安徽
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肉薄く色白く、細眼長髯、胆量人にこえ、その眸には、智謀はかり知れないものが見えた。 声静かに、名乗っていう。「われは沛国譙郡(安徽省・毫県)の生れで、曹操字は孟徳、小字は阿瞞、また吉利ともいう者です。すなわち漢の相国曹参より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹崇が嫡男なり。洛陽にあっては、官騎都尉に封ぜられ、今、朝命によって、五千余騎にて馳せ来り、幸いにも、貴軍の火攻めの計に乗じて、逃ぐる賊を討ち、賊徒の首を討つことその数を知らないほどです。
年二十で、初めて洛陽の北都尉に任じられてから、数年のうちにその才幹は認められ、朝廷の少壮武官に列して、禁中紛乱、時局多事の中を、よく失脚もせず、いよいよその地歩を占めて、新旧勢力の大官中に伍し、いつのまにか若年ながら錚々たる朝臣の一員となっているところ、早くも凡物でない圭角は現れていた。 竹裏館の秘密会で、王允もいったとおり、彼の家柄は、元来名門であって、高祖覇業を立てて以来の――漢の丞相曹参が末孫だといわれている。 生れは沛国譙郡(安徽省・毫県)の産であるが、その父曹嵩は、宮内官たりし職...
「行けや、徐州へ」と、十万余騎は、その日に南陽の地を立った。 大将は、紀霊将軍だった。 一方、南下して来た玄徳の軍も、道を急いで来たので、両軍は臨淮郡の盱眙(安徽省・鳳陽県東方)というところで、果然、衝突した。 紀霊は、山東の人で、力衆にすぐれ、三尖の大刀をよく使うので勇名がある。「匹夫玄徳、なにとて、わが大国を侵すか。
どうしてここへ来たか」 。 なつかし気に孫策も馬を下りて、手を握り合った。 彼は盧江(安徽省)の生れで、周瑜字を公瑾といい、孫策とは少年時代からの竹馬の友だったが、その快挙を聞いて、共に助けんと、ここまで急いで来たのだと語った。「持つべきものは友だ。よく来てくれた。
一。 牛渚(安徽省)は揚子江に接して後ろには山岳を負い、長江の鉄門といわれる要害の地だった。「――孫堅の子孫策が、南下して攻めて来る。」 。
――聞けば、いつのまにやら、敵は一部の兵力を分けて、曲阿へ向け、曲阿方面から劉繇の本城――霊陵城のうしろを衝いていた。 その上に。 ここにまた、盧江松滋(安徽省・安慶)の人で、陳武、字を子烈というものがある。陳武と周瑜とは同郷なので、かねて通じていたものか、 。(時こそ来れ。
× × × 。 時に。 その後の袁術の勢力はどうかというに、彼もまた淮南を中心に、江蘇、安徽一帯にわたっていよいよ強大を加え、しかも内心不敵な野望を抱いていたから、軍備城塞にはことに力を注いでいた。「今日、この議閣に諸君の参集を求めたのはほかでもないが、今となって孫策から、にわかに、伝国の玉璽を返せと云ってきた。――どう答えてやったものだろうか。