屯田
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袁紹の謀臣、沮授なども、同じ先見を抱いて、袁紹にその計をすすめたこともあるが、袁紹の優柔不断な性格がぐずぐずしているまに、機を逸して曹操に先を越されてしまい、歴代漢朝の名門でありながら、その強大な勢力も今では地方的な存在に置きかえられてしまったのである。 荀彧は、内治の策にも、着々と功績をあげてきた。 許都を中心に、屯田策を採用し、地方の良民のうえに、さらに人望のある戸長を用い、各州郡に田官というものをおいて、その単位を組織し善導し、大いに農耕を奨励したりしたので、一面戦乱のなかにありなが...
しかし彼は無為にとどまっていなかった。その間に、食糧問題の解決と、占領地の宣撫にかかった。 屯田兵制度をつくり、兵をして田を作らせ、放牧に努めさせた。けれどその屯田兵は、すべて魏の百姓に立ちまじって、百姓の援けをなすものということを原則として、収穫は、百姓がまず三分の二を取り、軍はその一を取るという規則であった。 一、法規以上を追求して、百姓に苛酷なる者。
しかも、彼は孔明のその一活路をすら観破している。さすがの孔明も完く無反応な辛抱づよい敵にたいしては計の施しようもなかった。さきに祁山、渭南の地方にわたって、大いに撫民に努め、屯田自給の長計をたてて、兵糧にはさして困らないほどにはなっているものの、かくてまた、年を越え、また年を越えて、連年敵地に送っているまには、魏の防塁と装備は強化するばかりとなろう。「――これを持って、魏陣へ使いし、確と、仲達に渡してこい」 。 一日、孔明は、一使を選んで、自筆の書簡と、美しき牛皮の匣とを託した。