斜谷
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時すでに陽平関は炎につつまれていた。敗れては退き、敗れては退き、各前線からなだれ来る味方は、関の内外に充満し、魏王曹操の所在も、味方にすら不明だった。「すでに、北の門を出、斜谷をさして、退却しておられる」 。 と味方の一将に聞いて、許褚は事態の急に愕きながら、ひたすら主君を追い慕った。 曹操は、その扈従や旗本に守られて、陽平関を捨ててきたが、斜谷に近づくと、彼方の嶮は、天をおおうばかりな馬煙をあげている。
一。 ここまでは敗走一路をたどってきた曹操も、わが子曹彰に行き会って、その新手五万の兵を見ると、俄然、鋭気を新たにして、急にこういう軍令を宣した。「ここに斜谷の天嶮あり、ここに北夷を平げて、勇気凜絶の新手五万あり、加うるに、わが次男曹彰は、武力衆にすぐれ、この父の片腕というも、恥かしくない者である。こう三つの味方を得た以上は、盛りかえして、玄徳をやぶることも、掌中の卵をつぶすようなものだ。いざ斜谷に拠って、このあいだからの敗辱を一戦にそそごうではないか」 。
そう運べば、多年の宿志も一鼓して成るべしと、すぐさま呉の代表を送って、曹操に書簡を呈し、魏呉不可侵条約、ならびに軍事同盟の締結をいそいだ。 呉の外交官の一行が、入府したとき、曹操は歯医者を招いて入れ歯をさせていた。斜谷の乱軍中に口へ鏃をうけて、その折欠けた二本の前歯の修繕ができた日だったのである。「できたできた。これでもう声も漏れないし、なんでも噛める」 。
「ここと長安の間は、長駆すれば十日で達する距離です。もしお許しあれば、秦嶺を越え、子午谷を渡り、虚を衝いて、敵を混乱に陥れ、彼の糧食を焼き払いましょう。――丞相は斜谷から進まれ、咸陽へ伸びて出られたら、魏の夏侯楙などは、一鼓して破り得るものと信じますが」 。「いかんなあ」 。 孔明は取り上げない。
彼の言は、孔明の心を、掌にのせて解説するようだった。英雄、英雄を知るものかと、張郃は聞き恍れていた。「――察するに、彼は斜谷(郿県の西南三十里・斜谷関)へ出て、郿城(陝西省・郡県)を抑え、それより兵をわけて、箕谷(府下城県の北二十里)に向うであろう。――で、わが対策としては、檄をとばして、曹真の手勢に一刻も早く郿城のまもりを固めさせ、一面箕谷の路には奇兵を埋伏して、彼がこれへ伸びてくるのを破砕し去ることが肝要だ」 。「そして、都督のご行動は」 。
故にもし臣をして、さらにそれを期せよと勅し給わるならば、不肖、天下の兵馬をひきい、進んで蜀に入って、寇の根を絶ちましょう」 。 帝は、然るべしと、彼の献言を嘉納されんとしたが、尚書の孫資が大いに諫めた。「むかし太祖武祖(曹操のこと)が張魯を平げたもう折、群臣を戒められて、――南鄭の地は天獄たり、斜谷は五百里の石穴、武を用うる地にあらず――と仰せられたお言葉があります。いまその難を踏み、蜀に入らんか、内政の困難をうかがって、呉がわが国の虚を衝いてくることは必然だといえましょう。如かず、なお諸...
姜維の一言に孔明も大いに悟るところがあった。一転、彼は方針をかえた。 すなわち、陳倉の谷には、魏延の一軍をとどめて、対峙の堅陣を張らせ、また、近き街亭方面の要路には、王平と李恢に命じて、これを固く守らせておいて、孔明自身は、夜ひそかに陳倉を脱し、馬岱、関興、張苞などの大軍をつれて遠く山また山の間道を斜谷を越え、祁山へ出て行ったのである。 一面。――魏の長安大本営では、大都督曹真が、王双からの捷報を聞いて、 。