剣閣
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その都府、中心地は、成都である。 ただこの地方の交通の不便は言語に絶するものがある。北方、陝西省へ出るには有名な剣閣の嶮路を越えねばならず、南は巴山山脈にさえぎられ、関中に出る四道、巴蜀へ通ずる三道も嶮峻巍峨たる谷あいに、橋梁をかけ蔦葛の岩根を攀じ、わずかに人馬の通れる程度なので、世にこれを、 。「蜀の桟道」と呼ばれている。 さて、こういう蜀も、遂に、時代の外の別天地ではあり得なかった。
「蜀の国情や地理は、老人のはなしとか、書物とかで知るのみで、直接蜀の人から伺ったことがない。ねがわくは、ご本国の概要を聞かせ給え」 。「されば、蜀はわが大陸の西部に位し、路に錦江の嶮をひかえ、地勢は剣閣の万峰に囲まれ、周囲二百八程、縦横三万余里、鶏鳴狗吠白日も聞え、市井点綴、土はよく肥え、地は茂り、水旱の心配は少なく、国富み、民栄え、家に管絃あり、社交に和楽あり、人情は密に、文をこのみ、武を尚び、百年乱を知らずという国がらです」 。「おはなしを承っただけでも、一度遊びに行ってみたくなりま...
孔明はつづいて、 。「張翼、来れ」 。 と、帷幕へよびつけ、汝は一軍を引率して、剣閣(陝西・甘粛の省界)の道なき山に道を作れと命じ、悲調な語気で、 。「――われこれより回らん」と、いった。 彼はすでに総退却のほかなきを覚ったのである。
という輿論さえ興ったほどである。司馬懿仲達は、帝がそれにうごかされんことをおそれて、 。「蜀に孔明あり、剣閣の難所あり、決してさような妄論にお耳をかし給わぬように」 。 と、常に軽挙を押えていた。 しかし、彼はただ安愉を求めているのではない。
鹵城は決して守るにいい所ではないが、魏軍の動向は容易に測り難いものがあるので、孔明もじっと堅守していた。 しかし彼は、この自重も決して策を得たものとはしていない。なぜならば近頃、司馬懿は雍涼に檄文を飛ばして、孫礼の軍勢を剣閣に招いているふうが見える。ひとたび魏がその尨大な兵力を分けて、蜀境の剣閣でも襲うことになろうものなら、帰路を断たれ、運輸の連絡はつかなくなり、ここの陣地にある蜀軍数万は孤立して浮いてしまう。「――余りに動かざるは、かえって、大いなる動きあるに依るともいう。
「自分がここにあるうちは、魏も迂濶には追うまい。乱れず、躁がず、順次退陣して、ひとまず漢中に帰れ」と、命を封じて云い送った。 一面、孔明はまた、楊儀、馬忠の二手を、剣閣の木門道へ急がせ、後、鹵城には擬旗を植え並べ、柴を積んで煙をあげ、あたかも、人のおるように見せておいて、急速に、彼とその麾下もことごとく木門道さして引き退いた。 渭水の張郃は、馬を打って、上※へやって来た。司馬懿に諮るためである。
これは従来に見られなかった魏の積極的攻勢を示したものであると共に、用意周到な司馬懿は、本陣の後ろにある東方の曠野に、一城を構築して、そこを恒久的な基地となした。 この恒久戦の覚悟はまた、より強く、今度は蜀軍の備えにも観取できる。祁山に構えた五ヵ所の陣屋は、これまでの規模とそう変りはないが、斜谷から剣閣へわたって十四ヵ所の陣屋を築き、この一塁一塁に強兵を籠めて、運輸の連絡と、呼応連環の態勢を作ったことは、 。「魏を撃たずんば還らじ」 。 となす孔明の意志を無言に儼示しているものにほかなら...