五十里
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官の士風や軍紀をつかさどる者に、面白からぬ人物があるからというて、官軍そのものが潰滅するのを、拱手傍観していてもよいものではない」 。 と、即座に、援軍に馳せつけて、賊の追撃を、山路で中断した。そしてさんざんにこれを悩ましたり、また、奇策をめぐらして、張角大方師の本軍まで攪乱した上、勢いを挽回した官軍と合体して、五十里あまりも賊軍を追って引揚げた。 広宗から敗走してきた官軍の大将は、董卓という将軍だった。 からくも、総敗北を盛返して、ほっと一息つくと、将軍は、幕僚にたずねた。
「水がほしい。水をくれいッ」と、絶叫しながら息をひきとってしまう病人や傷負もある。 落人の人数は、十里行けば十人減り、五十里行けば五十人も減っていった。「歩けぬ者はぜひもない。傷負や病人も捨てて行け。
独り船窓に倚って、恍然と、外の水や空を見ていた。 三江をさかのぼること七、八十里、大小の兵船は蝟集していた。江岸いたるところに水寨を構え、周瑜はその中央の地点に位する西山をうしろにとって水陸の総司令部となし、五十里余にわたって陣屋、柵門を構築し、天日の光もさえぎるばかり、翻々颯々、旗幡大旆を植えならべた。「孔明もあとから来ているそうだが……」 。 と彼はその本陣で、魯粛に会うとすぐいった。
二。 孔明に別れて、船へ移ると、玄徳はすぐ満帆を張らせて、江をさかのぼって行った。 進むこと五十里ほど、彼方に一群の船団が江上に陣をなしている。近づいて見れば、自分の安否を気づかって迎えにきた張飛と船手の者どもだった。「おおよくぞ、おつつがなく」 。
この二条の道は、どっちへ向ったがよいか」 。 曹操の質問に、 。「いずれも南郡へ通じていますが、道幅の広い大道のほうは五十里以上も遠道になります」 。 と、地理にくわしい者が答えた。 曹操は聞くと、うなずいて、山の上へ部下を走らせた。
赤壁に大捷した呉軍も、合淝を攻めにかかってからは、いっこう振わなかった。 それもそのはず張遼の副将にはなお李典、楽進という魏でも有名な猛将が城兵を督していたのである。寄手は連攻連襲をこころみたが、不落の合淝に当り疲れて城外五十里を遠巻きにし、 。「そのうちに食糧がなくなるだろう」と空だのみに恃んでいた。 ところへ、魯粛が来た。
危地に陥ったかと曹操の身が困難に見えたとき、彼の味方もまた、鼓を鳴らして、孫権のうしろを突きくずし、乱軍の相を呈しかけた機に、魏の許褚は、刀を舞わして周泰、韓当を退け、辛くも曹操を救い出して、中軍へ帰った。 この晩、いちど退いたかとみえた呉軍が夜半にまた、四面の野や小屋に火をはなって、夜襲して来た。 遠征の疲労にあった魏の兵は、不覚にも不意をくって、呉の勢に馳け破られ、おびただしい死者をすてて総軍五十里ほど陣を退くのやむなきに立ち至った。「われながら、まずい戦」 。 曹操は悶々、自己を責...