北上
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袁術をもって、今日より兵糧の奉行とし、諸将の陣に、兵站の輸送と潤沢を計らしめる」 。 それにも、人々は、支持の声を送った。「――次いで、直ちに我軍は、北上の途にのぼるであろう。誰か先陣を承って、汜水関(河北省・汜水)の関門を攻めやぶる者はないか」 。 すると、声に応じて、 。
今朝寅の刻を限って、宮門、離宮、城楼、城門、諸官衙、全市街の一切にわたって火を放ち、全洛陽を火葬に附すであろう。 という命である。 ひとつは、やがて必ず殺到するであろう袁紹や曹操らの北上軍に対する焦土戦術の意味もある。 なににしても、急であった。 その混乱は、名状しようもない。
まず漢室の式微をいい、馬騰の非業の死を切々と弔い、曹操の悪逆や罪状を説くにきわめて峻烈な筆鋒をもってこれを糺し、そして馬超が嘆きをなぐさめかつ激励して、。――貴君にとっては倶に天を戴かざる父の仇敵、四民にとっては悪政専横の賊、漢朝にとっては国を紊し帝威を冒す姦党、それを討たずして武門の大義名分があろうか。ねがわくは君、涼州より攻め上れ、劉玄徳また北上せん。 と、結んであった。 次の日である。
この動きは、すぐ呉に漏れていた。呉ではむしろ期して待っていたような観すらある。 すなわち呉の建業もまた活溌なる軍事的のうごきを示し、輔国大将軍平北都元帥に封ぜられた陸遜は、呉郡の朱桓、銭塘の全琮を左右の都督となし、江南八十一州の精兵を擁して、三道三手にわかれて北上した。 途中、朱桓が、思うところを、陸遜にのべた。「曹休は魏朝廷の一門で、いわば金枝玉葉のひとりであるため揚州に鎮守していましたが、門地と天質とは別もので、必ずしも彼は智勇兼備ではありません。
自国の苦しいときは敵国もまた自国と同じ程度に、或いはより以上、苦しい局面にあるという観察は、たいがいな場合まず過りのないものである。 その前後、魏都洛陽は、蜀軍の内容よりは、もっと深刻な危局に立っていた。 それは、蜀呉条約の発動による呉軍の北上だった。しかもそれはかつて見ないほど大規模な水陸軍であると伝えられたので、 。「魏の安危はこのときにあり」となして、魏帝曹叡は急使を渭水に派して、この際、万一にも、蜀に乗ぜられるような事態を招いたら、それは決定的に魏全体の危殆を意味する。
「あちらの戦況はどうですか」と、まず訊ねた。 費褘は唇に悲調をたたえて語った。「――夏五月頃から、呉の孫権は、約三十万を動員して、三方より北上し、魏を脅かすことしきりでしたが、魏主曹叡もまた合淝まで出陣し、満寵、田予、劉劭の諸将をよく督して、ついに呉軍の先鋒を巣湖に撃砕し、呉の兵船兵糧の損害は甚大でした。ために、後軍の陸遜は表を孫権にささげて、敵のうしろへ大迂回を計ったもののようでしたが、この計もまた、事前に魏へ洩れたため、機謀ことごとく敵に裏を掻かれ、呉全軍は遂に何らの功もあげず大挙退いて...