四川
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だが。 長沙の乱へは、孫堅を向わせて、平定に努めていた。 また劉焉を益州の牧に封じ、劉虞を幽州に封じて、四川や漁陽方面の賊を討伐させていた。 その頃。 故郷の涿県から再び戻って、代州の劉恢の邸に身を寄せていた玄徳は、主劉恢から(時節は来た。
彼らは、おのおの、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行った。 その分布は。 南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。 継母をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下ったのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といっていい。 そして、やがてそれから七年目。
四道、交通の要衝にあたり、南方とは、貿易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いわゆる天府の地ともいいましょうか。――加うるに、今、あなたにとって、またとなき僥倖を天が授けているといえる理由は――この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子劉琦、劉琮も、凡庸頼むに足りないものばかりです。――益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋は、至って時代にくらく、性質もよくありませ...
かくて、漢中の兵馬が、ひそかに、蜀をうかがっているとき、その蜀は今、どんな状態にあったろうか。 巴蜀。すなわち四川省。 長江千里の上流、揚子江の水も三峡の嶮にせばめられて、天遠く、碧水いよいよ急に、風光明媚な地底の舟行を数日続けてゆくと、豁然、目のまえに一大高原地帯が展ける。 アジアの屋根、パミール高原に発する崑崙山系の起伏する地脈が支那西部に入っては岷山山脈となり、それらの諸嶺をめぐり流れる水は、岷江、金沱江、涪江、嘉陵江などにわかれては、またひとつ揚子江の大動脈へ注いでくる。
実に遠い旅行だった。張松は日を経て、ようやく故国益州へ帰ってきた。 すでに首都の成都(四川省・成都)へ近づいてきた頃、道のかたわらから、 。「やあ、ようこそ」 。「ご無事で何よりだった」 。
孟達も、眼をもって意中の会釈をした。 さきに法正がもたらした返辞によって、玄徳が来援を承諾したと聞き、大守劉璋は無性に歓んでいたらしく、道々の地頭や守護人に布令て、あらゆる歓待をさせた。 そのうえ彼自身、成都を出て、涪城(四川省・重慶の東方)まで出迎えると、車馬、武具、幔幕など、ここを晴と準備していた。「危険です。見ず知らずな国から来た五万の軍中へ、自らお出であるなどとは」 。
一。 葭萌関は四川と陝西の境にあって、ここは今、漢中の張魯軍と、蜀に代って蜀を守る玄徳の軍とが、対峙していた。 攻めるも難、防ぐも難。 両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。