広陵
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「広陵」登場回数
合計: 13回「広陵」が登場する場面
7件偽帝の末路
「あっ伯父上」 。 袁胤はすがりついて、声かぎり呼んだが、それきり答えなかった。 泣く泣く彼は袁術の屍を埋め、ひとり盧江方面へ落ちて行ったが、途中、広陵の徐璆というものが、彼を捕えたので、その体を調べてみると、意外な物を持っていたのを発見した。 伝国の玉璽である。「どうして、こんな物を所持しているか」 。
具眼の士
孫権は、言下に、 。「まず、総勢三十万を発し、居巣門から魏の合淝、彩城を取る。また陸遜、諸葛瑾らに江夏、沔口を撃たせて襄陽へ突入させ、孫韶、張承などを広陵地方から淮陽へ進ませるであろう」 。 と、平常の怠りない用意をほのめかして掌を指すように語った。 酒宴となって、くつろいだ時である。
建艦総力
龍骨の長さ二十余丈、兵二千余人をのせることができる。これを龍艦と呼び、十数隻の進水を終ると、魏の黄初五年秋八月、他の艦艇三千余艘を加えて、さながら「浮かべる長城」のごとく呉へ下った。 水路は長江によらず、蔡・潁から湖北の淮水へ出て、寿春、広陵にいたり、ここに揚子江をさしはさんで呉の水軍と大江上戦を決し、直ちに対岸南徐へ、敵前上陸して、建業へ迫るという作戦の進路を選んだのであった。 一族の曹真は、このときも先鋒に当り、張遼、張郃、文聘、徐晃などの老巧な諸大将がそれを輔佐し、許褚、呂虔などは中軍...
殺地の客
糜竺はもともと外交の才があり臨機の智に富んでいる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城きっての豪商であった。――いまは遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄い、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたるまで、もっぱら玄徳軍の財務経理を担当して来たという帷幕の中でも一種特異な人材であった。「そちが行ってくれれば申分はない。頼むぞ」 。
母と妻と友
大雨の夜だった。 淮陰の河口は大水があふれて、紀霊軍も追撃することはできなかった。その暴風雨の闇にまぎれて、玄徳は、盱眙の陣をひきはらい、広陵の地方へ落ちて行った。 高順の三万騎が、ここへ着いたのは翌る日だった。みれば、草はみな風雨に伏し、木は折れ、河はあふれて、人馬の影はおろか、陣地の跡に一塊の馬糞もなかった。
淮河の水上戦
徐盛は憤怒したが、さりとて見殺しにもできない。でにわかに、丁奉軍四千を、救援として、追いかけさせた。 その日、魏の大艦船隊は、広陵まで進んでいた。 先鋒の偵察船は、河流を出て揚子江をうかがったが、水満々たるのみで、平常の交通も絶え、一小船の影も見えない。曹丕は、聞くと、 。
陳大夫
今のことばを忘れないように」 。 と曹操と陳登は、盞をあげて、誓いの眸を交わした。 曹操は、その後、朝廷に奏し、陳登を広陵の太守に任じ、父の陳珪にも老後の扶持として禄二千石を給した。 その頃。 淮南の袁術のほうへは、早くも使臣の韓胤が、許都の辻で馘られたという取沙汰がやかましく伝えられていた。