昆明
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汝の言は、理としては聞えるが、尊ぶには足らん」 。 蜀帝の決意は固かった。 その後、蜀帝の勅使は、ひそかに南蛮(雲南・昆明)へ往来した。 そして南蛮兵五万余を借り出すことに成功を見た。 その間に、張飛の一身に一奇禍が起った。
すでにして、益州の南部に入った。山川は嶮しく気候は暑く、軍旅の困難は、到底、中原の戦とは較べものにならない。 建寧(雲南省・昆明)の太守は雍闓という者であったが、彼はすでに反蜀聯合の一頭目をもって自負し、背後には南蛮国の孟獲とかたく結び、左右には越雋郡の高定、牂※郡の朱褒と一環の戦線を形成して、 。「孔明が自ら来るとは望むところだ」 。 と、まず六万の軍を、その通路へ押し出してもみ潰さんと待ちかまえていた。
弟の孟優も朶思大王も、同時に免した。三名は馬を貰って、愧ずるが如く、逃げ帰った。 そもそも、孟獲の本国、南蛮中部の蛮都は、雲南(昆明)よりはもっと遥か南にあった。そして、蛮都の地名を銀坑洞とよび、沃野広く三江の交叉地に位置しているという。 これを現今の地図で測ると、もとより千七百年前の地名は遺されていないが、南方大陸の河流から考察するに、仏領印度支那のメコン河の上流、また泰国のメナム河の上流、ビルマのサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょう...