三重
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「三重」登場回数
合計: 11回「三重」が登場する場面
7件出師の表
実に、彼のただ一つの心配は、自身の向う征途にはなくて、後にのこす劉禅の輔佐と内治だけが心懸りだったのである。 ために、彼は、ここ旬日の間に、大英断をもって、人事の異動を行った。 郭攸之・董允・費褘の三重臣を侍中として、これに宮中のすべての治を附与した。また御林軍の司には、尚寵を近衛大将として留守のまもりをくれぐれも託した。さらに自分に代るべき丞相府の仕事は、一切を長裔に行わしめ、彼を長史に任じ、杜瓊は諫議大夫に、杜微、楊洪は尚書に、孟光、来敏を祭酒に、尹黙、李譔を博士に、譙周を太史に、そのほ...
孔明・風を祈る
魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかかる。 士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式にのっとって準備をすすめる。東南の方には赤土を盛って方円二十四丈とし、高さ三尺、三重の壇をめぐらし、下の一重には二十八宿の青旗を立て、また二重目には六十四面の黄色の旗に、六十四卦の印を書き、なお三重目には、束髪の冠をいただいて、身に羅衣をまとい、鳳衣博帯、朱履方裙した者を四人立て、左のひとりは長い竿に鶏の羽を挟んだのを持って風を招き、右のひとりは七星の竿を掲げ、後のふたりは宝...
改元
「いや、諸員の思うところは、かねてわれらも心していたところである。先君武王のご遺言もあること、おそらく魏王におかれてもご異存はあるまい」 。 三重臣のことばも、符節を合わせたように一致していた。麒麟の出現も、鳳凰の舞も、この口ぶりからうかがうと、遠い地方に現れたのではなく、どうやらこれら重臣たちの額と額の間から出たものらしく思われる。 が、瓢箪から駒が出ようと、閣議室から黄龍が出現しようと、支那においては不思議でない。
競う南風
と、型の如く承諾した。 次の日。 式場に三重の壇を築き、五方に旗を立てて、白旄、黄鉞、兵符、印綬などを捧持する諸将の整列する中を、袁紹は衣冠をととのえ、剣を佩いて壇にのぼり、 。「赤誠の大盟ここになる。誓って、漢室の不幸をかえし、天下億民の塗炭を救わん。
雷怯子
――玄徳は自分をつつむのに細心で周到であった。いや臆病なほどですらある。 よく取れば、それは玄徳が人間の本性をふかく観つめ、自己の短所によく慎み、あくまで他人との融和に気をつけている温容とも心がけともいえるが、悪く解すれば、容易に他人に肚をのぞかせない二重底、三重底の要心ぶかい性格の人ともいえる。 すくなくも、曹操の人間は、彼よりはずっと簡明である。時おり、感情を表に現わしてみせるだけでも、ある程度の腹中はうかがえる。
魚紋
突然の行幸に、身のおくところを知らず、拝跪して、御車を迎えた。「丞相はいずこに在るか」 。 帝は車を降りて、三重の門まで、歩行してすすみ、吏に問われると、吏は恐懼して拝答した。「奥庭の池のほとりで、魚の遊ぶのを根気よく眺めておられます。多分、いまもそこにおいでかと思われますが」。
鹿と魏太子
撫軍大将軍司馬懿仲達。 の三名であった。 これにもとづいて、三重臣は、曹叡を後主と仰ぎ、また曹丕に文帝と諡し、先母后甄氏には、文昭皇后の称号を奉った。 自然魏宮側臣の顔ぶれや一族の職にも改革を見ないわけにゆかない。まず、鍾繇を太傅とし、曹真は大将軍となり、曹休を大司馬となした。