北方
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さらに、三名は、密議をねって、翌る日の作戦に備えた。 朱雋軍の兵、約半分の数に、おびただしい旗や幟を持たせ、また、銅鑼や鼓を打ち鳴らさせて、きのうのように峡門の正面から、強襲するような態を敵へ見せかけた。 一方、張飛、関羽の両将に、幕下の強者と、朱雋軍の一部の兵を率きつれた玄徳は、峡門から十里ほど北方の絶壁へひそかに這いすすみ、惨澹たる苦心のもとに、山の一端へ攀じ登ることに成功した。 そしてなお、士気を鼓舞するために、すべての兵が山巓の一端へ登りきると、そこで玄徳と関羽は、おごそかなる破邪...
「愈〻いかん」 。 彼の馬首は、行くに迷った。ふたたびゆうべ越えて来た北方の山地へ奔るしかなかった。「すわや、曹操があれに落ちて行くぞ」 。 と、呂布軍は追跡して来た。
一。 大河は大陸の動脈である。 支那大陸を生かしている二つの大動脈は、いうまでもなく、北方の黄河と、南方の揚子江とである。 呉は、大江の流れに沿うて、「江東の地」と称われている。 ここに、呉の長沙の太守孫堅の遺子孫策も、いつか成人して、当年二十一歳の好青年となっていた。
主柱たる劉繇が、どこともなく逃げ落ちてしまってからも、彼は、節を変えず、離散した兵をあつめ、涇県の城にたてこもり、依然として抗戦しつづけていた。 きのうは九江に溯江し、きょうは秣陵に下り、明ければまた、涇県へ兵をすすめて行く孫策は、文字どおり南船北馬の連戦であった。「小城だが、北方は一帯の沼地だし、後ろは山を負っている。しかも城中の兵は、わずか二千と聞くが、この最後まで踏み止まっている兵なら、おそらく死を決している者どもにちがいない」 。 孫策は、涇県に着いたが、決して味方の優勢を慢じな...
しかし、楊大将は反対して、 。「江東を討つには、長江の嶮を渡らねばならん。しかも孫策は今、日の出の勢いで、士気はあがっている――如かず、ここは一歩自重してまず北方の憂いをのぞき、味方の富強を増大しておいてから悠々南へ攻め入っても遅くないでしょう」 。「そうだ。……北隣の憂いといえば小沛の劉備と、徐州の呂布だが」 。
呂布の軍勢は、東から。劉玄徳の兵は西から。 また、曹操は北方の山をこえて、淮南の野を真下にのぞみ、すでにその総司令部を寿春からほど遠からぬ地点まで押しすすめてきたという。 寿春の上下は色を失い、城中の諸大将も、評議にばかり暮しているところへ、またまた、西南の方面から、霹靂のような一報がひびいてきた。 曰く、 。
旅舎の者は、下へもおかないあつかいである。 この都でも、冀州の袁紹と聞けば、誰知らぬ者はない。天下の何分の一を領有する北方の大大名として、また、累代漢室に仕えた名門として、俗間の者ほど、その偉さにかけては、新興勢力の曹操などよりははるかに偉い人――という先入主をもっていた。二。 今しがた禁裏を退出した曹操は、丞相府へもどって、ひと休みしていた。