三郡
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鞏志は、首を奪って、城門をひらき、張飛を迎え入れて、元来、玄徳を景慕していた由を訴えた。 張飛は、軍令を掲げて、諸民を安んじ、また鞏志に書簡を持たせて、桂陽にいる玄徳のもとへ、その報告にやった。 玄徳は、鞏志を、武陵の太守に任じ、ここに三郡一括の軍事もひとまず完遂したので、荊州に留守をしている関羽のところへもその由を報らせて、歓びをわけてやった。 すると、関羽からすぐ、返書がきて、 。(張飛も趙雲も、おのおの一かどの働きをして実にうらやましく思います。
さりとて荊州は還し難し、軍師の悲嘆は黙し難し。……そうだ、ではこうしてつかわす。荊州のうち長沙、零陵、桂陽の三郡だけを呉へ還してくれる。それなら呉の面目も立ち、瑾の妻子も助けられよう」 。「かたじけのう存じます」と孔明は拝謝し、また感激して、 。
その対策について、相議する時、孔明は明確に、方針を説いた。「魏が膨脹を欲するのは、たとえば伸びる生物の意欲みたいなものですから、その意欲をほかへ向けかえて、ほかへ伸展し、ほかへその精気をそそがしめれば、即ち当分のうちは、蜀は無事を保ち得ましょう。そのあいだに国防を充実することです」と、前提してから、「それには今、能弁な士を呉へ使いに立てて、先に約した荊州三郡を、確実に呉へ返し、かつ、時局の険悪と、利害を説き、孫権をして、合淝の城(安徽省・合肥)を攻めさせるのです。――ここは魏にとって重要な...
悪く思わないでくれ」 。 と、一笑して、労をねぎらった。 この高定はほどなく益州三郡の太守に封ぜられた。
それは天水城の太守馬遵だ。彼にも同じような計を施してあるが、何としてか、城を出てこなかった。直ちに向って、天水もあわせ陥し、三郡の攻略を完璧にしなければならない」と、いった。 南安には呉懿をとどめ、安定の守りに劉琰を派して、魏延と交代させ、全軍の装備を新たにして、天水郡へ進発した。
夏侯楙と馬遵は、施す策もなく、わずか百余騎をひきいて、北門から逃げ出し、ついに羗胡の国境まで落ちて行った。 上※の守将は、梁緒の弟梁虔なので、これはやがて、兄に説伏されて、軍門へ降ってきた。 ここに三郡の戡定も成ったので、蜀は軍容をあらためて、大挙、長安へ進撃することになったが、それに先だって孔明は諸軍をねぎらい、まず降将梁緒を天水の太守に推し、尹賞を冀城の令とし、梁虔を上※の令に任じた。「なぜ夏侯楙駙馬を追わないのですか」 。 諸将が問うと、孔明は云った。
蜀軍の武威は大いに振った。行くところ敵なきその形容はまさに、原書三国志の記述に髣髴たるものがうかがわれる。――蜀ノ建興五年冬、孔明スデニ天水、南安、安定ノ三郡ヲ攻取リ、ソノ威、遠近ヲ靡カセ、大軍スデニ祁山ニ出デ、渭水ノ西ニ陣取リケレバ、諸方ノ早馬洛陽ヘ急ヲ告ゲルコト、霏々雪ノ飛ブガ如シ。 このとき魏はその国の大化元年にあたっていた。 国議は、国防総司令の大任を、一族の曹真に命じた。