南鄭
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魏兵は城内へ混み入るなり八方へ火をかけた。夜に入るし、留守は手薄であったため、焔の城頭たかく、たちまち、魏の旗が立てられてしまった。 総司令の張衛は、いち早く、南鄭(陝西省・漢中の一部)へ逃げ落ちてしまい、楊昂は、後方の火の手に愕いて、追撃を止め、あわてて引っ返してくるとその途中、 。「待っていた」とばかり穏れていた許褚の手勢に捕捉されて、完膚なきまでに粉砕され、楊昂自身も、敢なく屍を野にさらしてしまった。 残る楊任も、張衛のあとを追って南鄭関へと逃げのびて行ったが、このみじめな敗戦に、漢...
いくら攻めても、馬超は動かん。あの精悍な男が、こうじっとしたままでいるのは、何か謀略かも知れぬぞ」 。 緒戦の戦果を、後の大きな損害の代償にすまいと、曹洪は大事をとって、一応、南鄭まで兵を退げた。 張郃は面白くない顔をした。「将軍、何だって、せっかくの勝運を、図に乗せないで、退がったのですか」 。
そこを逃しはせじと、張飛はひたむきに追いかけてくる。 これまで、と、馬を乗り捨て、張郃は転ぶように、木の根にすがり、岩にかじりつき、生きた心地もなく、すり傷だらけになって逃げに逃げた。 やっと、追手をのがれてあたりを見ると、自分とともに助かったものは、情けなくも十四、五人、すごすごと南鄭にたどりついた時は、われながら、哀れな姿であった。 曹洪は張郃の敗戦を聞き、火の如く怒って、 。「われ再三、出ることなかれと命じたるに、汝は、勝手に軍令状を書いて、無用なる戦をなし、あまっさえ敗戦あまたた...
「諸人、汝ら両名を老武者とあなどりたるも、孔明はよくその能を知り、敵軍に向わしめた。果たして世にまれなる勲功を立てたるはわが最も喜ぶところなり。漢中の定軍山はすなわち南鄭の要害、敵の兵站基地である。もしこの山を奪わば陽平の一道は、心にかかるところなし、汝らゆきて、これを攻略すべきか、如何」と問われた。 黄忠は欣然として命をうけ、早速に兵を率いて出発せんとすれば、孔明これをとどめていうに、 。
シカレドモ将トシテハ、マサニ勇ヲモッテ本トナシ、コレヲ行ウニ智計ヲ以テスベシ。モシ只ニ勇ニ任ズル時ハ、コレ一愚夫ノ敵ノミ。吾イマ大軍ヲ南鄭(漢中)ニ屯シ、卿ガ妙才ヲ観ント欲ス。二字ヲ辱ムルナクンバ可也(妙才ハ夏侯淵ノ字)。 とあった。
「満身これ胆の人か」 。 と、今さらのように嘆称した。 その後、敵状を探るに、さしもの曹操も、予想外な損害に、すぐ立ち直ることもできず、遠く南鄭の辺りまで退陣して、 。(この敗辱をそそがでやあるべき)と、ひたすら軍の増強を急ぎつつあるという。 ここに巴西宕渠の人で、王平字を子均という者がある。
故にもし臣をして、さらにそれを期せよと勅し給わるならば、不肖、天下の兵馬をひきい、進んで蜀に入って、寇の根を絶ちましょう」 。 帝は、然るべしと、彼の献言を嘉納されんとしたが、尚書の孫資が大いに諫めた。「むかし太祖武祖(曹操のこと)が張魯を平げたもう折、群臣を戒められて、――南鄭の地は天獄たり、斜谷は五百里の石穴、武を用うる地にあらず――と仰せられたお言葉があります。いまその難を踏み、蜀に入らんか、内政の困難をうかがって、呉がわが国の虚を衝いてくることは必然だといえましょう。如かず、なお諸...