四川
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「四川」登場回数
合計: 20回「四川」が登場する場面
7件この一戦
よし、さらば立て」 。 帝玄徳は、断乎として、ここに初めて、帷幕から令を降した。 ところへ、南蛮の沙摩柯が、蛮土の猛兵数万をしたがえて参加するし、洞渓の大将杜路、劉寧のふたりも手勢を挙げて加わったので、全軍の戦気すでに呉を呑み、水路の軍船は巫口(四川省・巫山)へ、陸路の軍は秭帰(湖北省・秭帰)あたりまで進出した。 逆まく長江の波、頻々、伝わる上流の戦雲に対し、呉は、 。 ――国難来る。
上・中・下
一。 葭萌関は四川と陝西の境にあって、ここは今、漢中の張魯軍と、蜀に代って蜀を守る玄徳の軍とが、対峙していた。 攻めるも難、防ぐも難。 両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。
乱兆
だが。 長沙の乱へは、孫堅を向わせて、平定に努めていた。 また劉焉を益州の牧に封じ、劉虞を幽州に封じて、四川や漁陽方面の賊を討伐させていた。 その頃。 故郷の涿県から再び戻って、代州の劉恢の邸に身を寄せていた玄徳は、主劉恢から(時節は来た。
出廬
四道、交通の要衝にあたり、南方とは、貿易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いわゆる天府の地ともいいましょうか。――加うるに、今、あなたにとって、またとなき僥倖を天が授けているといえる理由は――この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子劉琦、劉琮も、凡庸頼むに足りないものばかりです。――益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋は、至って時代にくらく、性質もよくありませ...
呉の外交
命をうけると、諸葛瑾はすぐ江船の奉行に帆支度をいいつけ、書簡を奉じて長江を溯った。 とき、章武元年の秋八月であった。 その頃、蜀帝玄徳は、すでに大軍をすすめて、虁関(四川省・奉節)に着き、その地の白帝城を大本営として、先陣は川口の辺りまで進出していた。 ところへ呉の使者として諸葛瑾が来たのである。玄徳にはもう会わないうちに呉の肚は読めていた。
孔明・三擒三放の事
――始終を聞き取ってから孔明ははじめて彼に親しみを見せた。そして心からその恭順を歓迎し、また贈り物を眺めては、あらゆる随喜と満足を表明した。かつ席をあらためて、酒宴をひらき、成都の美酒、四川の佳肴、下へもおかずもてなした。 昼からである。暮れれば楽人楽を奏し蜀兵は舞って興を添えた。
敗将
魏延、雷同を両翼とした態勢もよかったのだ。逃げ足立った敵を追いまくり、切りふせ、蹴ちらして、凱歌は到るところにあがった。 張郃が自信満々に構えた三ヵ所の陣は、またたく間に打ち破られ、三万余騎の兵力も、遂に二万余人を失って、張郃自身、かろうじて瓦口関(四川省)にまで落ちのびて行った。 痛快極まる勝ち戦は、張飛の鬱積を吹きとばして、なおあまりがあった。早速に早馬を仕立てさせ、使者を成都の玄徳に送った。