三国志(さんごくし)は吉川英治の小説、中国の後漢末から三国時代(紀元2世紀末〜3世紀)の歴史や英雄たちを描いた壮大な物語です。 【三国志について】 ・概要と時代背景 三国志は、後漢の末...
陳宮(ちんきゅう)とは 後漢末の武将で、董卓暗殺を企てた王允の仲間として知られ、その後は呂布の参謀となった人物です。知略に優れ、義理堅い性格が描かれる一方で、最後は主君の呂布とともに悲劇...
洛陽(らくよう)とは、中国の古都であり、三国志の物語にとっても重要な舞台のひとつです。 洛陽は後漢王朝の都として栄えました。後漢末期には政治の腐敗や宦官の専横、そして黄巾の乱などによって大きく...
中牟(ちゅうぼう)とは 後漢から三国時代にかけての郡県名で、現在の河南省鄭州市中牟県にあたる地域。黄河の南岸に位置し、洛陽から東方へ向かう交通の要地にあった。 歴史 古代より農...
河南(かなん)とは 河南は、中国の地名で、黄河の南に位置する地域を指す。現在の河南省の名もここに由来する。後漢から三国時代にかけて中原の中心にあたり、政治・軍事・経済の要地として重要な役...
董卓(とうたく)とは 董卓は、後漢末期に登場した軍人・政治家で、三国志において悪名高い暴君として描かれる人物である。涼州(現在の甘粛省あたり)の出身で、戦乱の中で頭角を現した。 生涯 ...
曹参(そうしん)とは 前漢の初期に仕えた武将・政治家で、劉邦(高祖)の腹心のひとり。楚漢戦争で功を立て、のちに相国となった人物。三国志の時代よりもはるか以前の人である。 生涯 ...
譙郡(しょうぐん)とは 後漢時代に設置された郡の一つで、現在の安徽省亳州市一帯にあたります。 歴史 秦漢以降、この地域は中原と淮河流域をつなぐ要地として栄えました。譙郡は後漢末...
東郡(とうぐん)とは 後漢時代の郡名で、現在の河南省東部から山東省西部にかけての地域に相当する。黄河下流域に位置し、肥沃な土地と交通の要衝として重要視された。 歴史 秦・漢以来...
成皐(せいこう)とは 後漢から三国時代にかけての地名で、現在の河南省滎陽市付近にあたります。洛陽の東に位置し、黄河と汴水の合流点近くにあったため、戦略上の要衝とされました。 歴史 ...
滎陽(けいよう)とは 後漢から三国時代にかけての地名で、現在の河南省鄭州市滎陽市付近にあたります。 歴史 古代中国における交通の要衝であり、黄河と洛陽を結ぶ重要な地点でした。戦...
曹嵩(そうすう)とは 後漢末の武将・政治家曹操の父。字は巨高(きょこう)。もともとは宦官の養子であり、曹操の家柄をめぐって後世にさまざまな評価が残っている。 生涯 曹嵩は後漢の...
夏侯(かこう)とは 中国の古い氏族名で、三国志においては曹操の一族と深く関わる武将の家系を指す。特に夏侯惇(かこうとん)と夏侯淵(かこうえん)が著名で、いずれも曹操の従兄弟として魏の軍事...
楽進(がくしん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた将軍。字は文謙(ぶんけん)。身長は低かったが、勇猛果敢な戦ぶりで知られる。 生涯 若い頃は地方の吏(役...
山陽(さんよう)とは 後漢から三国時代にかけての地名で、現在の河南省南部から安徽省北部にかけての地域を指す。山陽郡(さんようぐん)として設置され、当時の行政区画の一つであった。 歴史 ...
鉅鹿(きょろく)とは、中国の歴史に現れる地名のひとつである。三国志の物語が展開する時代よりもやや前、またその周辺でも知られている土地である。 鉅鹿は中国・河北省の南部に位置し、漢代には鉅鹿郡と...
李典(りてん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた将軍。字は曼成(まんせい)。温厚で謙虚な性格の持ち主であり、知勇を兼ね備えた人物として評価される。 生涯 ...
徐州(じょしゅう)とは、中国の古代における地方行政区画の一つであり、三国志の時代にもたびたび登場します。現在の山東省西南部、江蘇省北部、安徽省北部一帯にあたるエリアで、古来より交通の要衝であり人...
陶謙(とうけん)とは 後漢末の武将・政治家で、徐州刺史を務めた人物。劉備を庇護したことで知られる。字は恭祖(きょうそ)。 生涯 陶謙は人望が厚く、後漢の末期に徐州を治めていた。...
西涼(せいりょう)とは 西涼は後漢時代の中国西部、現在の甘粛省・陝西省西部一帯を指す地域の呼称。西方の国境地帯であり、羌族など異民族との衝突が絶えなかった軍事的要地である。三国志において...
馬騰(ばとう)とは 後漢末の武将で、西涼(現在の甘粛省一帯)に勢力を張った群雄の一人。字は寿成(じゅせい)。勇猛な武人で、同じく西涼に割拠した韓遂とともに名を馳せた。 生涯 も...
北平(ほくへい)とは 後漢末から三国時代にかけての地名で、現在の河北省北部(北京市付近を含む)にあたる地域。幽州に属し、北方の異民族と接する国境地帯として重要視された。 歴史 ...
孔融(こうゆう)とは 後漢末の政治家・文人。字は文挙(ぶんきょ)。孔子二十世の子孫として知られ、清廉な人格と文才を備えた人物。三国志の中では、後漢王朝に忠を尽くした名士として登場する。 ...
曹仁(そうじん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の名将の一人。字は子孝(しこう)。曹操の従弟にあたり、勇猛さと統率力で知られる。 生涯 若い頃から曹操に従い、各地の...
曹洪(そうこう)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた重臣。字は子廉(しれん)。曹操の従弟であり、曹仁の兄弟と並んで曹氏一族を代表する勇将の一人。 生涯 曹...
渤海(ぼっかい)とは 中国北方の地名で、黄海の北西部に広がる海域の名。後漢から三国志期にかけては「渤海郡」として行政区画の名称にも用いられた。現在の河北省東部・天津市周辺にあたる。 土...
田豊(でんほう)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は元皓(げんこう)。忠義に厚く、直言を恐れない性格で知られる。 生涯 河北の名士で、袁紹に仕えてその参謀となった。冷静...
沮授(そじゅ)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は公与(こうよ)。冷静沈着で大局を見通す知将として知られる。 生涯 冀州出身の名士で、袁紹に仕えてその参謀となった。初め...
顔良(がんりょう)とは 後漢末の武将で、袁紹に仕えた猛将。文醜と並んで袁紹軍の双璧と称された。 生涯 河北の袁紹配下で勇名を馳せ、武勇を誇った。官渡の戦いの前哨戦である白馬の戦...
郭図(かくと)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は公則(こうそく)。計略を用いるが短慮な面があり、袁紹陣営の失敗に関わったことで知られる。 生涯 袁紹の配下として官渡の...
文醜(ぶんしゅう)とは 後漢末の武将で、袁紹に仕えた猛将。顔良と並び称され、袁紹軍の双璧と呼ばれた。 生涯 河北に勢力を誇った袁紹の麾下で、先鋒として活躍した。白馬の戦いで顔良...
南陽(なんよう)とは 後漢から三国志期にかけての中国の地名で、現在の河南省南部・湖北省北西部一帯にあたる。人口・物産ともに豊かで、後漢末の群雄割拠において重要な地域のひとつであった。 ...
冀州(きしゅう)とは、中国の歴史上の地名であり、古代から存在する九州の一つです。三国志の舞台となる時代には、北方に位置する広大な地域を指していました。 冀州は、黄河中流から河北平原西部にかけて...
韓馥(かんふく)とは 後漢末の群雄のひとりで、冀州牧を務めた人物。黄巾の乱や董卓の専横に対抗する過程で名を残した。 生涯 韓馥は冀州の牧として河北を統治していた。董卓が洛陽を牛...
予州(よしゅう)とは、中国の古代の地方行政区画のひとつであり、三国志の時代には重要な舞台となった地域です。 予州はおおよそ現在の河南省南部や安徽省西部を中心とした広い範囲を指します。中国古代の...
兗州(えんしゅう)とは、中国・後漢末期から三国時代にかけて存在した行政区画の一つです。 兗州の歴史 兗州は古代中国における九州の一つとされ、黄河流域の中原地帯に位置していました。戦国時代...
河内(かわち)とは 後漢から三国志期にかけて存在した中国の地名で、現在の河南省北部(黄河南岸)にあたる地域を指す。黄河の南に位置することから「河内」と呼ばれた。 土地の歴史 河...
王匡(おうきょう)とは 後漢末の武将で、河内太守を務めた人物。董卓の横暴に反発し、反董卓連合に加わった群雄の一人。 生涯 王匡は河内郡の太守として勢力を持ち、董卓が都を掌握する...
張邈(ちょうぼう)とは 後漢末の武将で、兗州・陳留の太守を務めた人物。名門出身で人望も厚く、董卓打倒の連合軍にも参加している:contentReference[oaicite:0]{index...
済北(せいほく)とは 後漢時代の郡名で、現在の山東省済南市周辺にあたる地域。泰山の北側に位置し、黄河流域の交通と農耕の要衝であった。 歴史 済北郡は前漢の頃に設置され、後漢時代...
鮑信(ほうしん)とは 後漢末の武将で、兗州出身。義に厚く、曹操と深く関わった人物として知られる。 生涯 鮑信は兗州の豪族で、兄弟の鮑韜とともに名望を集めていた。黄巾の乱の鎮圧で...
山東(さんとう)とは、中国の東部に位置する地名であり、現代でも「山東省」としてその名前が残っています。三国志の時代にも「山東」は一つの地域的呼称として登場し、特に黄河の東側一帯を指します。この地...
劉備(りゅうび)とは 劉備は、中国三国時代の蜀(しょく、蜀漢)の初代皇帝となった人物です。三国志の物語世界において最も親しまれている英雄の一人であり、その生き様は現代に至るまで多くの読者の共感...
関羽(かんう)とは、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将で、劉備の義兄弟として知られる人物です。 生涯(生い立ち、活躍、最後) 関羽は、山西省解良県の出身とされ、若い頃には義侠心と...
張飛(ちょうひ)とは、『三国志』に登場する中国後漢末期から三国時代初期の武将です。主に劉備(りゅうび)の義兄弟として知られ、関羽(かんう)とともに「桃園の誓い」に参加した三人のひとりです。 生...
潁川(えいせん)とは 潁川は、後漢から三国時代にかけて存在した中国の地名で、現在の河南省許昌市一帯にあたる。中原の要地として知られ、歴史的に多くの名士や豪族を輩出した地域である。 歴史...
三公(さんこう)とは 中国古代の高官の称号で、国家の最高位にある三つの官職を総称した呼び方。後漢期では「太尉」「司徒」「司空」を指す。 役割 三公は皇帝を補佐する最高位の大臣で...
汜水(しすい)とは 中国河南省にある河川の名で、黄河の支流の一つ。三国志においては「汜水関(しすいかん)」という関所の地名として有名である。洛陽の西に位置し、長安・洛陽へ通じる要衝であっ...
河北(かほく)とは、中国の地名で、三国志の時代には重要な地域としてたびたび登場します。 河北は「河の北」、すなわち中国の大河・黄河(こうが)の北に位置する広大な地域の総称です。この地域は戦略的...
長沙(ちょうさ)とは 現在の湖南省に位置する都市で、三国志の時代には荊州南部の重要な郡城として登場する。長江の支流・湘江に面し、南方と中原を結ぶ軍事・交通の要地であった。 歴史的背景 後漢...
江東(こうとう)とは 長江の下流域、現在の江蘇省・安徽省・浙江省一帯を指す地名。三国志の時代には孫氏一族が支配した地域として有名であり、呉の根拠地となった。 歴史的背景 後漢末、反董卓連合...
李儒(りじゅ)とは 後漢末に董卓に仕えた謀臣で、その冷酷さと智謀で知られる。董卓政権の黒幕的存在として、朝廷を震え上がらせた。 生涯 李儒はもともと学識豊かな士人であったが、董...
富春(ふしゅん)とは 富春は、中国浙江省杭州市富陽区一帯の古称である。富春江(ふしゅんこう、現在の富春江河)に因んで呼ばれる地域で、古来より風光明媚な地として知られる。 歴史的背景 ...
浙江(せっこう)とは 浙江は、中国東南部の地域名で、現在の浙江省のことを指す。浙江という名は、当地を流れる銭塘江(せんとうこう、古名「浙江」)に由来する。山海に富み、古来より交通・経済の...
富陽(ふよう)とは 富陽は、中国浙江省杭州市南西部に位置する地域で、古代には富春(ふしゅん)と呼ばれていた地にあたる。富春江流域に広がる地域で、風光明媚な山水の地として知られる。 歴史...
銭塘(せんとう)とは 中国浙江省に位置する地名で、現在の杭州市周辺を指す。銭塘江(せんとうこう、現・銭江)の下流にあたり、古来より水運と経済の要地として発展した。 歴史的背景 銭塘は春秋戦...
家宝(かほう)とは、一族や家系で代々伝えられてきた貴重な宝物や品のことを指します。三国志の物語内でも、時折、名家や武将の家に伝わる宝剣、書画、器物などが「家宝」として登場し、その家の威信や誇りの...
一 洛陽の余燼も、ようやく熄んだ。 帝と皇弟の車駕も、かくて無事に宮門へ還幸になった。 何太后は、帝を迎えると、 「おお」 と、共に相擁したまま、しばらくは嗚咽にむせん...
赤兎(せきと)とは 三国志に登場する伝説的な名馬で、「一日に千里を走る」と謳われた。主に呂布奉先と関羽雲長の愛馬として知られる。 由来と歴史 赤兎は董卓が呂布を懐柔する際に贈っ...
華雄(かゆう)とは 後漢末期、董卓配下の猛将として知られる人物。『三国志演義』や吉川英治『三国志』で描かれるが、正史においては記録が少なく、実在性についても議論がある。 生涯 董卓の将軍と...
程普(ていふ)とは 後漢末から三国時代にかけて活躍した武将で、江東の孫家三代(孫堅・孫策・孫権)に仕えた宿将。字は徳謀。 生涯 孫堅に従って反董卓連合軍に参加し、汜水関の戦いでは董卓軍の副...
李粛(りしゅく)とは 後漢末の武将で、呂布に仕えた人物。董卓暗殺後の政変に関わったことで知られる。 生涯 李粛は若くして呂布の友人となり、彼を董卓に推挙した人物と伝えられる。も...
黄蓋(こうがい)とは 三国志に登場する呉(孫権政権)の宿将。江東の古参として孫堅・孫策・孫権の三代に仕え、赤壁の戦いで決定打となった「苦肉の計」を体現したことで名高い。吉川英治『三国志』でも...
楼桑村(ろうそうそん)とは 楼桑村は、三国志の物語の冒頭に登場する村で、重要な場面の舞台となります。この地は、後に魏・呉・蜀と割拠する英雄たちが台頭する激動の時代、まだ世の中が平穏だった初期の...
広宗(こうそう)とは、後漢末の冀州・鉅鹿郡に属した城邑・県の名であり、黄巾の乱における決定的会戦の舞台として、三国志世界の入口を開く地です。 歴史 黄巾の乱の最終局面で、広宗は張角の弟・張...
前漢(ぜんかん)とは 紀元前202年に劉邦(高祖)が建国した漢王朝の前期で、都を長安に置いたため「西漢」とも呼ばれる。紀元前8年に王莽が「新」を建てるまで続いた。 歴史 ・劉邦...
袁隗(えんかい)とは 後漢末の名族・袁氏の一人で、袁紹や袁術の大叔父にあたる人物。後漢末期の混乱期に司空などの高官を歴任した。 生涯 袁隗は四世三公(四代にわたり三公を輩出した...
李傕(りかく)とは 董卓の旧臣で四大将の一人。董卓滅亡後、西涼方面の敗兵を糾合して長安に復帰し、献帝のもとで車騎将軍・のち大司馬にまでのぼるが、同僚の郭汜と覇権を争い、都下を血で染める混乱の...
郭汜(かくし)とは、後漢末の群雄の一人で、董卓死後に李傕と結び長安の朝廷を壟断し、献帝を脅しながら権勢をふるった武将です。長安支配ののち李傕と不和に陥り、天子をめぐって争奪・和睦・離反を繰り返す...
張済(ちょうさい)とは 董卓の死後、李傕・郭汜・樊稠らと並ぶ勢力として長安政局に関与した将。李傕・郭汜の内訌に乗じて大軍で現れ仲裁を強いて和睦させ、献帝から驃騎将軍に任ぜられたのち、弘農への...
樊稠(はんちゅう)とは、董卓の死後に台頭した李傕・郭汜・張済らと並ぶ「四将」の一人で、長安を制圧したのち右将軍に任ぜられた武将です。やがて宴席で李傕に「裏切者」と断じられ、密告と疑心暗鬼の果てに...
張楊(ちょうよう)とは 後漢末の群雄の一人。吉川英治『三国志』では、反董卓連合に加わった諸侯の一人として名が挙がり、その後は呂布と縁を結ぶが、やがて配下に殺される人物として描かれる 。 ...
穆順(ぼくじゅん)とは 吉川英治『三国志』に登場する同名の人物で、宮中に仕える忠実な宦官(あるいは近臣)と、張楊配下の名槍手という二人がいる。前者は伏皇后と献帝に近侍し、後者は戦場で呂布に挑...
千里(せんり)とは 古代中国で距離を表す言葉。里は距離の単位であり、「千里」は非常に長い距離、はるか遠方を意味する。現代でいうと約400〜500km前後を指すことが多いが、文脈によって「...
楊彪(ようひょう)とは 後漢末の政治家で、司空を務めた高官。字は文先(ぶんせん)。楊震を祖とする名門楊氏の出身で、楊修の父にあたる。 生涯 霊帝の時代に仕え、三公のひとつである...
黄琬(こうえん)とは 後漢末の政治家で、司徒を務めた高官。字は子琰(しえん)。名門の出であり、清廉な士として知られる。 生涯 黄琬は名門・潁川黄氏の出身で、若くして学識と人徳で...
荀爽(じゅんそう)とは 後漢末の名士で、儒学者。字は慈明(じめい)。荀彧・荀攸らを輩出した荀氏一族の長老格にあたり、後世の三国志世界において名門荀氏の基盤を築いた人物である。 生涯 ...
周毖(しゅうひ)とは 後漢末の官僚で、黄門侍郎を務めた人物。何進と宦官の争い、董卓の入京といった政変の中で登場する。 生涯 霊帝の崩御後、外戚の何進が宦官を誅そうとした際、周毖...
揚州(ようしゅう)とは、中国の古代から三国時代にかけて存在した地名・行政区画です。 揚州は中国南東部、長江より南、江蘇省南部や浙江省、安徽省、江西省、福建省の一部など広範囲を含む地域にあたりま...
黄河(こうが)とはは三国志に深く関係する地理用語で、中国の重要な大河のひとつです。 【黄河(こうが)について】 ・その土地の歴史 黄河は中国北部を東西に貫く大河で、中国文明発祥の地の一...
荊州(けいしゅう)とは、中国の古代行政区画のひとつであり、三国志の舞台となる重要な地域です。 荊州は、中国中南部の長江流域に広がる広大な地域で、現在の湖北省・湖南省・広東北部・江西西部などに相...
白馬(はくば)は、吉川英治の三国志に登場する地名のひとつであり、歴史的にも有名な戦いの舞台のひとつです。中国の河北省に位置した地で、時代背景としては後漢末期の群雄割拠時代、袁紹軍と曹操軍の戦いに...
董旻(とうびん)とは 後漢末の武将で、董卓の一族にあたる人物。董卓政権を支える重臣の一人として登場する。 生涯 董旻は董卓の一族であり、董卓が洛陽に入って朝廷を掌握した際に重用...
王允(おういん)とは 王允は、後漢末期の政治家であり、董卓を討つために「連環の計」を仕掛けたことで知られる人物である。字は子師。太原郡祁県(現在の山西省祁県)の出身。 生涯 王...
貂蝉(ちょうせん)とは 貂蝉は、『三国志演義』および吉川英治『三国志』に登場する伝説的美女である。正史『三国志』(陳寿著)には登場せず、後世の創作によって生まれた架空の人物と考えられてい...
丁原(ていげん)とは 後漢末の武将で、并州刺史を務めた人物。呂布奉先の最初の主君として知られる。 生涯 并州の出身で、後漢末に并州刺史となり、辺境の軍を率いていた。黄巾の乱の鎮...
皇甫嵩(こうほすう)とは 皇甫嵩は、後漢末期の武将であり、黄巾の乱を平定した名将のひとりとして知られる。三国志の正史(陳寿『三国志』)にも記録され、吉川英治『三国志』や『三国志演義』でも...
献帝(けんてい)とは 後漢の最後の皇帝、名は劉協(りゅうきょう)。霊帝の子として生まれ、在位は189年から220年まで。形式的には皇帝でありながら、実権を握れず群雄に翻弄された悲劇の君主...
蔡邕(さいよう)とは 後漢末の学者・文人・政治家。字は伯喈(はくかい)。文章や音楽、書法にすぐれ、後漢末を代表する文化人のひとりとして知られる。 生涯 陳留郡の出身。若いころか...
甘粛(かんしゅく)とは 甘粛は中国西部の地域名で、現在の甘粛省にあたる。地名は、唐代の「甘州(現在の張掖市)」と「粛州(現在の酒泉市)」を合わせたものに由来する。 後漢末から三国...
蘭州(らんしゅう)とは 蘭州は中国西部、現在の甘粛省の省都。黄河の上流に位置し、古来より西域への交通・軍事・商業の要衝として重要な都市である。 三国志の時代には「金城郡」に属し、...
并州(へいしゅう)とは 中国の古代行政区画のひとつで、現在の山西省を中心に河北・内モンゴルの一部を含む地域を指す。三国志の時代、黄河の上流に近く、北方の騎馬民族との境に位置するため、常に...
青州(せいしゅう)とは、中国の三国志時代に登場する古代中国の地域名です。 青州は現在の山東省北部付近を中心に位置していました。この地は漢王朝時代から州として置かれ、三国時代においてもその名がし...
済南(せいなん)とは 済南は、中国山東省の中西部に位置する都市で、後漢から三国時代にかけても重要な都市の一つであった。現在の済南市にあたり、歴史的に政治・経済・軍事の要衝である。 歴史...
荀彧(じゅん いく)とは 荀彧は後漢末の政治家・軍師で、曹操の参謀として魏の基盤を支えた人物。字は文若(ぶんじゃく)。「王佐の才」と称され、曹操の覇業における最大の功臣の一人とされる。 ...
荀攸(じゅんゆう)とは 荀攸は後漢末から三国時代初期にかけての政治家・軍師で、曹操の重要な参謀の一人。字は公達(こうたつ)。名門荀氏の出で、従兄弟の荀彧とともに曹操を支えた。 生涯 ...
孔子(こうし)とは、春秋時代の中国に実在した思想家・教育者。本名は孔丘(こうきゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)。魯国に生まれ、儒家の始祖として知られ、後の中国はもちろん東アジアの思想・政治・文化に大...
漢朝(かんちょう)とは 紀元前202年に劉邦(高祖)が建てた王朝で、中国史における最も重要な時代のひとつ。前漢(西漢)と後漢(東漢)の二期に分かれ、約400年にわたり続いた。 歴史 ...
弘農(こうのう)とは 後漢から三国志期にかけて存在した地名で、現在の中国・河南省西部(三門峡市一帯)にあたる。黄河中流域に位置し、交通と軍事の要地であった。 土地の歴史 弘農郡...
河東(かとう)とは、中国における地名のひとつである。主に後漢〜三国時代には、河東郡として記録されている。黄河の東側、現在の山西省南部にあたり、当時は交通・軍事の要衝地であった。 この地域は歴史...
山西(さんせい)とは、中国の地名で、現在の中華人民共和国山西省を指します。古代から中国北部に位置する重要な地域で、三国志の時代にもその地理的・軍事的な要衝として知られていました。 山西の「西」...
支那(しな)とは、中国を指す古い日本語の呼称です。 この語はもともとサンスクリット語の「チーナ(Cīna)」に由来し、それが中国を表す呼称として中国以外の諸外国で使われ、日本にも伝わりました。...
後漢(ごかん)とは 後漢とは、中国の歴史上、紀元25年から220年まで存在した王朝で、漢王朝の中でも「後期」に当たる政権です。前の「前漢(紀元前206年〜8年)」に対してこのように呼ばれます。...
武帝(ぶてい)とは、中国の歴代王朝で一般的に用いられた諡号や尊称ですが、三国志の文脈で「武帝」と記す場合、もっとも有名なのは曹操(そうそう)を指します。曹操は魏を建国した曹丕(曹操の子)から「武...
下邳(かひ)とは 下邳は、中国江蘇省徐州市睢寧県一帯にあたる古代の都市である。後漢から三国時代にかけて重要な軍事拠点であり、黄河と泗水に挟まれた要地として幾度も戦いの舞台となった。 歴...
雲長(うんちょう)とは、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将、関羽(かんう)の字(あざな)です。一般的には関羽のことを指します。 関羽は、もともと山西省解県出身の武人で、劉備を義兄弟(...
百里(ひゃくり)とは、三国志において主に長さを表現する単位として登場します。「里(り)」は古代中国の距離の単位であり、1里はおよそ418メートルから約500メートル程度とされ、時代や地域によって...
項羽(こうう)とは 項羽は、中国秦末から漢初にかけての武将・覇者で、楚の名門出身。姓は項、名は籍(せき)、字は羽。一般には「西楚の覇王」として知られる。三国志の時代より約400年前の人物...
幽州(ゆうしゅう)とは、三国志の時代、中国の北方に位置した州の一つです。 幽州は、現在の北京市、天津市、河北省北部、遼寧省西部などの大まかな範囲にあたる地域を指します。漢王朝の行政区分で定めら...
セン(せん)とは三国志に登場する人物の一人です。 劉備の妻であり、特に劉禅(りゅうぜん、後の蜀漢の二代目皇帝)の母として知られています。姓は「呉」であり、呉夫人や呉氏とも呼ばれますが、小説「三...
中山(ちゅうざん/ちゅうさん)は、中国古代の地名・国名の一つとして、三国志やその時代背景にしばしば登場する。三国志の物語の中では、特に「中山靖王」や「中山王」などの爵位や王号で言及されることが多...
呉子(ごし)とは 呉子とは、中国戦国時代の兵法書のひとつであり、著者は呉起(ごき)とされる。『孫子』と並んで古代中国の代表的な兵法書に数えられる。三国志に直接登場する人物ではないが、兵法...
青梅(あおうめ)とは、日本語では主に梅の未熟な実、もしくはそれを使った食品や酒(梅酒など)の材料を指しますが、三国志においては有名なエピソード「青梅煮酒(せいばいじしゅ)」で使われます。 この...
益州(えきしゅう)とは、古代中国における州(行政区域)の一つで、三国志の時代においては、現在の四川省を中心とした地域に該当します。 この地は、蜀(しょく)、すなわち後の蜀漢(しょくかん)が建国...
美姫(びき)とは 「美しい姫君」や「美しい娘」を意味する一般的な表現で、特定の人物名ではない。古典や物語では、容姿端麗な女性を指す語として用いられる。 三国志での文脈 史書『三...
桓帝(かんてい)とは、後漢王朝の第11代皇帝、諱は劉志。西暦132年に即位し、168年まで在位していた。 桓帝は即位当初こそ若年で、外戚や宦官の権力争いに巻き込まれていたものの、成長とともに政...
許子将(きょししょう)とは 後漢末の人物、名は許劭(きょしょう)、字が子将。人物鑑定で名を馳せた学者・名士である。彼の従兄弟には許靖(きょせい)がいる。 生涯 許劭は汝南郡の出...
張宝(ちょうほう)とは、後漢末期の中国に活動した人物で、特に「黄巾の乱」の指導者のひとりとして知られている。 生涯 張宝は、張角の弟で、もうひとりの兄弟とともに後漢末期の民衆反乱「黄巾の乱...
一 樊城の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽はその中軍に坐し、夜中ひんぴんと報じてくる注進を聞いていた。 曰く、 魏の援軍数万騎と。 曰く、 大将于禁、副将...
天禄(てんろく)とは、中国で用いられた元号のひとつです。三国志の物語世界では、主に北魏やその後の王朝など、後世の時代区分で用いられることが多く、三国時代(魏・蜀・呉)そのものの年号とは直接関係が...
知己(ちき)とは、互いの心や考えをよく理解し合う間柄、またはそのような親友や知人のことを指します。三国志においてこの言葉は、人間関係の深さや絆の象徴としてしばしば用いられます。たとえば、劉備と諸...
一 孫高、傅嬰の二人は、その夜すぐ兵五十人をつれて、戴員の邸を襲い、 「仇の片割れ」と、その首を取って主君の夫人徐氏へ献じた。 徐氏はすぐ喪服をかぶって、亡夫の霊を祭り、嬀覧、戴員...
匈奴(きょうど)とは、中国の北方に広がった広大な草原地帯に暮らした、遊牧民族の呼び名である。紀元前3世紀から4世紀ごろにかけて活動が顕著で、特に中国の前漢時代には強大な部族連合国家を築き、中華王...
四海(しかい)とは 四海とは、中国古代の表現で「天下」「世界」を意味する言葉である。文字通りには「四方を囲む海」を指し、中国の中心を取り巻く世界全体を象徴的に表現している。 歴史的背景...
孫子(そんし)とは 孫子とは、中国春秋時代の兵法家・孫武(そんぶ)のこと、または彼の著した兵法書『孫子兵法』を指す。世界最古にして最も有名な兵法書のひとつであり、「兵学の聖典」と呼ばれる...
陽城(ようじょう)とは 陽城は、後漢から三国時代にかけて存在した地名で、現在の中国河南省登封市一帯にあたる。中原の南部に位置し、戦乱の時代には戦略上の一地点として登場する。 歴史的背景...
隴西(ろうせい)とは 隴西は中国西部の古代地名で、現在の甘粛省定西市一帯にあたる。後漢時代には隴西郡が置かれ、西涼(せいりょう)と並んで辺境防衛の要地とされた。 歴史的背景 隴...
劉焉(りゅうえん)とは、中国後漢末期の武将・政治家。漢王朝の皇族の一員であり、三国志の序盤で蜀の地(益州)を支配したことで知られる。 生涯 劉焉は、もとは朝廷で活躍した文官で、のちに天...
臨洮(りんとう)とは 臨洮は中国西部の古代地名で、現在の甘粛省定西市臨洮県にあたる。後漢時代には隴西郡に属し、西方防衛の要衝であった。 歴史的背景 臨洮は黄河上流域に近く、シル...
峨眉山(がびさん)とは 峨眉山は、中国四川省楽山市に位置する名山で、中国四大仏教名山の一つとして知られる。標高3,099メートルに及び、その優美な山容から「峨眉天下の秀」と称された。古来...
金城(きんじょう)とは 守りの硬い城のこと
一 南蛮国における「洞」は砦の意味であり、「洞の元帥」とはその群主をいう。 いま国王孟獲は、部下の三洞の大将が、みな孔明に生擒られ、その軍勢も大半討たれたと聞いて、俄然、形相を変えた。...
建寧(けんねい)とは、中国・後漢時代の元号のひとつです。 建寧は、後漢の第12代皇帝・霊帝(れいてい)の時代の元号で、西暦168年から172年までの期間を指します。霊帝は、宦官政治が横行し、政...
霊帝(れいてい)とは、後漢末期の皇帝、劉宏(りゅうこう)のことです。 生涯 霊帝は、後漢の第12代皇帝で、即位した当時は若年でした。父は桓帝(かんてい)で、死後に皇后の甄氏(しんし)の子と...
旗本(はたもと)とは もともとは「旗のもとに仕える者」の意味で、主将の直属の精鋭部隊や近習の将兵を指す言葉である。戦場では主君の旗を守り、最も信頼される近衛的な役割を担った。 三国志における...
一 後漢の建寧元年のころ。 今から約千七百八十年ほど前のことである。 一人の旅人があった。 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、...
一 驢は、北へ向いて歩いた。 鞍上の馬元義は、ときどき南を振り向いて、 「奴らはまだ追いついてこないがどうしたのだろう」と、つぶやいた。 彼の半月槍をかついで、驢の後からつい...
一 それは約五十名ほどの賊の小隊であった。中に驢に乗っている二、三の賊将が鉄鞭を指して、何かいっていたように見えたが、やがて、馬元義の姿を見かけたか、寺のほうへ向って、一散に近づいてきた。 ...
一 白馬は疎林の細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備と芙蓉の影を、征箭のようにかすめた。 やがて曠い野に出た。 野に出ても、二人の身をなお、...
一 涿県の楼桑村は、戸数二、三百の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢をつなぐので、酒を売る旗亭もあれば、胡弓を弾くひなびた妓などもいて相当に賑わっ...
一 蟠桃河の水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞をひき、夜は眉のような月が香った。 けれど、その水にも、詩を詠む人を乗せた一艘の舟もないし、杖をひいて逍遥する雅人の影もなかった。 「お...
一 城壁の望楼で、今しがた、鼓が鳴った。 市は宵の燈となった。 張飛は一度、市の辻へ帰った。そして昼間ひろげていた猪の露店をしまい、猪の股や肉切り庖丁などを苞にくくって持つとまた...
一 母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。 がたん…… ことん がたん 水車の回るような単調な音がくり返されていた。 だが、その...
一 桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。 壇の四方には、笹竹を建て、清縄をめぐらして金紙銀箋の華をつらね、土製の白馬を贄...
一 それより前に、関羽は、玄徳の書をたずさえて、幽州涿郡(河北省・涿県)の大守劉焉のもとへ使いしていた。 太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂で接見した。 関羽は、礼を...
一 義はあっても、官爵はない。勇はあっても、官旗を持たない。そのために玄徳の軍は、どこまでも、私兵としか扱われなかった。 (よく戦ってくれた)と、恩賞の沙汰か、ねぎらいの言葉でもあるかと...
一 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。 「さ...
一 「劉氏。もし、劉氏ではありませんか」 誰か呼びかける人があった。 その日、劉玄徳は、朱雋の官邸を訪ねることがあって、王城内の禁門の辺りを歩いていた。 振向いてみると、それ...
一 「おい」 張飛はいった。大地に坐っている大勢の百姓町民へ向って、 「おまえ達は、退散しろ。これから俺がやることに、後で、かかり合いになるといけないぞ」 しかし百姓たちは、泥...
一 いっさんに馳けた玄徳らは、ひとまず私宅に帰って、私信や文書の反故などみな焼きすて、その夜のうちに、この地を退去すべくあわただしい身支度にかかった。 官を捨てて野に去ろうとなると、こ...
一 その翌日である。玄徳たち三名は、にわかに五台山麓の地、劉恢の邸宅から一時身を去ることになった。 別れにのぞんで、主の劉恢は、落魄の豪傑玄徳らのために別離の小宴をひらいて、さていうに...
一 時は、中平六年の夏だった。 洛陽宮のうちに、霊帝は重い病にかかられた。 帝は病の篤きを知られたか、 「何進をよべ」 と、病褥から仰せ出された。 大将軍何進は、...
一 百官の拝礼が終って、 「新帝万歳」の声が、喪の禁苑をゆるがすと共に、御林軍(近衛兵)を指揮する袁紹は、 「次には、陰謀の首魁蹇碩を血まつりにあげん」 と、剣を抜いて宣言した...
一 何進の幕将で中軍の校尉袁紹は、何進の首を抱いて、 「おのれ」と、青鎖門を睨んだ。 同じ何進の部下、呉匡も、 「おぼえていろ」と、怒髪を逆だて、宮門に火を放つと五百の精兵を駆...
一 その日の戦いは、董卓の大敗に帰してしまった。 呂布の勇猛には、それに当る者もなかった。丁原も、十方に馬を躍らせて、董卓軍を蹴ちらし、大将董卓のすがたを乱軍の中に見かけると、 「...
一 まだ若い廃帝は、明け暮れ泣いてばかりいる母の何太后と共に、永安宮の幽居に深く閉じこめられたまま、春をむなしく、月にも花にも、ただ悲しみを誘わるるばかりだった。 董卓は、そこの衛兵に...
一 曹操はまだ若い人だ。にわかに、彼の存在は近ごろ大きなものとなったが、その年歯風采はなお、白面の一青年でしかない。 年二十で、初めて洛陽の北都尉に任じられてから、数年のうちにその才幹...
一 曹操を搦めよ。 布令は、州郡諸地方へ飛んだ。 その迅速を競って。 一方―― 洛陽の都をあとに、黄馬に鞭をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如く逃げてきた曹操は...
一 さて。――日も経て。 曹操はようやく父のいる郷土まで行き着いた。 そこは河南の陳留(開封の東南)と呼ぶ地方である。沃土は広く豊饒であった。南方の文化は北部の重厚とちがって進取...
一 この暁。 洛陽の丞相府は、なんとなく、色めき立っていた。 次々と着いてくる早馬は、武衛門の楊柳に、何頭となくつながれて、心ありげに、いななきぬいていた。 「丞相、お目をさ...
一 汜水関のほうからは、たえず隠密を放って、寄手の動静をさぐらせていたが、その細作の一名が、副将の李粛へ、ある時こういう報告をしてきた。 「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。...
一 ――華雄討たれたり ――華雄軍崩れたり 敗報の早馬は、洛陽をおどろかせた。李粛は、仰天して、董相国に急を告げた。董卓も、色を失っていた。 「味方は、どう崩れたのだ」 ...
一 味方の大捷に、曹操をはじめ、十八ヵ国の諸侯は本陣に雲集して、よろこびを動揺めかせていた。 そのうちに、討取った敵の首級何万を検し大坑へ葬った。 「この何万の首のうちに、一つの呂...
一 曹操は、見つけて、 「おのれ、あれなるは、たしかに呂布」と、さえぎる雑兵を蹴ちらして、呂布の立っている高地へ近づこうとしたが、董卓直参の李傕が、横合いの沢から一群を率いてどっと馳けお...
一 さて、その後。 ――焦土の洛陽に止まるも是非なしと、諸侯の兵も、ぞくぞく本国へ帰った。 袁紹も、兵馬をまとめて一時、河内郡(河南省・懐慶)へ移ったが、大兵を擁していることとて...
一 遷都以後、日を経るに従って、長安の都は、おいおいに王城街の繁華を呈し、秩序も大いにあらたまって来た。 董卓の豪勢なることは、ここへ遷ってからも、相変らずだった。 彼は、天子を...
一 「呉の孫堅が討たれた」 耳から耳へ。 やがて長安(陝西省・西安)の都へその報は旋風のように聞えてきた。 董卓は、手を打って、 「わが病の一つは、これで除かれたというも...
一 王允は、一家を挙げて、彼のためにもてなした。 善美の饗膳を前に、呂布は、手に玉杯をあげながら主人へ云った。 「自分は、董太師に仕える一将にすぎない。あなたは朝廷の大臣で、しかも...
一 春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。 王允のことばを信じて、呂布はその夜、素直に邸に帰ったもののなんとなく寝ぐるしくて、一晩中、熟睡できなかった。 「――どうしているだろ...
一 その後、日を経て、董卓の病もすっかりよくなった。 彼はまた、その肥大強健な体に驕るかのように、日夜貂蝉と遊楽して、帳裡の痴夢に飽くことを知らなかった。 呂布も、その後は、以前...
天颷 一 董太師、郿塢へ還る。――と聞えたので、長安の大道は、拝跪する市民と、それを送る朝野の貴人で埋まっていた。 呂布は、家にあったが、 「はてな?」 窓を排して、街の空...
一 西涼(甘粛省・蘭州)の地方におびただしい敗兵が流れこんだ。 郿塢の城から敗走した大軍だった。 董卓の旧臣で、その四大将といわれる李傕、張済、郭汜、樊稠などは、連名して、使者を...
一 諸州の浪人の間で、 「近ごろ兗州の曹操は、頻りと賢を招き、士を募って、有能の士には好遇を与えるというじゃないか」と、もっぱら評判であった。 聞きつたえて、兗州(山東省西南部)へ...
一 城兵の士気は甦った。 孤立無援の中に、苦闘していた城兵は、思わぬ劉玄徳の来援に、幾たびも歓呼をあげてふるった。 老太守の陶謙は、「あの声を聞いて下さい」と、歓びにふるえながら...
一 穴を出ない虎は狩れない。 曹操は、あらゆる策をめぐらして、呂布へ挑んだが、 「もうその策には乗らない」と、彼は容易に、濮陽から出なかった。 そのくせ、前線と前線との、偵察...
一 出稼ぎの遠征軍は、風のままにうごく。蝗のように移動してゆく。 近頃、風のたよりに聞くと、曹操の古巣の兗州には、呂布の配下の薛蘭と李封という二将がたて籠っているが、軍紀はすこぶるみだ...
一 一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪れば、英雄と称せられる。 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀誉褒貶もまたおかしなものである。 曹操は、自分...
一 「なに、無条件で和睦せよと。ばかをいい給え」 郭汜は、耳もかさない。 それのみか、不意に、兵に令を下して、楊彪について来た大臣以下宮人など、六十余人の者を一からげに縛ってしまっ...
一 楊奉の部下に、徐晃、字を公明と称ぶ勇士がある。 栗色の駿馬に乗り、大斧をふりかぶって、郭汜の人数を蹴ちらして来た。それに当る者は、ほとんど血煙と化して、満足な形骸も止めなかった。 ...
一 魏では、その年の建安二十五年を、延康元年と改めた。 また夏の六月には、魏王曹丕の巡遊が実現された。亡父曹操の郷里、沛の譙県を訪れて、先祖の墳を祭らんと沙汰し、供には文武の百官を伴い...
一 曹操は、さらにこう奏上して、帝に誓った。 「生を国土にうけ、生を国恩に報ぜんとは、臣が日頃から抱いていた志です。今日、選ばれて、殿階の下に召され、大命を拝受するとは、本望これに越した...
一 楊奉の部下が、 「徐晃が今、自分の幕舎へ、敵方の者をひき入れて何か密談しています」 と、彼の耳へ密告した。 楊奉は、たちまち疑って、 「引っ捕えて糺せ」と、数十騎を向...
一 張飛は、不平でたまらなかった。――呂布が帰るに際して、玄徳が自身、城門外まで送りに出た姿を見かけたので、なおさらのこと、 「ごていねいにも程がある」と、業腹が煮えてきたのであった。 ...
一 呂布は、呂布らしい爪牙をあらわした。猛獣はついに飼主の手を咬んだのである。 けれど彼は元来、深慮遠謀な計画のもとにそれをやり得るような悪人型ではない。猛獣の発作のごとく至って単純な...
一 大河は大陸の動脈である。 支那大陸を生かしている二つの大動脈は、いうまでもなく、北方の黄河と、南方の揚子江とである。 呉は、大江の流れに沿うて、「江東の地」と称われている。 ...
一 牛渚(安徽省)は揚子江に接して後ろには山岳を負い、長江の鉄門といわれる要害の地だった。 「――孫堅の子孫策が、南下して攻めて来る!」 と、聞え渡ると、劉繇は評議をひらいて、さっ...
一 「違わぬ違わぬ」 孫策は、振向きもしない。 供の諸将は、怪しんで、 「味方の陣地は、北の道を降りるのですが」と、重ねていうと、 「だから南へ降りるのだ。ここまで来て、空...
一 曠の陣頭で、晴々と、太史慈に笑いかえされたので、年少な孫策は、 「よしッ今日こそ、きのうの勝負をつけてみせる」と、馬を躍らしかけた。 「待ちたまえ」と、腹心の程普は、あわてて彼の...
一 かくて、小覇王孫郎の名は、旭日のような勢いとなり、江東一帯の地は、その武威にあらまし慴伏してしまったが、ここになお頑健な歯のように、根ぶかく歯肉たる旧領を守って、容易に抜きとれない一勢力...
一 ひとまず、江東も平定した。 軍勢は日ましに増強するばかりだし、威風は遠近をなびかせて、孫策の統業は、ここにその一段階を上がったといってよい。 「ここが大事だ。ここで自分はなにを...
一 江南江東八十一州は、今や、時代の人、孫策の治めるところとなった。兵は強く、地味は肥沃、文化は溌剌と清新を呈してきて、 小覇王孫郎 の位置は、確固たるものになった。 諸将...
一 「このまま踏み止まっていたら、玄徳はさておいて、呂布が、違約の敵と名乗って、総勢で攻めてくるにちがいない」 紀霊は、呂布を恐れた。 何だか呂布に一ぱい喰わされた気もするが、彼の...
一 次の日、陳珪は、また静かに、病床に横臥していたが、つらつら険悪な世上のうごきを考えると小沛にいる劉玄徳の位置は、実に危険なものに思われてならなかった。 「呂布は前門の虎だし、袁術は後...
一 張飛と関羽のふたりは、殿軍となって、二千余騎を県城の外にまとめ、 「この地を去る思い出に」 とばかり、呂布の兵を踏みやぶり、その部将の魏続、宋憲などに手痛い打撃を与えて、 ...
一 下邳は徐州から東方の山地で、寄手第六軍の大将韓暹は、ここから徐州へ通じる道を抑え、司令部を山中の嘯松寺において、総攻撃の日を待っている。 もちろん、街道の交通は止まっている。野にも...
一 「袁術先生、予のてがみを読んで、どんな顔をしたろう」 淮南の使いを追い返したあとで、孫策はひとりおかしがっていた。 しかし、また一方、 「かならず怒り立って、攻め襲うて来る...
一 ――一時、この寿春を捨て、本城をほかへ遷されては。 と、いう楊大将の意見は、たとえ暫定的なものにせよ、ひどく悲観的であるが、袁術皇帝をはじめ、諸大将、誰あって、 「それは余りに...
一 年明けて、建安三年。 曹操もはや四十を幾つかこえ、威容人品ふたつながら備わって、覇気熱情も日頃は温雅典麗な貴人の風につつまれている。時には閑を愛して独り書を読み、詩作にふけり、終日...
一 ようやく許都に帰りついた曹操は帰還の軍隊を解くにあたって、傍らの諸将にいった。 「先頃、安象で大敵に待たれた時、見つけない一名の将が手勢百人たらずを率い、予の苦戦を援けていたが、さだ...
一 黄河をわたり、河北の野遠く、袁紹の使いは、曹操から莫大な兵糧軍需品を、蜿蜒数百頭の馬輛に積載して帰って行った。 やがて、曹操の返書も、使者の手から、袁紹の手にとどいた。 袁紹...
一 今は施すすべもない。なにをかえりみているいとまもない。業火と叫喚と。 そして味方の混乱が、否応もなく、玄徳を城の西門から押し出していた。 火の粉と共に、われがちに、逃げ散る兵...
一 そこを去って、蕭関の砦を後にすると、陳登は、暗夜に鞭をあげて、夜明け頃までにはまた、呂布の陣へ帰っていた。 待ちかねていた呂布は、 「どうだった? ……蕭関の様子は」と、すぐ糺...
一 呂布は、櫓に現れて、 「われを呼ぶは何者か」と、わざと云った。 泗水の流れを隔てて、曹操の声は水にこだまして聞えてきた。 「君を呼ぶ者は君の好き敵である許都の丞相曹操だ。―...
一 最後の一計もむなしく半途に終って、それ以来、呂布は城にあって、日夜悶々と、酒ばかりのんでいたが、――その呂布を攻め、城を取囲んでいる曹操のほうにも、すでに安からぬ思いが濃かった。 「...
一 曹操は、侍者に起されて、暁の寒い眠りをさました。夜はまだ明けたばかりの頃である。 「何か」と、帳を払って出ると、 「城中より侯成という大将が降を乞うて出で、丞相に謁を賜りたいと陣...
一 都へ還る大軍が、下邳城を立ち出で、徐州へかえると、沿道の民は、ちまたに溢れて、曹操以下の将士へ、歓呼を送った。 その中から、一群れの老民が道に拝跪しながら進みでて、曹操の馬前に懇願...
一 禁苑の禽は啼いても、帝はお笑いにならない。 簾前に花は咲いても、帝のお唇は憂いをとじて語ろうともせぬ。 きょうも終日、帝は、禁中のご座所に、物思わしく暮しておわした。 ...
一 「ああ危なかった」 虎口をのがれたような心地を抱えて、董承はわが邸へいそいだ。 帰るとすぐ、彼は一室に閉じこもって、御衣と玉帯をあらためてみた。 「はてな。何物もないが?」...
一 昼は人目につく。 董承は或る夜ひそかに、密詔をふところに秘めて頭巾に面をかくして、 「風雅の友が秦代の名硯を手に入れたので、詩会を催すというから、こよいは一人で行ってくる」 ...
一 「張飛。――欠伸か」 「ムム、関羽か。毎日、することもないからな」 「また、飲んだのだろう」 「いや、飲まん飲まん」 「夏が近いな、もう……」 「梅の実も大きくなってき...
一 雨やどりの間の雑談にすぎないので巧みに答えをかわされたが、曹操は、腹も立てられなかった。 玄徳は、すこし先に歩いていたが、よいほどな所で、彼を待ち迎えて、 「まだ降りそうな雲で...
一 幾日かをおいて、玄徳は、きょうは先日の青梅の招きのお礼に相府へ参る、車のしたくをせよと命じた。 関羽、張飛は口をそろえて、 「曹操の心根には、なにがひそんでいるか知れたものでは...
一 かねて董承に一味して、義盟に名をつらねていた西涼の太守馬騰も、玄徳が都を脱出してしまったので、 「前途はなお遼遠――」 と見たか、本国に胡族の襲来があればと触れて、にわかに、西...
一 陳大夫の息子陳登は、その後も徐州にとどまって城代の車冑を補けていたが、一日、車冑の使いをうけて、何事かと登城してみると、車冑は人を払って、 「実は、曹丞相から密書をもって玄徳を殺すべ...
一 その後、玄徳は徐州の城へはいったが、彼の志とは異っていた。しかし事の成行き上、また四囲の情勢も、彼に従来のようなあいまいな態度や卑屈はもうゆるさなくなってきたのである。 玄徳の性格...
一 その頃、北海(山東省・寿光県)の太守孔融は、将軍に任命されて、都に逗留していたが、河北の大軍が、黎陽まで進出してきたと聞いて、すぐさま相府に馳けつけ、曹操に謁して、こう直言した。 「...
一 どうも煮えきらない玄徳の命令である。争気満々たる張飛には、それがもの足らなかった。 「劉岱が虎牢関でよく戦ったことぐらいは、此方とても存じておる。さればとて、何程のことがあろう。即刻...
一 劉岱、王忠は、やがて許都へたち還ると、すぐ曹操にまみえて、こう伏答した。 「玄徳にはなんの野心もありません。ひたすら朝廷をうやまい、丞相にも服しております。のみならず土地の民望は篤く...
一 実に、とんでもない漢を、推薦してしまったというほかはない。人の推挙などというものは、うっかりできないものである――と、ひとり恐れ悔いて、当惑の色ありありと見えたのは、禰衡を推挙した孔融で...
一 禰衡が江夏へ遊びに行っている間に、曹操の敵たる袁紹のほうからも、国使を差向けて、友好を求めてきた。 荊州は両国からひッぱり凧になったわけである。いずれを選ぶも劉表の胸ひとつにある。...
一 そのむかし、まだ洛陽の一皇宮警吏にすぎなかった頃、曹操という白面の青年から、おれの将来を卜してくれといわれて、 「おまえは治世の能臣だが、また乱世の奸雄だ」 と予言したのは、洛...
一 冬をこえて南枝の梅花のほころぶを見るとともに、董家の人々も眉をひらいた。近ごろ主人の董承はすっかり体も本復して、時おり後閣の春まだ浅い苑に逍遥する姿などを見かけるようになったからである。...
一 董承に対面を強いて、客堂で出会うとすぐに曹操は彼にただした。 「国舅のお手もとへは、予から出した招待の信箋が届かなかったであろうか」 「いや、ご書箋はいただいたが、折返して不参の...
一 粛正の嵐、血の清掃もひとまず済んだ。腥風都下を払って、ほっとしたのは、曹操よりも、民衆であったろう。 曹操は、何事もなかったような顔をしている。かれの胸には、もう昨日の苦味も酸味も...
一 小沛の城は、いまや風前の燈火にも似ている。 そこに在る玄徳は、痛心を抱いて、対策に迫られている。 孫乾は冀州から帰ってきたものの、その報告は何のたのみにもならないものである。...
一 小沛、徐州の二城を、一戦のまに占領した曹操の勢いは、旭日のごときものがあった。 徐州には、玄徳麾下の簡雍、糜竺のふたりが守っていたが、城をすててどこかへ落ち去ってしまい、あとには陳...
一 一羽の猛鷲が、翼をおさめて、山上の岩石からじっと、大地の雲霧をながめている。―― 遠方から望むと、孤将、関羽のすがたはそんなふうに見えた。 「お待たせいたしました」 張遼...
一 或る日、ぶらりと、関羽のすがたが相府に見えた。 二夫人の内院が、建築も古いせいか、雨漏りして困るので修築してもらいたいと、役人へ頼みにきたのである。 「かしこまりました。さっそ...
一 劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでいた。 ここ河北の首府、冀州城のうちに身をよせてから、賓客の礼遇をうけて、なに不自由もなさそうだが、心は日夜楽しまない容子に見える。 なん...
一 顔良の疾駆するところ、草木もみな朱に伏した。 曹軍数万騎、猛者も多いが、ひとりとして当り得る者がない。 「見よ、見よ。すでに顔良一人のために、あのさまぞ。――だれか討ち取るもの...
一 顔良が討たれたので、顔良の司令下にあった軍隊は支離滅裂、潰走をつづけた。 後陣の支援によって、からくも頽勢をくい止めたものの、ために袁紹の本陣も、少なからぬ動揺をうけた。 「い...
一 関羽が、顔良を討ってから、曹操が彼を重んじることも、また昨日の比ではない。 「何としても、関羽の身をわが帷幕から離すことはできない」 いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわ...
一 大戦は長びいた。 黄河沿岸の春も熟し、その後袁紹の河北軍は、地の利をあらためて、陽武(河南省・原陽附近)の要害へ拠陣を移した。 曹操もひとまず帰洛して、将兵を慰安し、一日慶賀...
一 玄徳が河北にいるという事実は、やがて曹操の耳にも知れてきた。 曹操は、張遼をよんで、 「ちか頃、関羽の容子は、どんなふうか」と、たずねた。張遼は、答えて、 「何か、思い事に...
一 時刻ごとに見廻りにくる巡邏の一隊であろう。 明け方、まだ白い残月がある頃、いつものように府城、官衙の辻々をめぐって、やがて大きな溝渠に沿い、内院の前までかかってくると、ふいに巡邏の...
一 胡華の家を立ってから、破蓋の簾車は、日々、秋風の旅をつづけていた。 やがて洛陽へかかる途中に、一つの関所がある。 曹操の与党、孔秀というものが、部下五百余騎をもって、関門をか...
一 船が北の岸につくと、また車を陸地に揚げ、簾を垂れて二夫人をかくし、ふたたび蕭々の風と渺々の草原をぬう旅はつづいてゆく。 そうした幾日目かである。 彼方からひとりの騎馬の旅客が...
一 何思ったか、関羽は馬を下り、つかつかと周倉のそばへ寄った。 「ご辺が周倉といわれるか。何故にそう卑下めさるか。まず地を立ち給え」と、扶け起した。 周倉は立ったが、なお、自身をふ...
一 その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭がともされ、原始的な音楽が雲の中に聞えていた。 二夫人を迎えて張飛がなぐさめたのである。 「ここから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に...
一 呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげていた。 浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を扼し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方系の文...
一 「あっ、何だろう?」 宿直の人々は、びっくりした。真夜半である。燭が白々と、もう四更に近い頃。 寝殿の帳裡ふかく、突然、孫策の声らしく、つづけさまに絶叫がもれた。すさまじい物音...
一 呉を興した英主孫策を失って、呉は一たん喪色の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。 国策の大方針として、まず河...
一 槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながらまっしぐらに駈けてくる敵将を見、曹操の兵は、 「待てっ、何者だ」と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問した。 「わしは、曹丞相の...
一 袁紹はわずか八百騎ほどの味方に守られて、辛くも黎陽まで逃げのびてきたが、味方の聯絡はズタズタに断ち切られてしまい、これから西すべきか東すべきか、その方途にさえ迷ってしまった。 黎山...
一 途中、しかも久しぶりに都へかえる凱旋の途中だったが――曹操はたちどころに方針を決し、 「曹洪は、黄河にのこれ。予は、これより直ちに、汝南へむかって、玄徳の首を、この鞍に結いつけて都へ...
一 玄徳が、その一族と共に、劉表を頼って、荊州へ赴いたのは、建安六年の秋九月であった。 劉表は郭外三十里まで出迎え、互いに疎遠の情をのべてから、 「この後は、長く唇歯の好誼をふかめ...
一 冬十月の風とともに、 「曹操来る。曹軍来る」の声は、西平のほうから枯野を掃いて聞えてきた。 袁尚は愕いて、にわかに平原の囲みをとき、木の葉の如く鄴城へ退却しだした。 袁譚...
一 亡国の最後をかざる忠臣ほど、あわれにも悲壮なものはない。 審配の忠烈な死は、いたく曹操の心を打った。 「せめて、故主の城址に、その屍でも葬ってやろう」 冀州の城北に、墳を...
一 いまや曹操の勢いは旭日の如きものがあった。 北は、北狄とよぶ蒙古に境し、東は、夷狄と称する熱河の山東方面に隣するまで――旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまった。彼らしい新味ある施...
一 北方攻略の業はここにまず完成を見た。 次いで、曹操の胸に秘められているものは、いうまでもなく、南方討伐であろう。 が、彼は、冀州城の地がよほど気に入ったとみえて、ここに逗留し...
一 蔡瑁と蔡夫人の調略は、その後もやまなかった。一度の失敗は、却ってそれをつのらせた傾きさえある。 「どうしても、玄徳を除かなければ――」と、躍起になって考えた。 けれども肝腎な劉...
一 澄み暮れてゆく夕空の無辺は、天地の大と悠久を思わせる。白い星、淡い夕月――玄徳は黙々と広い野をひとりさまよってゆく。 「ああ、自分も早、四十七歳となるのに、この孤影、いつまで無為飄々...
一 主従は相見て、狂喜し合った。 「おう、趙雲ではないか。どうして、わしがここにいるのが分った」 「ご無事なお姿を拝して、ほっと致しました。この村まで来ると、昨夜、見馴れぬ高官が、童...
一 樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴えた。しかも呂曠、呂翔の二大将は、いくら待っても城へ帰ってこなかった。 すると程経てから、 「二大将は、残りの敗軍をひきいて帰る途中...
一 河北の広大をあわせ、遼東や遼西からも貢ぎせられ、王城の府許都の街は、年々の殷賑に拍車をかけて、名実ともに今や中央の府たる偉観と規模の大を具備してきた。 いわゆる華の都である。人目高...
一 次の日の朝まだき。 徐庶は小鳥の声とともに邸を出ていた。ゆうべは夜もすがら寝もやらずに明かしたらしい瞼である。今朝、新野の城門を通った者では、彼が一番早かった。 「単福ではない...
一 孔明の家、諸葛氏の子弟や一族は、のちに三国の蜀、呉、魏――それぞれの国にわかれて、おのおの重要な地位をしめ、また時代の一方をうごかしている関係上、ここでまず諸葛家の人々と、孔明そのものの...
一 さて。 ここで再び、時と場所とは前にもどって、玄徳と徐庶とが、別離を告げた道へ還るとする。 × × × 「骨肉の別れ、相思の仲の別れ。いずれも悲...
一 徐庶に別れて後、玄徳は一時、なんとなく空虚だった。 茫然と、幾日かを過したが、 「そうだ。孔明。――彼が別れる際に云いのこした孔明を訪ねてみよう」 と、側臣を集めて、急に...
一 一行が、隆中の村落に近づいたころは、天地の物、ことごとく真白になっていた。 歩一歩と、供の者の藁沓は重くなり、馬の蹄を埋めた。 白風は衣をなげうち、馬の息は凍り、人々の睫毛は...
一 年はついに暮れてしまった。 あくれば建安十三年。 新野の居城に、歳暮や歳旦を迎えているまも、一日とて孔明を思わぬ日のない玄徳は、立春の祭事がすむと、卜者に命じて吉日をえらばせ...
一 十年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。 玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。...
一 眼を転じて、南方を見よう。 呉は、その後、どういう推移と発展をとげていたろうか。 ここ数年を見較べるに―― 曹操は、北方攻略という大事業をなしとげている。 玄徳の...
一 呉はここに、陸海軍とも大勝を博したので、勢いに乗って、水陸から敵の本城へ攻めよせた。 さしも長い年月、ここに、 (江夏の黄祖あり) と誇っていた地盤も、いまは痕かたもなく...
一 この当時である。曹操は大いに職制改革をやっていた。つねに内政の清新をはかり、有能な人物はどしどし登用して、閣僚の強化につとめ、 (事あれば、いつでも)という、いわゆる臨戦態勢をととの...
一 「ここに一計がないでもありません」 と、孔明は声をはばかって、ささやいた。 「国主の劉表は病重く、近頃の容態はどうやら危篤のようです。これは天が君に幸いするものでなくてなんでしょ...
一 百万の軍旅は、いま河南の宛城(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしていた。 そこへ、荊州から降参の使いとして、宋忠の一行が着いた。 ...
一 渦まく水、山のような怒濤、そして岸うつ飛沫。この夜、白河の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、はかり知るべくもない。 堰を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあっ...
一 于禁は四日目に帰ってきた。 そのあいだ曹操は落着かない容子に見えた。しきりに結果を待ちわびていたらしい。 「ただいま立ち帰りました。遠く追いついて、蔡夫人、劉琮ともに、かくの如...
一 曹仁の旗下で、淳于導という猛将があった。 この日、玄徳を追撃する途中、行く手に立ちふさがった糜竺と戦い、遂に糜竺を手捕りにして、自身の鞍わきに縛りつけると、 「きょう第一の殊勲...
一 この日、曹操は景山の上から、軍の情勢をながめていたが、ふいに指さして、 「曹洪、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くように、わが陣地を駆け破って通る不敵者は?」 と、早口に訊...
一 玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。 曹操も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、 「今をおいて玄徳を討つ時はなく、ここで玄徳...
一 長江千里、夜が明けても日が暮れても、江岸の風景は何の変化もない。水は黄色く、ただ滔々淙々と舷を洗う音のみ耳につく。 船は夜昼なく、呉の北端、柴桑郡をさして下っている。――その途中、...
――一同、その一沓音にふりかえって、誰かと見ると、零陵泉陵の産、黄蓋、字は公覆といって、いま呉の糧財奉行、すなわち大蔵大臣の人物だった。 ぎょろりと、大堂を見わたしながら、天井をゆするよう...
一 周瑜は、呉の先主、孫策と同じ年であった。 また彼の妻は、策の妃の妹であるから、現在の呉主孫権と周瑜とのあいだは、義兄弟に当るわけである。 彼は、盧江の生れで、字を公瑾といい、...
一 柴桑城の大堂には、暁天、早くも文武の諸将が整列して、呉主孫権の出座を迎えていた。 夜来、幾度か早馬があって、鄱陽湖の周瑜は、未明に自邸を立ち、早朝登城して、今日の大評議に臨むであろ...
一 孔明の使命はまず成功したといってよい。呉の出師は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権に暇を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。 同舟の人々は、みな前線におも...
一 本来、この席へ招かれていいわけであるが、孔明には、玄徳が来たことすら、聞かされていないのである。 以て、周瑜の心に、何がひそんでいるか、察することができる。 「……?」 ...
一 敗戦の責任を問われるものと察して、蔡瑁、張允の二人は、はや顔色もなかった。 恟々として、曹操の前へすすみ、かつ百拝して、このたびの不覚を陳謝した。 曹操は、厳として云った。 ...
一 その後すぐ呉の諜報機関は、蔡瑁、張允の二将が曹操に殺されて、敵の水軍司令部は、すっかり首脳部を入れ替えたという事実を知った。 周瑜は、それを聞いて、 「どうだ、おれの計略は、名...
一 夜靄は深くたれこめていた。二十余艘の兵船は、おのおの、纜から纜を一聯に長くつなぎ合い、徐々と北方へ向って、遡航していた。 「とんと、分りません」 「何がです」 「この船団の目...
一 このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる昂らなかった。 うまうまと孔明の計に乗って、十数万のむだ矢を射、大いに敵をして快哉を叫ばせているという甚だ不愉快な事実が、後になって知れ渡っ...
一 ここ四、五日というもの黄蓋は陣中の臥床に横たわったまま粥をすすって、日夜呻いていた。 「まったくお気の毒な目にあわれたものだ」 と、入れ代り立ちかわり諸将は彼の枕頭を見舞いに来...
一 酒のあいだに曹操は、蔡和、蔡仲からの諜報を、ちらと卓の陰で読んでいたが、すぐに袂に秘めて、さり気なくいった。 「さて闞沢とやら。――今はご辺に対して予は一点の疑いも抱いておらん。この...
一 いまの世の孫子呉子は我をおいてはなし――とひそかに自負している曹操である。一片の書簡を見るにも実に緻密冷静だった。蔡和、蔡仲はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れて...
一 ここが大事だ! と龐統はひそかに警戒した。まんまと詐りおおせたと心をゆるしていると、案外、曹操はなお――間ぎわにいたるまで、こっちの肚を探ろうとしているかも知れない――と気づいたからであ...
一 都門をさること幾千里。曹操の胸には、たえず留守の都を憶う不安があった。 西涼の馬超、韓遂の徒が、虚をついて、蜂起したと聞いたせつな、彼は一も二もなく 「たれか予に代って、許都へ...
一 数日の後。 水軍の総大将毛玠、于禁のふたりが、曹操の前へ来て、謹んで告げた。 「江湾の兵船は、すべて五十艘六十艘とことごとく鎖をもって連ね、ご命令どおり連環の排列を成し終りまし...
一 よほど打ち所が悪かったとみえる。周瑜は営中の一房に安臥しても、昏々とうめき苦しんでいる。 軍医、典薬が駈けつけて、極力、看護にあたる一方、急使は、呉の主孫権の方へこの旨を報らせに飛...
一 「逃がしては!」と、徐盛は、水夫や帆綱の番を励まして、 「追いつけ。孔明の舟をやるな」と、舷を叩いて励ました。 先へ舟を早めていた孔明は、ふたたび後から追いついて来る呉の船を見た...
一 「この大機会を逸してどうしましょうぞ」 という魯粛の諫めに励まされて、周瑜もにわかにふるい起ち、 「まず、甘寧を呼べ」と令し、営中の参謀部は、俄然、活気を呈した。 「甘寧にご...
一 時すでに初更に近かった。 蔡和の首を供えて水神火神に祷り、血をそそいで軍旗を祭った後、周瑜は、 「それ、征け」と、最後の水軍に出航を下知した。 このときもう先発の第一船隊...
一 八十余万と称えていた曹操の軍勢は、この一敗戦で、一夜に、三分の一以下になったという。 溺死した者、焼け死んだ者、矢にあたって斃れた者、また陸上でも、馬に踏まれ、槍に追われ、何しろ、...
一 難路へかかったため、全軍、まったく進退を失い、雪は吹き積もるばかりなので、曹操は焦だって、馬上から叱った。 「どうしたのだ、先鋒の隊は」 前隊の将士は、泣かんばかりな顔を揃えて...
一 一方、孫乾は油江口にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳に、帰りを告げて、 「いずれ周瑜が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。 玄徳は、孔明と顔見合わせて、 「これほ...
一 荊州、襄陽、南郡三ヵ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、その面目を一新しかけてきた機運を迎えて、玄徳は、 「ここでよい気になってはならぬ――」と、大いに自分を慎んだ...
一 このところ髀肉の嘆にたえないのは張飛であった。常に錦甲を身に飾って、玄徳や孔明のそばに立ち、お行儀のよい並び大名としているには適しない彼であった。 「趙雲すら桂陽城を奪って、すでに一...
一 ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。 中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。ここに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据えたものといっていい。 魏の夏侯惇は、襄陽か...
一 その後、玄徳の身辺に、一つの異変が生じた。それは、劉琦君の死であった。 故劉表の嫡子として、玄徳はあくまで琦君を立ててきたが、生来多病の劉琦は、ついに襄陽城中でまだ若いのに長逝した...
一 喬国老の邸では、この大賓をふいに迎えて、驚きと混雑に、ごった返した。 「えっ。皇叔と呉妹君との結婚の談があったのですって?」 初耳とみえて、喬国老は、桃のような血色を見せながら...
一 七日にわたる婚儀の盛典やら祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで、 「めでたい。めでたい」 と、千載万歳を謳歌している中で、独りひそかに、 「何たることだ」と、予想の逆転と、...
一 夜も日も馬に鞭打ちつづけた。さる程にようやく柴桑の地へ近づいて来る。玄徳はややほっとしたが、夫人呉氏は何といっても女性の身、騎馬の疲れは思いやられた。 だが幸い、途中の一豪家で車を...
一 孔明の従えてきた荊州の舟手の兵は、みな商人に姿を変えていた。玄徳と夫人、また随員五百を各〻の舟に収容すると、たちまち、櫓櫂をあやつり、帆を揚げて、入江の湾口を離れた。 「やあ、その舟...
一 冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。 そして今し、建安十五年の春。 鄴城(河北省)の銅雀台は、...
一 周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。 天子、詔を降して、いま不...
一 喪旗を垂れ、柩をのせた船は、哀々たる弔笛を流しながら、夜航して巴丘を出て、呉へ下って行った。 「なに、周瑜が死んだと?」 孫権は、彼の遺書を手にするまで、信じなかった。いや信じ...
一 ここしばらく、孔明は荊州にいなかった。新領治下の民情を視、四郡の産物など視察して歩いていた。 彼の留守である。龐統が荊州へ来たのは。 「予に会いたいというのか」 「おそらく...
一 龐統はその日から、副軍師中郎将に任ぜられた。 総軍の司令を兼ね、最高参謀府にあって、軍師孔明の片腕にもなるべき重職についたわけである。 建安十六年の初夏の頃。 魏の都へ...
一 このとき丞相府には、荊州方面から重大な情報が入っていた。 「荊州の玄徳は、いよいよ蜀に攻め入りそうです。目下、彼の地では活溌な準備が公然と行われている」 曹操はかく聞いて胸をい...
一 曹操の本軍と、西涼の大兵とは、次の日、潼関の東方で、堂々対戦した。 曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあった。 彼が馬をすすめると、右翼の夏侯淵、左翼の曹仁は、共に早鉦...
一 渭水は大河だが、水は浅く、流れは無数にわかれ、河原が多く、瀬は早い。 所によって、深い淵もあるが、浅瀬は馬でも渡れるし、徒渉もできる。 ここを挟んで、曹操は、北の平野に、野陣...
一 韓遂の幕舎へ、ふいに、曹操の使いが来た。 「はて。何か?」 使いのもたらした書面をひらいてみると曹操の直筆にちがいなく、こうしたためてある。 君ト予トハ元ヨリ仇デハナク、君ノ...
一 戒めなければならないのは味方同士の猜疑である。味方の中に知らず知らず敵を作ってしまう心なき業である。 が、その反間苦肉をほどこした曹操のほうからみれば、いまや彼の軍は、西涼の馬超軍...
一 近年、漢中(陝西省・漢中)の土民のあいだを、一種の道教が風靡していた。 五斗米教。 仮にこう称んでおこう。その宗教へ入るには、信徒になるしるしとして、米五斗を持てゆくことが掟...
一 「ここは奥書院、俗吏は出入りしませんから、しばし静談しましょう。さあ、お着席ください」 楊修は、張松へ座をすすめ、自ら茶を煮て、遠来の労を慰めた。 「蜀道は天下の嶮岨とうけたまわ...
一 覇者は己れを凌ぐ者を忌む。 張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。 しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑している風がある。曹操たる者、怒気...
一 劉璋は面に狼狽のいろを隠せなかった。 「曹操にそんな野心があってはどうもならん。張魯も蜀を狙う狼。曹操も蜀をうかがう虎。いったいどうしたらいいのじゃ」 気が弱い、策がない。劉璋...
一 建安十六年冬十二月。ようやくにして玄徳は蜀へ入った。国境にかかると、 「主人の命によって、これまでお迎えに出た者です」 と、道のかたわらに四千余騎が出迎えていた。将の名を問えば...
一 呉侯の妹、玄徳の夫人は、やがて呉の都へ帰った。 孫権はすぐ妹に質した。 「周善はどうしたか」 「途中、江の上で、張飛や趙雲に阻められ、斬殺されました」 「なぜ、そなたは...
一 葭萌関は四川と陝西の境にあって、ここは今、漢中の張魯軍と、蜀に代って蜀を守る玄徳の軍とが、対峙していた。 攻めるも難、防ぐも難。 両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月...
一 葭萌関を退いた玄徳は、ひとまず涪城の城下に総軍をまとめ、涪水関を固めている高沛、楊懐の二将へ、 「お聞き及びのとおり、にわかに荊州へ立ち帰ることとなった。明日、関門をまかり通る」 ...
一 玄徳、涪城を取って、これに拠る。――と聞えわたるや、蜀中は鳴動した。 とりわけ成都の混乱と、太守劉璋の愕きかたといったらない。 「料らざりき、今日、かくの如きことあらんとは」 ...
一 奪取した二ヵ所の陣地に、黄忠と魏延の二軍を入れて、涪水の線を守らせ、玄徳はひとまず涪城へかえった。 折からまた、遠くへ行った細作が帰ってきて、蜀外の異変をもたらした。 「呉の孫...
一 「あら、なつかしの文字」 玄徳は、孔明の書簡をひらくと、まずその墨の香、文字の姿に、眸を吸われてから、読み入った。 龐統はその側にいた。 側に人のいるのも忘れて、玄徳は繰...
一 七夕の宵だった。 城内の街々は、紅燈青燈に彩られている。 荊州の城中でも、毎年の例なので、孔明は、主君玄徳の留守ながら、祭を営み、酒宴をもうけて、諸大将をなぐさめていた。 ...
一 百計も尽きたときに、苦悩の果てが一計を生む。人生、いつの場合も同じである。 張飛は、一策を案出した。 「集まれ」 七、八百の兵をならべて命じた。 「貴様たちはこれから...
一 孔明が荊州を立つときに出した七月十日附の返簡の飛脚は、やがて玄徳の手にとどいた。 「おう、水陸二手にわかれ、即刻、蜀へ急ぐべしとある。――待ち遠しや、孔明、張飛のここにいたるは何日」...
一 忽然と、蒙古高原にあらわれて、胡夷の猛兵をしたがえ、隴西(甘粛省)の州郡をたちまち伐り奪って、日に日に旗を増している一軍があった。 建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さ...
一 彗星のごとく現われて彗星のようにかき失せた馬超は、そも、どこへ落ちて行ったろうか。 ともあれ、隴西の州郡は、ほっとしてもとの治安をとりもどした。 夏侯淵は、その治安の任を、姜...
一 馬超は弱い。決して強いばかりの人間ではなかった。理に弱い。情にも弱い。 李恢はなお説いた。 「玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を敬い、士をよく用いる。かならず大成する人...
一 蜀の玄徳は、一日、やや狼狽の色を、眉にたたえながら、孔明を呼んで云った。 「先生の兄上が、蜀へ来たそうではないか」 「昨夜、客館に着いたそうです」 「まだ会わんのか」 「...
一 魏の大軍が呉へ押襲せてくるとの飛報は、噂だけにとどまった。 嘘でもなかったが、早耳の誤報だったのである。 この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果たそうとしたのは事実で、すで...
一 (――急に、魏公が、あなたと夏侯惇のおふたりに内々密議を諮りたいとのお旨である。すぐ府堂までお越しありたい) 賈詡からこういう手紙が来た。使いをうけたのは、曹操の一族、曹仁である。 ...
一 司馬懿仲達は、中軍の主簿を勤め、この漢中攻略のときも、曹操のそばにあって、従軍していた。 戦後経営の施政などにはもっぱら参与して、その才能と圭角をぽつぽつ現わし始めていたが、一日、...
一 合淝の城をあずかって以来、張遼はここの守りを、夢寐にも怠った例はない。 ここは、魏の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。 ところが、呉軍十万の圧力のもとに、前...
一 いま漢中は掌のうちに収めたものの、曹操が本来の意慾は、多年南方に向って旺であったことはいうまでもない。 いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが勃然とわいてくるにおいてはである。 ...
一 曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に陥る。 いまや、濡須の流域をさかいとして、魏の四十万、呉の六十万、ひとりも戦わざるなく、全面的な大激戦を現出したが、この、...
一 呉に年々の貢ぎ物をちかわせて来たことは、遠征魏軍にとって、何はともあれ、赫々たる大戦果といえる。まして、漢中の地が、新たに魏の版図に加えられたので、都府の百官は、曹操を尊んで、「魏王の位...
一 王宮の千客は、みな眼をこすり合った。眼のせいか、気のせいかと、怪しんだのであろう。 ところへ、各人の卓へ、庖人が魚の鱠を供えた。左慈は、一眄して、 「魏王が一代のご馳走といって...
一 太史丞の許芝は、曹操の籠る病室へ召された。 曹操は、起きていたが、以来、何となくすぐれない容態である。 「許都に、卜の上手がいたな。どうも今度の病気はちとおかしい。ひとつ卜者に...
一 漢中の境を防ぐため、大軍を送りだした後も、曹操は何となく、安からぬものを抱いていた。 管輅の予言に。――明春早々、都のうちに、火の災いあらん――とあるそのことだった。 「都とい...
一 街は戸ごとに燈火をつらね、諸門の陣々も篝に染まり、人の寄るところ、家のあるところ、五彩の燈にいろどられているため、こよい正月十五日の夜、天上一輪の月は、なおさら美しく見えた。 王必...
一 四川の巴西、下弁地方は、いまやみなぎる戦気に、雲は風をはらみ、鳥獣も声をひそめていた。 魏兵五万は、漢中から積極的に蜀の境へ出、その辺の嶮岨に、霧のごとく密集して、 「寸土も侵...
一 張飛の軍勢はすさまじい勢いで進撃した。魏延、雷同を両翼とした態勢もよかったのだ。逃げ足立った敵を追いまくり、切りふせ、蹴ちらして、凱歌は到るところにあがった。 張郃が自信満々に構え...
一 郭淮の進言に面目をとどめた張郃は、この一戦にすべての汚名を払拭せんものと、意気も新たに、五千余騎を従えて、葭萌関に馬を進めた。 この関を守るは、蜀の孟達、霍峻の両大将であった。 ...
一 思いがけぬ孔明の言葉に、老将黄忠の忿懣はやるかたなく、色をなして孔明に迫るのだった。 「昔、廉頗は年八十に及んで、なお米一斗、肉十斤を食い、天下の諸侯、これをおそれ、あえて趙の国境を...
一 張郃の言葉を不服そうに聞いていた夏侯淵は、自分の決意はまげられぬというように、 「予がこの地を守り、陣をなすこと久しい。この度の決戦に、万一他の将に功を奪わるるが如きことあらば、なん...
一 夏侯淵の首を獲たことは、なんといっても老黄忠が一代の誉れといってよい。 彼はそれを携えて葭萌関にある玄徳にまみえ、さすがに喜悦の色をつつみきれず、 「ご一見を」と、見参に供えた...
一 横道から米倉山の一端へ出て、魏の損害をさらに大にしたものは、蜀の劉封と孟達であった。 これらの別働隊は、もちろん孔明のさしずによって、遠く迂回し、敵も味方も不測な地点から、黄忠と趙...
一 ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。 「ここに斜谷の天嶮あり、ここに北夷を平げ...
一 魏の勢力が、全面的に後退したあとは、当然、玄徳の蜀軍が、この地方を風靡した。 上庸も陥ち、金城も降った。 申耽、申儀などという旧漢中の豪将たちも、 「いまは誰のために戦わ...
一 瑾の使いは失敗に帰した。ほうほうの態で呉へ帰り、ありのままを孫権に復命した。 「推参なる長髯獣め。われに荊州を奪るの力なしと見くびったか」 孫権は、荊州攻略の大兵をうごかさんと...
一 樊城は包囲された。弱敵に囲まれたのとちがい、名だたる関羽とその精鋭な軍に包囲されたのであるから、落城の運命は、当然に迫った。 (――急遽、来援を乞う) との早馬は、魏王宮中を大...
一 父の矢創も日ましに癒えてゆく様子なので、一時はしおれていた関平も、 「もう心配はない。この上は一転して、攻勢に出で、魏の慢心を挫ぎ、わが実力の程を見せてくれねばならん」と、帷幕の人々...
一 まだ敵味方とも気づかないらしいが、樊城の完全占領も時の問題とされている一歩手前で、関羽軍の内部には、微妙な変化が起っていたのである。 魏の本国から急援として派した七軍を粉砕し、一方...
一 手術をおえて退がると、華陀はあらためて、次の日、関羽の容体を見舞いにきた。 「将軍。昨夜は如何でした」 「いや、ゆうべは熟睡した。今朝さめてみれば、痛みも忘れておる。御身は実に天...
一 陸遜は呂蒙より十幾歳も年下だった。当時まだ呉郡の一地方におかれ、その名声は低く、地位は佐官級ぐらいに止まっていた。 だが彼の才幹は呉侯も日頃から愛していたところだし、呂蒙はなおさら...
一 呉は大きな宿望の一つをここに遂げた。荊州を版図に加えることは実に劉表が亡んで以来の積年の望みだった。孫権の満悦、呉軍全体の得意、思うべしである。 陸口の陸遜も、やがて祝賀をのべにこ...
一 「えっ、荊州が陥ちた?」 関平は戦う気も萎え、徐晃をすてて一散に引っ返した。混乱するあたまの中で、 「ほんとだろうか? まさか?」 と、わくわく思い迷った。 そして堰...
一 進まんか、前に荊州の呉軍がある。退かんか、後には魏の大軍がみちている。 眇々、敗軍の落ちてゆく野には、ただ悲風のみ腸を断つ。 「大将軍。試みに、呂蒙へお手紙を送ってみたら如何で...
一 閑話休題―― 千七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも三国時代の支那がしばしば眺められる。 戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり長江の波濤であ...
一 関平も父の姿をさがし求めているうちに、朱然、潘璋の軍勢に生捕られた。そして荒縄にかけられて呉侯孫権の陣へひかれてゆく間も、父関羽の名を叫び、無念無念をくり返していた。 報を聞いて孫...
一 呉侯は、呂蒙の死に、万斛の涙をそそいで、爵を贈り、棺槨をそなえ、その大葬を手厚くとり行った後、 「建業から呂覇を呼べ」と、いいつけた。 呂覇は呂蒙の子である。やがて張昭に連れら...
一 宮殿の廂をこえて、月の光は玄徳の膝の辺まで映している。妃は、燭が消えているのに気づいて、侍女を呼んで明りをつけさせながら、 「どうなさいましたか」 と、玄徳の側へ寄った。 ...
一 戦陣に在る日は、年を知らない曹操も凱旋して、すこし閑になずみ、栄耀贅沢をほしいままにしていると、どこが痛む、ここが悪いと、とかく体のことばかり訴える日が多かった。 いかんせん彼もす...
一 せっかく名医に会いながら、彼は名医の治療を受けなかった。のみならず華陀の言を疑って、獄へ投じてしまったのである。まさに、曹操の天寿もここに尽きるの兆というほかはない。 ところが、典...
一 曹操の死は天下の春を一時寂闇にした。ひとり魏一国だけでなく、蜀、呉の人々の胸へも云わず語らず、人間は遂に誰であろうとまぬがれ難い天命の下にあることを、今さらのように深く内省させた。 ...
一 曹丕が甚だしく怒った理由というのはこうであった。 以下、すなわち令旨をたずさえて、曹植のところから帰ってきた使者の談話である。 「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨淄侯...
一 漢中王の劉玄徳は、この春、建安二十五年をもって、ちょうど六十歳になった。魏の曹操より六ツ年下であった。 その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った玄徳の胸中には、一抹落...
一 曹丕が大魏皇帝の位についたと伝え聞いて、蜀の成都にあって玄徳は、 「何たることだ!」と、悲憤して、日夜、世の逆しまを痛恨していた。 都を逐われた献帝は、その翌年、地方で薨去せら...
一 斗酒を傾けてもなお飽かない張飛であった。こめかみの筋を太らせて、顔ばかりか眼の内まで朱くして、勅使に唾を飛ばして云った。 「いったい、朝廷の臣ばかりでなく、孔明なども実に腑抜けの旗頭...
一 大暑七月、蜀七十五万の軍は、すでに成都を離れて、蜿蜒と行軍をつづけていた。 孔明は、帝に侍して、百里の外まで送ってきたが、 「ただ太子の身をたのむ。さらばぞ」 と玄徳に促...
一 ――それより前に。 張飛の首を船底に隠して、蜀の上流から千里を一帆に逃げ降った范疆、張達のふたりは、その後、呉の都建業に来て、張飛の首を孫権に献じ、今後の随身と忠節を誓ったあげく、...
一 その後、蜀の大軍は、白帝城もあふるるばかり駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練って、ひたすら南方と江北の動静をうかがっていた。 ときに諜報があって、 「呉は魏へ急遽...
一 冬が来た。 連戦連勝の蜀軍は、巫峡、建平、夷陵にわたる七十余里の戦線を堅持して、章武二年の正月を迎えた。 賀春の酒を、近臣に賜うの日、帝玄徳も微酔して、 「雪か、わが鬢髪...
一 奮迅奮迅、帰るも忘れて、呉の勢を追いかけた関興は、その乱軍のなかで、父関羽を殺した潘璋に出会ったのである。 やわか遁すべき――逃げ走る潘璋を追ってついに山の中まで入ってしまった。が...
一 程秉は逃げ帰るように急いで呉国へ引き揚げた。その結果、ふたたび建業城中の大会議となって、閣員以下、呉の諸将は、今さらの如く蜀の旺盛な戦意を再認識して、満堂の悽気、恐愕のわななき、おおうべ...
一 敵を誘うに、漫罵愚弄して彼の怒りを駆ろうとするのは、もう兵法として古すぎる。 で、蜀軍はわざと虚陣の油断を見せたり、弱兵を前に立てたり、日々工夫して、釣りだしを策してみたが、呉は土...
一 全軍ひとたび総崩れに陥ちてからは、七百余里をつらねていた蜀の陣々も、さながら漲る洪水に分離されて浮島のすがたとなった村々と同じようなもので、その機能も連絡も失ってしまい、各個各隊思い思い...
一 蜀を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来の迅さであった。で、勝ち驕っている呉の大将たちは、陸遜に向って、 「せっかく白帝城へ近づきながら石の擬兵や乱石の八陣を見て、急に...
一 この年四月頃から蜀帝玄徳は永安宮の客地に病んで、病状日々に篤かった。 「いまは何刻か?」 枕前の燭を剪っていた寝ずの宿直や典医が、 「お目ざめでいられますか。いまは三更でご...
一 玄徳の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ず、と聞えて、誰よりも歓んだのは、魏帝曹丕で、 「この機会に大軍を派せば、一鼓して成都も陥すことができるのではないか」 と虎視眈々、...
一 要するに、陸遜の献策は。 一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨を結ばず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う。 ということであった。 呉の方針...
一 魏ではこのところ、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬曹仁と謀士賈詡の病死である。いずれも大きな国家的損失であった。 「呉が蜀と同盟を結びました」 折も折、侍中辛毘からこう聞か...
一 孫権にとって甥の孫韶は義理ある兄の子でありまた兄の家、愈氏の相続人であった。だから彼が死罪になれば、兄の家が絶えることにもなる。 身は呉王の位置にあっても、軍律の重きことばかりは、...
一 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく...
一 益州の平定によって、蜀蛮の境をみだしていた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶った。 従って、孔明の来るまで、叛賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けて、太守王伉は、 ...
一 「大王が帰ってきた」 「大王は生きている」 と、伝え合うと、諸方にかくれていた敗軍の蛮将蛮卒は、たちまち蝟集して彼をとり巻いた。そして口々に、 「どうして蜀の陣中から無事に帰...
一 「――そんな筈はないが?」 と孟獲は疑ったが、夜になると土人が、忙牙長の首を拾って届けてきた。 彼は、日夜離したことのない杯をほうり捨てた。 「やい。誰か行って、この仇を取...
一 孟獲は山城に帰ると、諸洞の蛮将を呼び集めて、 「きょうも孔明に会って来た。あいつは俺が縛られて行っても、俺を殺すことができないのだ。なぜかといえば、俺は不死身だからな。奴らの刃を咬み...
一 蛮界幾千里、広さの果ても知れない。孔明の大軍は瀘水もうしろにして、さらに、前進をつづけていたが、幾十日も敵影を見なかった。 孟獲は、深く懲りたとみえる。蛮国の中心へ遠く退いて、入念...
一 孟獲は自陣に帰った。だが数日はぼんやり考えこんでばかりいる。弟の孟優が、 「兄貴、とても孔明にはかなわないから、いっそ降参したらどうかね」 と意見すると、彼は俄然、魂が入ったよ...
一 海を行くような蒼さ暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに、忽然、天空から虹の如き陽がこぼれた。ひろやかな山ふところの谷である。おお、万安渓はここに違いないと、孔明は馬をおりて、隠士の...
一 孔明は五度孟獲を放した。 放つに際して、 「汝の好む土地で、汝の望む条件で、さらに一戦してやろう。しかしこんどは、汝の九族まで亡ぼすかも知れないぞ。心して戦えよ」といった。 ...
一 隣国へ使いに行った帯来が帰ってきて告げた。 「われわれの申入れを承知して、数日の間に、木鹿王は自国の軍を率いて来ましょう。木鹿軍が来れば、蜀軍などは木っ端微塵です」 彼の姉祝融...
一 すでに国なく、王宮もなく、行くに的もない孟獲は、悄然として、 「どこに落着いて、再挙を図ろうか」と、周囲の者に諮った。 彼の妻の弟、帯来がいった。 「ここから東南の方、七百...
一 この日は、藤甲兵の全軍に、兀突骨もみずから指揮に立って、江を渡ってきた。 蜀兵は、抗戦に努めると見せかけながら、次第に崩れ立ち、やがて算をみだして、旗、得物、盔を打ち捨て、われがち...
一 その夜、孔明は、諸将と会して、話の末に、 「趙雲はたいへんいいことを云って、自分の戦策を慰めてくれたが、しかしなんといっても、今度の大殺戮を敢えて行ったことは、大いに陰徳を損じたもの...
一 孔明還る、丞相還る。 成都の上下は、沸き返るような歓呼だった。後主劉禅にも、その日、鸞駕に召されて、宮門三十里の外まで、孔明と三軍を迎えに出られた。 帝の鸞駕を拝すや、孔明は...
一 馬謖は云った。 「なぜか、司馬懿仲達という者は、あの才略を抱いて、久しく魏に仕えながら、魏では重く用いられていません。彼が曹操に侍いて、その図書寮に勤めていたのは、弱冠二十歳前後のこ...
一 蜀の大軍は、沔陽(陝西省・沔県、漢中の西)まで進んで出た。ここまで来た時、 「魏は関西の精兵を以て、長安(陝西省・西安)に布陣し、大本営をそこにおいた」 という情報が的確になっ...
一 それよりも前に、天水郡の太守馬遵は、宿将重臣を集めて、隣郡の救援について、議するところがあった。 主記の梁虔がその時云った。 「夏侯駙馬は、魏の金枝玉葉。すぐ隣にありながら、南...
一 蜀軍の武威は大いに振った。行くところ敵なきその形容はまさに、原書三国志の記述に髣髴たるものがうかがわれる。 ――蜀ノ建興五年冬、孔明スデニ天水、南安、安定ノ三郡ヲ攻取リ、ソノ威、遠近ヲ...
一 当時、中国の人士が、西羗の夷族と呼びならわしていたのは、現今の青海省地方――いわゆる欧州と東洋との大陸的境界の脊梁をなす大高原地帯――の西蔵人種と蒙古民族との混合体よりなる一王国をさして...
一 渭水の早馬は櫛の歯をひくように洛陽へ急を告げた。 そのことごとくが敗報である。 魏帝曹叡は、色を失い、群臣を会して、誰かいま国を救う者はなきや、と憂いにみちて云った。 ...
一 司馬懿仲達軍のこのときの行軍は、二日行程の道のりを一日に進んで行ったというから、何にしても非常に迅速なものだったにちがいない。 しかも仲達は、これに先だって、参軍の梁畿という者に命...
一 魏の大陣容はととのった。 辛毘、あざなは佐治、これは潁州陽翟の生れ、大才の聞え夙にたかく、いまや魏主曹叡の軍師として、つねに帝座まぢかく奉侍している。 孫礼、字は徳達は、護軍...
一 長安に還ると、司馬懿は、帝曹叡にまみえて、直ちに奏した。 「隴西諸郡の敵はことごとく掃討しましたが、蜀の兵馬はなお漢中に留っています。必ずしもこれで魏の安泰が確保されたものとはいえま...
一 街亭の大捷は、魏の強大をいよいよ誇らしめた。魏の国内では、その頃戦捷気分に拍車をかけて、 「この際、蜀へ攻め入って、禍根を断て」 という輿論さえ興ったほどである。司馬懿仲達は、...
一 蜀呉の同盟はここしばらく何の変更も見せていない。 孔明が南蛮に遠征する以前、魏の曹丕が大船艦を建造して呉への侵寇を企てた以前において、かの鄧芝を使いとして、呉に修交を求め、呉も張蘊...
一 漢中滞陣の一ヵ年のうちに、孔明は軍の機構からその整備や兵器にまで、大改善を加えていた。 たとえば突撃や速度の必要には、散騎隊武騎隊を新たに編制して、馬に練達した将校をその部に配属し...
一 蜀魏両国の消耗をよろこんで、その大戦のいよいよ長くいよいよ酷烈になるのを希っていたのは、いうまでもなく呉であった。 この時に当って、呉王孫権は、宿年の野望をついに表面にした。すなわ...
一 蜀の諸葛亮孔明と、魏の司馬懿仲達とが、堂々と正面切って対峙するの壮観を展開したのは、実にこの建興七年四月の、祁山夏の陣をもって最初とする。 それまでの戦いでは仲達はもっぱら洛陽にあ...
一 さきに街亭の責めを負うて、孔明は丞相の職を朝廷に返していた。今度、成都からの詔書は、その儀について、ふたたび旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならなかった。 「国事いまだ...
一 秋七月。魏の曹真は、 「国家多事の秋。久しく病に伏して、ご軫念を煩わし奉りましたが、すでに身も健康に復しましたゆえ、ふたたび軍務を命ぜられたく存じます」 と、朝廷にその姿を見せ...
一 魏は渭水を前に。蜀は祁山をうしろに。――対陣のまま秋に入った。 「曹真の病は重態とみえる……」 一日、孔明は敵のほうをながめて呟いた。 斜谷から敗退以後、魏の大都督曹真が...
一 孔明は成都に還ると、すぐ参内して、天機を奉伺し、帝劉禅へこう奏した。 「いったい如何なる大事が出来て、かくにわかに、臣をお召し還し遊ばされましたか」 もとより何の根拠もないこと...
一 青貝の粉を刷いたような星は満天にまたたいていたが、十方の闇は果てなく広く、果てなく濃かった。陰々たる微風は面を撫で、夜気はひややかに骨に沁む。 「なるほど、妖気が吹いてくる――」 ...
一 永安城の李厳は、増産や運輸の任に当って、もっぱら戦争の後方経営に努め、いわゆる軍需相ともいうべき要職にある蜀の大官だった。 今その李厳から来た書簡を見ると、次のようなことが急告して...
一 多年軍需相として、重要な内政の一面に才腕をふるっていた李厳の退職は、何といっても、蜀軍の一時的休養と、延いては国内諸部面の大刷新を促さずにはおかなかった。 蜀道の嶮岨は、事実、誰が...
一 「それがしは、魏の部将鄭文という者です。丞相に謁してお願いしたいことがある」 ある日、蜀の陣へ来て、こういう者があった。 孔明が対面して、 「何事か」 と、質すと、鄭...
一 「張虎と楽綝か。早速見えて大儀だった。まあ、腰かけてくれ」 「懿都督。何事ですか」 「ほかでもないが、近頃、敵の孔明がたくさんにつくらせたという木牛流馬なるものを、貴公らは見たか」...
一 自国の苦しいときは敵国もまた自国と同じ程度に、或いはより以上、苦しい局面にあるという観察は、たいがいな場合まず過りのないものである。 その前後、魏都洛陽は、蜀軍の内容よりは、もっと...
一 呉は、たちまち出て、たちまち退いた。呉の総退却は、呉の弱さではなく、呉の国策であったといってよい。 なぜならば、呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意志をもともと持っていないのである...
一 魏軍の一部は、次の日も出撃を試みた。その日も若干の戦果を挙げた。 以来、機をうかがっては、出撃を敢行するたびに、諸将それぞれ功を獲た。その多くは、葫芦の口へ兵糧を運んでゆく蜀勢を襲...
一 誰か知ろう真の兵家が大機を逸した胸底のうらみを。 人はみな、蜀軍の表面の勝ちを、あくまで大勝とよろこんでいたが、独り孔明の胸には、遺憾やるかたないものがつつまれていた。 加う...
一 彼の病気はあきらかに過労であった。それだけに、どっと打臥すほどなこともない。 むしろ病めば病むほど、傍人の案じるのをも押して、軍務に精励してやまない彼であった。近頃聞くに、敵の軍中...
一 魏の兵が大勢して仔馬のごとく草原に寝ころんでいた。 一年中で一番季節のよい涼秋八月の夜を楽しんでいるのだった。 そのうちに一人の兵が不意に、あっといった。 「やっ。何だろ...
一 一夜、司馬懿は、天文を観て、愕然とし、また歓喜してさけんだ。 「――孔明は死んだ!」 彼はすぐ左右の将にも、ふたりの息子にも、昂奮して語った。 「いま、北斗を見るに、大なる...
一 旌旗色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭のうらみを霊車に駕して、空しく成都へ帰る蜀軍の列だった。 「ゆくてに煙が望まれる。……この山中に不審なことだ。誰か...
吉川英治(よしかわ えいじ)とは、日本の小説家であり、歴史・時代小説の大家として知られています。 生没年:1892年(明治25年)~1962年(昭和37年) 本名:吉川英次(よしかわ ひ...
佩環(はいかん)とは佩環は古代中国の装身具(アクセサリー)の一種で、腰や帯にぶら下げて飾る環(リング状の飾り物)、または装身具を指します。主に上流階級や貴人が身につけるもので、金属や玉(ぎょく)...
一 ――一方。 洛陽の焦土に残った諸侯たちの動静はどうかというに。 ここはまだ濛々と余燼のけむりに満ちている。 七日七夜も焼けつづけたが、なお大地は冷めなかった。 諸...
一 旋風のあった翌日である。 襄陽城の内で、蒯良は、劉表のまえに出て、ひそかに進言していた。 「きのうの天変は凡事ではありません。お気づきになりましたか」 「ムム。あの狂風か」...
天颷 一 董太師、郿塢へ還る。――と聞えたので、長安の大道は、拝跪する市民と、それを送る朝野の貴人で埋まっていた。 呂布は、家にあったが、 「はてな?」 窓を排して、街の空...
一 今朝、賈詡のところへ、そっと告げ口にきた部下があった。 「軍師。お聞きですか」 「曹操のことだろう」 「そうです」 「急に、閣を引払って、城外の寨へ移ったそうだな」 ...
一 許都に帰ると、曹操はさっそく府にあらわれて、諸官の部員から徐州の戦況を聞きとった。 一名の部員はいう。 「戦況は八月以来、なんの変化もないようであります。すなわち丞相のお旨にし...
一 荊州の本城は実に脆く陥ちた。関羽は余りに後方を軽んじ過ぎた。戦場のみに充血して、内政と防禦の点には重大な手ぬかりをしていた嫌いがある。 烽火台の備えにたのみすぎていたこともその一つ...
一 呉の境から退いて、司馬懿が洛陽に留っているのを、時の魏人は、この時勢に閑を偸むものなりと非難していたが、ここ数日にわたってまた、 (孔明がふたたび祁山に出てきた。ために、魏の先鋒の大...
一 魏の総勢が遠く退いた後、孔明は八部の大軍をわけて箕谷と斜谷の両道からすすませ、四度祁山へ出て戦列を布かんと云った。 「長安へ出る道はほかにも幾条もあるのに、丞相には、なぜいつもきまっ...
一 この時の会戦では、司馬懿は全く一敗地にまみれ去ったものといえる。魏軍の損害もまたおびただしい。以来、渭水の陣営は、内に深く守って、ふたたび鳴りをひそめてしまった。 孔明は、拠るとこ...
一 酒宴のうちに、曹操は、陳登の人間を量り、陳登は、曹操の心をさぐっていた。 陳登は、曹操にささやいた。 「呂布は元来、豺狼のような性質で、武勇こそ立ち優っていますが、真実の提携は...
李定(りてい)は、吉川英治の三国志に登場する人物です。彼の通称は「羊仙(ようせん)」とも呼ばれています。その正体は、山羊を連れて各地を放浪し酒に酔う、どこか市井の仙人のような風貌の老人です。魯の...
鄒靖(すうせい)とは 鄒靖は、後漢末期に黄巾賊討伐に派遣された将軍の一人である。正史『三国志』にも登場する歴史上の人物で、吉川英治『三国志』でも劉備の若き頃のエピソードで描かれている。 ...