設けてくれませんか」
「おまえのいうことは、なんでも簡単だな」
「大きな仕事を手軽にやってのけるのが、大事を成す秘訣ですよ」
父子は、日を定めて、衛弘をわが邸に招待した。
衛弘は、曹操をながめて、
「都へ行っていたと聞いていたが、いつのまにか、よい青年になったなあ」
などといった。
曹操は、彼を待遇するに、あらゆる慇懃を尽した。
そして、話のはずんできた頃、胸中の大事を打明けて、援助を依頼してみた。
もし嫌だといったら、生かしては帰さないという気を、胸にふくんでの真剣な膝づめ談判であったから、静かに頼むうちにも、曹操の眸は、刃のように研げていたに違いなかった。
ところが、衛弘は聞くとすぐ、
「よろしい。ご辺の忠義にめでて、ご援助しましょう。近ごろの天下の乱れを、わしも嘆いていたが、わしの器量にはないことだから、時勢の成行きを眺めていた折です。――いくらでも軍用金はご用立てしよう」と、承知してくれた。
曹操は、よろこんだ。
「えっ、ではお引きうけ下さるか。しからば、私は早速、兵を集めにかかるが」
「おやんなさい。けれど、敗れるような戦はすべきではありませんぞ。充分、勝算を握った上で、大挙なさるがよい」
「軍費のほうさえ心配なければ、どんなことでもできます。河南をわが義兵をもって埋めてごらんに入れるから見ていて下さい」
父の曹嵩には、幾つになっても、子は子供にしか見えなかった。曹操のあまりな豪語に、衛弘がすこし乗り過ぎているのじゃないかと、かえって側で心配したほどだが、それから後、曹操のやることを見ていると、いよいよ不敵をきわめていた。
まず彼は、近郷の壮丁を狩り集め、白い二旒の旗を作って、一旒には「義」と大書し、一旒には「忠」と大きく書いて、
「われこそ、朝廷から密詔をうけて、この地に降った者である」
と唱えだした。
二
今でこそ、地方の一郷士に落ちぶれているが、なんといっても、曹家は名門である。嫡子の曹操もまた出色の才人と、遠近に聞えている。
「密勅をうけて降ったものである――」
という曹操の声に、まず近村の壮丁や不遇な郷士が動かされた。
「陳宮、こんな雑兵じゃ仕方がないが、もっと有力な諸州の刺史、太守などが集まるだろうか」
時々、彼は陳宮へ計った。
陳宮は献策した。
「忠義を旗に書いて待っているだけでは駄目です。もっと憂国の至情を吐露なさい。鉄血、人を動かすものをぶっつけなさい」
「どうしたらいいか」
「檄を飛ばすことです」
「おまえ、書いてくれ」
「はい」
陳宮は、檄文を書いた。
彼は、心の底から国を憂えている真の志士である。その文は、読む者をして奮起せしめずにおかないものであった。
「――ああ名文だ。これを読めば、おれでも兵を引っさげて馳せ参ずるな」
曹操は感心して、すぐ檄を諸州諸郡へ飛ばした。
英雄もただ英雄たるばかりでは何もできない。覇業を成す者は、常に三つのものに恵まれているという。
天の時と、
地の利と、
人である。
まさに、曹操の檄は、時を得ていた。
日ならずして、彼の「忠」「義」の旗下には続々と英俊精猛が馳せ参じてきた。
「それがしは、衛国の生れ、楽進、字は文謙と申す者ですが、願わくば、逆賊董卓を、ともに討たんと存じ、麾下に馳せ参って候」
と、名乗ってくる者や、
「――自分らは沛国譙郡の人、夏侯惇、夏侯淵という兄弟の者ですが、手兵三千をつれてきました」
と、いう頼もしい者が現れてきたりした。
もっとも、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、枚挙にいとまがないくらいであった。
山陽鉅鹿の人で李典、字は曼成という者だの――徐州の刺史陶謙だの――西涼の太守馬騰だの、北平太守の公孫瓚だの――北海の太守孔融なんどという大物が、おのおの何千、何万騎という軍を引いて、呼応して来た。
彼の帷幕にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じた。
一方、それらの兵に対して、曹操は、衛弘から充分の軍費をひき出して、武器糧食の充実にかかっていた。
「あのように、軍資金が豊富なところを見ると、彼の檄は、空文でない。ほんとに朝廷の密詔を賜わっているのかも知れん」
形勢を見ていた者までが、その隆々たる軍備の急速と大規模なのを見て、
「一日遅れては、一日の損がある――」といわんばかり、争って、東西から来り投じた。
(河南の地を兵で埋めてみせん)
と、いつか衛弘にいった言葉は、今や空なる豪語ではなくなったのである。
従って、富豪衛弘も、投財を惜しまなかった。いや、彼以外の富豪までが、みな乞わずして、
「どうか、つかってくれ」と、金穀を運んできた。
すでに曹操はもう、多くの将星を左右に侍らせ、三軍の幕中に泰然とかまえていて、そういう富豪の献物が取次がれて来ても、
「あ、さようか。持って来たものなら取っておいてやれ」
と、いうぐらいのもので、会ってやりもしなかった。
三
さきに都を落ちて、反董卓の態度を明らかにし、中央から惑星視されていた渤海の太守袁紹の手もとへも、曹操の檄がやがて届いてきた。
「曹操が旗をあげた。この檄に対して、なんと答えてやるか」
袁紹は、腹心をあつめて、さっそく評議を開いた。
彼の幕下には、壮気にみちた年頃の大将や、青年将校が多かった。
田豊。沮授。許収。顔良。
また――
審配。郭図。文醜。
などという錚々たる人材もあった。
「誰か、一応、その檄文を読みあげてはどうか」
とのことに、顔良が、
「しからば、てまえが」と、大きく読み出した。
檄
操等、謹ンデ、
大義ヲモッテ天下ニ告グ
董卓、天ヲ欺キ地ヲ晦マシ
君ヲ弑シ、国ヲ亡ボス
宮禁、為ニ壊乱
狠戻不仁、罪悪重積ス
今
天子ノ密詔ヲ捧ゲテ
義兵ヲ大集シ
群凶ヲ剿滅セントス
願ワクバ仁義ノ師ヲ携エ
来ッテ忠烈ノ盟陣ニ会シ
上、王室ヲ扶ケ
下、黎民ヲ救ワレヨ
檄文到ランノ日
ソレ速ヤカニ奉行サルベシ
「これこそ、我々が待っていた天の声である。地上の輿論である。太守、何を迷うことがありましょう。よろしく曹操と力を協すべき秋です」
幕将は、口を揃えていった。
「――だが」と、袁紹は、なお少し、ためらっている風だった。
「曹操が、密詔をうけるわけはないがなあ? ……」
「よいではありませんか。たとえ密詔をうけていても、いなくても。その為すことさえ、正しければ」
「それもそうだ」
袁紹も遂に肚をきめた。
評定の一決を見ると、さすがに名門の出であるし、多年の人望もあるので、兵三万余騎を立ちどころに備え、夜を日についで、河南の陳留へ馳せのぼった。
来てみると、その旺なのに袁紹も驚いた。軍簿の到着に筆をとりながら、重なる味方だけを拾ってみると、その陣容は大したものであった。
まず――
第一鎮として、後将軍南陽の太守袁術、字は公路を筆頭に、
第二鎮
冀州の刺史韓馥
第三鎮
予州の刺史孔伷
第四鎮
兗州の刺史劉岱
第五鎮
河内郡の太守王匡
第六鎮
陳留の太守張邈
第七鎮
東郡の太守喬瑁
そのほか、済北の相、鮑信、字は允誠とか、西涼の馬騰とか、北平の公孫瓚とか、宇内の名将猛士の名は雲の如くで、袁紹の兵は到着順とあって、第十七鎮に配せられた。
「自分も参加してよかった」
ここへ来て、その実状を見てから、袁紹も心からそう思った。時勢の急なるのに、今さら驚いたのである。
四
第一鎮から第十七鎮までの将軍はみな、一万以上の手兵を率いて各〻の本国から参集してきた一方の雄なのである。
その中にはまた、どんな豪強や英俊がひそんでいるかも知れなかった。
わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた深淵の蛟龍がいた。
北平の太守で奮武将軍の公孫瓚がその十六鎮の軍であったが、檄に応じて、北平から一万五千余騎をひっさげて南下してくる途中、冀州の平原県(山東省・津滬線平原)のあたりまで来かかると、
「しばらくっ、しばらくっ!」
と、大声をあげて、公孫瓚の馬を止めた者がある。
「何者か?」と、旗本たちが振りかえると、かたわらの桑畑の中を二、三旒の黄なる旗がざわざわと翻りつつ、此方へ近づいてくるのが見える。
「や? 何処の武士どもか」と、疑っている間に、それへ現れた三騎の武人は、家来の雑兵約十名ばかりと共に公孫瓚の馬前にひざまずいて、
「将軍、願わくば、われわれ三名の者も、大義の軍に入れて引具し給え。不肖ながら犬馬の労を惜しまず、討賊の先陣に立って、尽忠の誠を、戦場の働きに見せ示さんと、これにてご通過を待ちうけていた者でござります」と、いった。
公孫瓚は、初めのうち、さてはこの辺の郷士かとながめていたが、そういう三名の中に、一名だけ、どこかで見覚えのある気がしたので、思いよりのまま試みに、
「もしや貴公は、劉備玄徳どのには非ざるか」
と、訊ねてみると、
「そうです。ご記憶でしたか、自分は劉玄徳です」
との答え。
「おう、さてはやはり――」と、驚いて、
「黄巾の乱後、洛陽の外門でちょっとお会いしたことがあるが、その後、ご辺にはいかなる官職につかれておらるるか」
「お恥かしいことですが、碌々として、何の功も出世もなく、この片田舎の県令をやっていました」
「それはひどい微職だな。貴公のような人物を、こんな片田舎に埋めておくなどとは、もったいないことだ。――してまた、お連れの二人はいかなる人物か」
「これは、自分の義弟たちです」
「ほ、ご令弟か」
「ひとりは関羽、また次にひかえておる者は、張飛と申しまする」
「官職は」
「関羽は馬弓手、張飛は歩弓手。――共にまだ役儀といっては、ほんの卒伍にしか過ぎません」
「いずれも頼もしげなる大丈夫を可惜、田野の卒として、朽ちさせておいたことよな。――よろしい、ご辺らも同じ志ならば、わが軍中に従って、共々お働きあるがよい」
「では、おゆるし下さるか」
「願うてもないことだ」
「必ず逆臣董卓を殺して、朝廟を清めます」
玄徳も、関羽も、恩を謝して誓った。そして再拝しながら起ちかけると、張飛は、
「だからおれがいわぬことじゃない」と、ぶつぶついった。
「彼奴が黄巾賊の討伐に南下していた頃、潁川の陣営で、おれが董卓を殺そうとしたのに、兄貴たちが止めたものだから、今日こんなことになってしまった。――あの折、おれに董卓を殺させてくれれば、今の乱は、起らなかったわけだ」
玄徳は、聞き咎めて、
「張飛。何を無用なたわ言をいっているか。早々、軍の後方につくがよい」
と、叱った。そして自身もわざと、中軍より後の列に加わり共に曹操の大計画に参加したのであった。
五
かくて――
曹操の計画は、今やまったく確立したといってよい。
布陣、作戦すべて成った。
会合の諸侯十八ヵ国。兵力数十万。第一鎮より第十七鎮まで備えならべた陣地は、二百余里につづくと称せられた。
吉日を卜して、曹操は、壇を築き、牛を斬り馬を屠って祭り、
「われらここに起つ!」
と、旗挙げの式を執り行った。
その式場で、諸将から、
「今、義兵を興し、逆賊を討たんとする。よろしく三軍の盟主を立て、総軍の首将といただいて、われら命をうくべし」と、いう発議が出た。
「然るべし」
「そうあるべしだ」と異口同音の希望に、
「では、誰をか、首将とするべきか?」
となると、人々はみな譲り合って、さすがに、われこそとあつかましく自己推薦をする者もない。
で結局、曹操が、
「袁紹はどうであろう」
と、指名した。
「袁紹は元来、漢の名将の後胤であるのみでなく、父祖四代にわたって、三公の重職に昇り、門下にはまた、四方に良い吏人が多い。その名望地位から見ても、袁紹こそ盟主として恥かしくない人物ではあるまいか」
彼のことばに、
「いや、自分は到底、その器ではない」
と袁紹は謙遜して、再三辞退したが、それは他の諸将に対する一片の儀礼である。遂に推されて、
「では」
と、型の如く承諾した。
次の日。
式場に三重の壇を築き、五方に旗を立てて、白旄、黄鉞、兵符、印綬などを捧持する諸将の整列する中を、袁紹は衣冠をととのえ、剣を佩いて壇にのぼり、
「赤誠の大盟ここになる。誓って、漢室の不幸をかえし、天下億民の塗炭を救わん。――不肖袁紹、衆望に推されて、指揮の大任をうく。皇天后土、祖宗の明霊よ、仰ぎねがわくば、これを鑒せよ」
香を焚いて、祭壇に、拝天の礼を行うと、諸将大兵みな涙をながし、
「時は来た」
「天下の黎明は来た」
「日ならずして、洛陽の逆軍を、必ず地上から一掃せん」
と、歯をくいしばり、腕を撫し、また、慷慨の気を新たにして、式終るや、万歳の声しばし止まず、ために、天雲も闢けるばかりであった。
袁紹はまた、諸将の礼をうけてから、
「われ今、菲才をもって、首将の座に推さる。かかる上は、功ある者は賞し、罪ある者は必ず罰せん。諸公、また部下に示すに、厳をもってのぞまれよ。つつしんで怠り給うなかれ」
と、命令の第一言を発した。
「万歳っ。万歳っ」と、雷のような声をもって、三軍はそれに応えた。
袁紹は、第二の命として、
「わが弟の袁術は、いささか経理の才がある。袁術をもって、今日より兵糧の奉行とし、諸将の陣に、兵站の輸送と潤沢を計らしめる」
それにも、人々は、支持の声を送った。
「――次いで、直ちに我軍は、北上の途にのぼるであろう。誰か先陣を承って、汜水関(河北省・汜水)の関門を攻めやぶる者はないか」
すると、声に応じて、
「われ赴かん」
と、旗指し物を上げて名乗った者がある。長沙の太守孫堅であった。