太子
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帝もまた、何后の生んだ弁よりも、協に不愍を感じて偏愛されていた。 で、十常侍の蹇碩などが、時々そっと帝の病褥へ来てささやいた。「もし、協皇子を、皇太子に立てたいという思し召ならば、まず何后の兄何進から先に誅罰なさらなければなりません。何進を殺すことが、後患をたつ所以です」 。「……ウム」 。
と答えると、曹操は急に黙って、喜ぶ色を潜めてしまった。 なぜというに、楊修の才には、曹操もほとほと感心しながら、余りに、自分の意中をよく読み知るので、その感嘆もいつか妬みに似た忌避となり、遂には彼の才能にうるさいような気持を抱くようになっていたからである。 魏王の位についてからの曹操は当然、次の太子は誰に譲ろうかと、わが子をながめていた。ある時、彼は侍側の臣に命じて、 。(明日、長男の曹丕と、三男の曹子建とを、鄴城へ招き呼ぶが、ふたりが城門へ来たら、決して通すな)といいつけておいた。
建安二十四年の秋七月。 沔陽(陝西省・漢中の西方)に式殿と九重の壇をきずいて、五色の幡旗をつらね、群臣参列のうえ、即位の典は挙げられた。 同時に、嫡子劉禅の王太子たるべき旨も宣せられた。 許靖をその太傅とし、法正は尚書令に任ぜられた。 軍師孔明は、依然、すべての兵務を総督し、その下に、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の五将をもって、五虎大将軍となす旨が発布され、また魏延は、漢中の太守に封ぜられた。
なぜならば関羽は彼の叔父だからである。 孟達はその顔色を読んで、 。「あなたは劉家のご養子ですから、本来、漢中王の太子たるに、それを邪げた者は関羽でした。始め、その儀について、漢中王が孔明に訊ねたところ、孔明は悧巧者ですから、一家の事は関羽か張飛にご相談なさい――と巧く逃げた。で、関羽へお訊ねが行ったところ関羽は――太子には庶子を立てないのが古今の定法である。
とある古書の記述もあながち誇張ではなかったに違いない。 時に、侍側の司馬孚は、 。「太子には、いたずらに悲しみ沈んでおられる時ではありません。また左右の重臣たちも、なぜ嗣君を励まして、一日も早く治国万代の政策を掲げ、民心を鎮め給わぬか」 。 と、さも腑甲斐なき人々よと云わんばかりにたしなめた。
「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨淄侯曹植様には、丁儀、丁廙などという寵臣を侍らせて、前の夜からご酒宴のようでした。それはまアよいとしても、かりそめにも御兄上魏王の令旨をもたらして参った使者と聞いたら、口を含嗽し、席を清めて、謹んでお迎えあるべきに、座もうごかず、杯盤の間へ私を通し、あまつさえ臣下の丁儀が頭から使者たる手前に向って……汝、みだりに舌を動かすな。そもそも、先王ご存命のとき、すでに一度は、わが殿、曹植の君を太子に立てんと、明らかに仰せ出されたことがあったのだ。しかるに、...
蜀の章武元年七月の上旬、蜀軍七十五万は、成都を発した。 このうちには、かねて南蛮から援軍に借りうけておいた赤髪黒奴の蛮夷隊もまじっていた。「御身は、太子を傅して、留守しておれ」と、孔明は成都に残した。 馬超、馬岱の従兄弟も、鎮北将軍魏延とともに、漢中の守備にのこされた。ただし漢中の地は、前線へ兵糧を送るためにも、重要な部署ではあった。