東北
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かくて、仕掛けた奇襲は、反対に受け身の不意討ちと化した。隊伍は紛裂し、士気はととのわず、思い思いの敵と駈けあわすうち、敵の東のほうからは張遼の一陣、西のほうからは許褚、南からは于禁、北からは李典。また東南よりは徐晃の騎馬隊、西南よりは楽進の弩弓隊、東北よりは夏侯惇の舞刀隊、西北よりは夏侯淵の飛槍隊など、八面鉄桶の象をなしてその勢無慮十数万――その何十分の一にも足らない張飛、玄徳の小勢をまったく包囲して、 。「一匹も余すな」と、ばかり押しつめてきた。 さしもの張飛も鐙に無念を踏んで、 。
徐晃は、一隊をひいて、駈け戻って行ったが、間もなく、敵の呂蒙、凌統の兵を蹴ちらして、重囲の中から張遼を助け出して帰ってきた。二。 そこで曹操主従はまた一団になって、東北へ東北へとさして落ちのびた。 すると、一彪の軍馬が、山に拠って控えていた。「敵か」と、徐晃、張遼などが、ふたたび苦戦を覚悟して物見させると、それはもと、袁紹の部下で、後、曹操に降り、久しく北国の一地方に屈踞していた馬延と張顗のふたりだった。
「それはあいにくなことだ。荊州はすでに治安秩序も定まり、官職の椅子も今は欠員がない。――ただここから東北地方の田舎だが、耒陽県の県令の職がひとつ空いておる。もしそこでもと望むならば、赴任して見らるるがよい」 。「田舎の県令ですか。
崔禹は生捕られ、部下は大打撃をうけて、なだれ帰ってきた。朱然は周章して、その晩のうちに船手の総勢を、五、六十里ほど下へさげてしまった。 一度ならず二度まで敗北した孫桓は、陣営ことごとく敵に焼かれて、無念のまなじりをあげながらやむなく夷陵の城(湖北省・宜都、宜昌の東北)へ退却した。 蜀は仮借なくこれを追い込み、崔禹の首を刎ねて、いよいよ威を示した。そして序戦二回の大敗報は、やがて呉の建業城中を暗澹とさせた。
馬謖は、副将王平と共に、二万余の兵力を与えられて、街亭へ急いだ。 それを見送って、一日おくと孔明はまた、高翔をよんで、一万騎をさずけ、 。「街亭の東北、その麓のかたに、列柳城という地がある。ご辺もそこへ進んで、もし街亭の危うきを見ば、すぐ兵をあげて、馬謖をたすけよ」と、命じた。 孔明にはなおどこやら安心し切れないものがあったのである。
約半歳余の慎重な再備と軍紀に結集された蜀の士馬三十万を直ちに起して、陳倉道へ向って進発した。 この年、孔明四十八歳。――時は冱寒の真冬、天下に聞ゆる陳倉道(沔県の東北二十里)の嶮と、四山の峨々は、万丈の白雪につつまれ、眉も息も凍てつき、馬の手綱も氷の棒になるような寒さであった。三。 魏の境界にある常備隊は、漢中のうごきを見るや、大いに愕いて、 。