巣湖
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自分の領下に、そういう人がおろうとは」 。「仕官するのを好まないようです。魯粛の友人の劉子揚というのが、巣湖へ行って鄭宝に仕えないかとしきりにすすめている由ですが、どんな待遇にも、寄ろうとしません」 。「周瑜、そんな人が、もしほかへ行ったら大変だ。ご辺が参って、なんとか、召し出してきてくれないか」 。
孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、その居府を、建業(江蘇省・南京)へ遷した。 かくてその地には、白頭城が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。 また、呂蒙の意見を容れて、濡須(安徽省・巣湖と長江の中間)の水流の口から一帯にかけて、堤を築いた。これに使役される人夫は日々数万人、呉の国力の旺なることは、こうした土木建築にも遺憾なくあらわれた。 もちろんこれは、やがて来るべきものに対する国防の一端である。
そして曹叡みずからは、満寵そのほかの大将を従えて、合淝の城へ進出した。 この防呉作戦については、叡帝親征の事が決る前に、その廟議でも大いに議論のあった所であるが、結局、先帝以来、不敗の例となっている要路と作戦を踏襲することになったものである。 先陣に立った満寵は、巣湖の辺まできて、はるか彼方の岸を見ると、呉の兵船は、湖口の内外に、檣頭の旗をひるがえして、林の如く密集していた。「ああ旺なものだ。魏と蜀は、ここ連年にわたって、祁山と渭水に、莫大な国費と兵力を消耗してきているが、呉のみは独りほとん...
しかも、蜀呉条約というものがあるので、蜀から要請されると無礙に出兵を拒むこともできない。――で、出兵はするが、魏へ当ってみて、 。「これはまだ侮れぬ余力がある――」と観たので、陸遜は、巣湖へ捨てた損害の如きはなお安価なものであるとして、さっさと引揚げてしまったものであった。 それにひきかえて蜀の立場は絶対的である。小安をむさぼって守るを国是となさんか、たちまち、魏呉両国は慾望を相結んで、この好餌を二分して頒たんと攻めかかって来るや必せりである。
「あちらの戦況はどうですか」と、まず訊ねた。 費褘は唇に悲調をたたえて語った。「――夏五月頃から、呉の孫権は、約三十万を動員して、三方より北上し、魏を脅かすことしきりでしたが、魏主曹叡もまた合淝まで出陣し、満寵、田予、劉劭の諸将をよく督して、ついに呉軍の先鋒を巣湖に撃砕し、呉の兵船兵糧の損害は甚大でした。ために、後軍の陸遜は表を孫権にささげて、敵のうしろへ大迂回を計ったもののようでしたが、この計もまた、事前に魏へ洩れたため、機謀ことごとく敵に裏を掻かれ、呉全軍は遂に何らの功もあげず大挙退いて...