宜昌
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と荀彧らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、 。「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。 ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、 。「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。 ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。
崔禹は生捕られ、部下は大打撃をうけて、なだれ帰ってきた。朱然は周章して、その晩のうちに船手の総勢を、五、六十里ほど下へさげてしまった。 一度ならず二度まで敗北した孫桓は、陣営ことごとく敵に焼かれて、無念のまなじりをあげながらやむなく夷陵の城(湖北省・宜都、宜昌の東北)へ退却した。 蜀は仮借なくこれを追い込み、崔禹の首を刎ねて、いよいよ威を示した。そして序戦二回の大敗報は、やがて呉の建業城中を暗澹とさせた。